似たような趣味を持つ家族に「劣等感の塊書くのうまいよね」と言われましたがギリギリ致命傷で済みましたことよ()
「……んぇ、朝……」
パニックで醜態を晒した翌日、自分にしてはずいぶんな寝坊をした。
時刻は9時半。いつもなら祖母との茶飲み話も終わって、課題に手を付けるか絵を描くかの二択に勤しんでいる頃。
朝食の時間になればどれだけ抵抗しようが布団を剥ぎ取ってカーテンを開け、容赦なく全身に日光を浴びせてくるはずなのに、今日に限って祖母は来ていなかった。
「
そんなわけがあるかと脳の片隅がツッコミを入れるが、祖母だって人間だ。どれだけ自分に厳しくても時には寝坊することくらいあるだろうと納得する。それでも囁くような違和感は階段を降りる足を慎重にするには十分だった。
「……口論してる?」
玄関の方から聞こえてくるのは祖母の冷たい声。あまりよく聞こえないが、誰かを追い返そうとしているような口振りだ。
そろり、そろりと陰から顔を出して————
「それで? ウチに子供がいるだなんて何処をどう見たらそう思えるんだい」
「けど、確かにこっちの方に走って行って……」
「根拠としちゃ弱いね。そも途中で見失ってんだろう?」
見覚えのあるストレートの黒髪と耳が見えて、慌てて息を潜めた。忘れるはずもない、あの時絵を見てきたウマ娘だった。
隣にはウマ娘が2人と、大人の男の人が一人。特にウマ娘の片方は歳が近いとは思えないくらいの威圧感みたいなのがあって、正面から見つめられたら動けなくなってしまいそうだ。
手には昨日置いて行ってしまった手荷物と水筒があって、どうやらここを突き留めて返しに来たみたいだった。
「生憎、ウチにガキなんざいないよ。とっとと帰んな」
「けど、この辺で人が住んでる家ってここだけで……!」
「居ないと言ったら居ない。座敷童か何かでも見たんじゃないのかい」
祖母はやたらに強情だった。いつもだったら僕を呼びつけて矢面に引きずり出しても可笑しくないのに、今日に限って不機嫌そうに追い返そうとしている。いつも厳しくてしかめっ面をしている人だけど、あんな風に他人に当たるような態度で接することは無い。
思い当たるのは自分自身のトラウマ。同学年の女の子にかなりキツく詰られてから、今に至るまで同世代の異性がとことん苦手だった。
一対一でも身が竦む。二人相手だと喋れなくなる。三人いたらもうダメだ、その場で頽れて動けなくなる。
「仮にお前さんが見た坊主がウチに居たとしてどうするんだい。雁首揃えてカチ込むような真似して、お礼参りでもしようってかい?」
「そんなこと……!」
「傍から見りゃそうだって言ってんだよ。
(……やっぱりわざと、だよね)
手を振って帰れと催促しているが、祖母は普段あんな仕草はしない。
いつも背筋を伸ばして両手をお腹の当たりに置いて歩くような人だ。どれだけ気が立ってたってあんな風に腕を組んで足踏みまでして不機嫌を表に出すような人じゃない。
しばらく黙ってにらみ合っていると、向こうの方が先に折れたのか踵を返す。
「一度帰ろう、ドーベル」
「でも……」
「今回は仕方がない。俺たちがやり方を間違えたんだ」
「……」
ドーベル。それがあの黒髪の子の名前らしい。
ご迷惑おかけしました、なんて礼儀正しく謝って、4人の来訪者は帰っていった。
玄関の戸が閉まり、音が遠ざかったのを確認してから顔を出す。
祖母はじろりと此方を見ると、それまで崩していた体勢をぴしりと整えて溜め息をついた。
「……アンタ、やっぱり隠してたかい」
「う……へへ、隠してたわけじゃ、ないんだけど……僕が驚いて、逃げてきちゃっただけだし……」
「だとしてもアンタを脅かすような真似したんだろう? よりにもよってメジロの連中に目付けられるとは、本当に災難だね」
「メジロ……」
レースにあんまり興味のない僕でも知ってる、ものすごく大きな家だ。うちはあくまでも普通の家だったはずだし、そんなところと祖母が何か因縁でもあるようには思えない。
「謝っても謝られても後が面倒で仕方ない。本当に面倒なとこだよ……ったく、腐れ縁も此処までくると頭抱えたくなる。30年は昔にようやく切れたと思ってたんだが」
「……」
前言撤回、かなりの因縁があるようで。引きつり笑いが数割増しで悪化しているのを感じていると、祖母は鋭い視線でこっちを射抜いてきた。
「アンタもアンタだ。今回は頭数揃えてたから追い返したけどね、いつまでも座して待ってるなんて卑怯な真似はさせないからね」
「う……はい、ごめんなさい」
もしかしたらまたあの子が来て、昨日の荷物を全部届けてくれるかも……なんて。そんな甘ったれた性根をこの人が見過ごす訳が無かった。
祖母が僕をあの子達から隠したのは、僕のトラウマを知っていたから。大人数で押しかけてきたから庇ってくれたのであって、いくらパニックを起こしたとはいえ自分の忘れ物を他人に持ってこさせるような怠慢を許す人じゃない。
「これで性懲りもなく寄って集るような真似するんならこっちだって考えるさね。けどまぁ、あの調子なら問題ないだろうさ」
「ほ、本当に……?」
「メジロのバカ娘とちょいとばかし因縁があってねぇ。あの家の連中は強情だが言われたことはきっちり守る、よっぽど察しが悪くなけりゃちゃんと一人で来るさ」
なら大丈夫か、と安心しようとして。
知らず、手に力が入る。あの日のトラウマが、埋め立てたはずの心の奥底から這い出している。
――――気持ち悪い
――――近寄らないでよ
――――何見てるの
怖い。女の子が怖い。
一方的に詰られた時の恐怖が山びこみたいに響いて身が竦む。
「怖いかい」
「……うん」
「本ッ当に……」
どうしてこうなるまで、と祖母はぼやいた。頭をポンポンと軽く撫でて、それから少し力を入れて背を叩いてくる。
「しゃんとおし。アンタを虚仮にした連中は此処に居ないよ。アンタの絵にはちゃんと力がある。胸張りな。怖いからって目瞑ってたら猶更怖くなるよ」
トラウマが辛いのなんて百も承知。辛くなければトラウマにはならない。そして、いいや、だからこそ思い起こす心の傷にはちゃんと向き合わなくちゃいけない。それが祖母のスタンス。
どこまでも強い人で、荒れ地に咲く花みたいな人で、ずっと憧れてきた人。
「1時間やる。アタシが付いてく必要あるかどうか、しっかり悩みな」
「……ありがとう、祖母ちゃん」
恐怖に一人で立ち向かえるのか、支えはもう要らないのか。言い方はキツいけど、これが祖母なりの気の遣い方だというのはよく知っていた。
結局、色々考えた果てに最初は一人で行ってみることにした。
「本当に大丈夫かい」
「う、うん……へへ、へ」
「…………その青い顔で言われてもねぇ」
祖母に迷惑を掛けたくなかったというのはあるけれど、冷静にあの子の姿を思い返してみればいきなり食って掛かるような性格ではないのは確かで、そうであれば多少はちゃんと話せるかな、と見積もったからだ。
それに、理由はもう一つ。
「こ、怖いけどさ。でも……言ってくれたんだ。凄いって」
――――すご、どうやってアイデア出したんだろ
引いただけかもしれない。あるいは、
「僕の絵、初めて見て……面食らわなかったの、あの子だけだったから……褒めてくれたから、あの時逃げちゃった分……せめて、礼儀はしっかりしたいな、って……へへ」
「……アンタの将来が心配になるよ」
「ご、ごめんなさい」
「謝らなくていい。行ってきな」
溜め息を一つ、頭痛を堪えるような素振りをした後、祖母は玄関で僕を見送った。
「へへ、へ」
引きつり笑いは今日も今日とて絶好調。一歩を踏み締めるたびに足は重くなって、今や鉛の塊でも括りつけたんじゃないかってくらいになっている。
「へへ、う、ぅ」
褒められたから、真っ直ぐ向き合いたい。そう覚悟した。
生真面目でしっかりした子みたいだし、突然詰ってくることはないはず。そう仮定した。
そこまでは良いけど、やっぱり怖くて怖気づく。
散々だった中学の頃。何処にも居場所が無かった3年間。怯えて蹲って、傷つき続けるプライドを庇うのにいっぱいいっぱいで。褒められたくて描いてたわけじゃないはずなのに、いつも頭の片隅には褒められる絵を描こうって気持ちが消えてくれなかった。
「褒めてくれた、もんね、へへ」
だから、まぁ。
浮ついてるんだろう、僕は。
渇き続けた承認欲求をほんの少しだけ満たしてくれた、名前と顔しか知らない女の子に縋っている。なんて浅はかで醜悪な人間なんだろうか。
礼儀はちゃんとしたいなんて嘘っぱちもいい所。ちゃんと対面して、ちゃんと引かれて、そして、
「だって、怖いよ」
女の子は怖い。
僕の絵を見た人全員が怖い。
全部、全部怖い。
これ以上怖いと思うものを増やしたくない。だから、これっきり。
もう二度と誰にも褒められないように、何処かへ行ってしまうために、けじめを付けに行くんだ。
そこまで考えて、ようやく体の震えは消えていた。
◇
あの瞬間の怯え切った目は、しばらく忘れられそうになかった。
――――み、みみ、見た!?
大げさなくらいの叫び声。距離を取ろうとして勢い余っての横転。そしてどもるような言い方。
その怖がり様には流石に思うところがあって。きっとこれは逆効果なんだろうなという変な確信があるまま、トレーナーと二人でのはずが事情を話したら付いてきたラモ―ヌさんとライアンも一緒になってメジロの一員として忘れ物を届けると共に謝りに行った。
そうしたら家の主なのだろうお婆さんに散々に追い払われて。でも、そのことに納得している自分が居る。
――――用があるなら一人で来な
ああまったくもってその通りだと、心の奥底で頷いてしまった。結局私は一人で男の子に会うのが怖くて援軍を募ったんだ。
恐怖は消えない。どれだけ慣れても、それは結局慣れただけ。染みついたものが簡単に消えてくれるわけは無くて、尻込みした。
「「あ」」
だから、これは全くの想定外。
少し時間を置いて頭の中を整理してから行こうと考えて、その前にいったい何を見ながらあの絵を描いていたのかを知りたくて例の場所に一人で来ていたら、そこに件の男の子も来ていて。
図らずも今はお互い丸腰で、援軍なんてどこにも居なかった。
「あ、ええっと……」
「ぅあ、へ、へへ……どうも……」
引きつったような笑い方、あちこち跳ねた癖毛、自信無さげに曲がった背筋。トレセン学園ではあまり見ない姿だ。あそこにいるのは、何かしらの芯があるような人ばかりだから。
心が身なりに出ているとでも言えば良いのか。その姿は、一度完膚なきまでに
「その……」
「……」
「あぇ、へへ、ごめんなさい……」
「え? あぁ……えっと……」
お互い何が何やら会話が続かない。何で謝ったんだろうこの子……?
「え、えっと、怒って……ます?」
「いや、特に……」
「あ、そ、そう……ですか、へへ」
距離を測りかねているのは分かる。私だってそうだから。でも、そんな理不尽に怒っているように見えるような顔をしていたのだろうか?
じりじりとすり足で寄っては引いてを繰り返すような応酬が続いて、我慢の限界が来たのはこっちが先だった。
「その……脅かしてごめん。いきなり後ろから声かけられたら……怖かったよね」
「え、えっと……そう、ですね」
「忘れ物……どうしよう、明日此処に来れる?」
「あ、ぇ、大丈夫、だと、思います……」
「なら、その時持ってくるから。お昼過ぎくらいでどうかな」
「だ、大丈夫……」
此方が踏み込めば相手は一歩下がってしまう。結局永遠に距離が変わらない。
別にそれでも良いはずなのに、その距離を縮めたいと焦れる自分が居る。
あの絵。人体のパーツを重ねて、一つの形にして描き上げた白黒の一枚。
どうしてそんな技法に辿り着いたのかは分からなくても、展示してあればきっと目を惹かれて眺めてしまっただろうと思うくらいに絵画として完成されていたそれは、私にとってははっきり褒めたくなるくらい凄いものだった。
「あ、あの絵……! 凄かったよ、誰かに習ったの?」
「――――ッ」
けれど、それが相手にどう取られるかまでは意識が回らなかった。とにかく伝えようと必死になるあまり、そこから焦点が外れた。
やってしまった。そう直感したときにはもう遅くて、男の子はただでさえ開いていた距離を更に伸ばしてしまう。表情は完全に怯え切っていて、心の傷に指を触れるどころか突っ込むような真似をしてしまったのは明白だった。
「……な」
「え?」
「習って、ない……僕が、描きたいもの、描いてただけ……だ、ですから、へへ……」
「そうなの!?」
「ひぇ……だ、だって、今まで、引かれたことしか、なかったし……誰も、教えてなんてくれなかったし」
既視感。その姿に、何かが重なる。
劣等感の塊。一挙一動に滲む恐怖心に由来する警戒。それは、ああ。
(似てる……のかな)
どことなく、かつての自分の姿に似ているような気がして。
かつてトレーナーにやってしまったような棘のある態度がまるで出てこなかったのはそういうことなのかもしれないと納得してしまう。
「その……ごめん、なさい。気味悪かった、ですよね」
「ううん、そんなこと――――」
「い、いいんです、慣れてます、から……もう会わないよう、気を付けますから……へ、へへへ……」
この子には、
ああなりたいと憧れるような存在も、報いたいと思えるような相手も。
何がこうなるまでこの子を押し潰してしまったのかは分からなくても、無惨に轢かれて砕かれたような心の残骸だけははっきりと見てとれて。それがどうにも嫌な既視感をちらつかせるものだから放っておけなくて。
せめて自分の強みには自信を持って欲しくて、一歩また踏み込む。
「明日、さ」
「はぇ?」
「君の忘れ物、持ってくるから……もう一度見せてよ。あの絵」
「…………む、無理です」
「……そっか、ごめん」
返ってきたのは即答と明確な拒絶だった。
先輩みたいには上手くできないな、と、その日はちょっと凹みながら撤退した。