1 出会いは突然に
夏。猛暑の夏。地球温暖化が止まらない2030年。年々暑くなるこの真夏の日々。高校の教室には冷房が効いていた。外よりも居心地のいい環境。すなわち、午後の授業では睡魔が襲ってくる。
「こら、起きなさい」
「ぬわぁ?」
寝ぼけ眼を擦りながら顔を起こす。机に見事に突っ伏して寝ていた。片頬にキーボードの跡がついている。自分の担任教師が教壇から困ったような顔でこちらを見ていた。あぁ、そういえば授業中だったなと思い出す。でも仕方ないじゃないか。体育終わりの六限古文なんて、寝てくださいって言っているようなものだ。
「高野君、あまりそう堂々と寝られても困るよ」
「あー、すみません……」
「眠いのは分かるけど、ちゃんと起きるように。えーと、どこまでやったかな。あ、そうそうここだ。今日は六日なので……酒寄さん」
「はい! ここでの『なりぬ』は動詞『なる』の連用形と完了の助動詞『ぬ』の組み合わせです」
「おー、すげー」
「さすが酒寄さん」
「凄すぎて何言ってるのか分かんなかったー」
クラスで、いや多分学年、もっと言えば学校で一番優秀だと思われる同級生がスラスラと先生の問いに答えている。ちなみに、俺はさっぱり分からない。動詞のなるってなんだ。完了の助動詞ってなんだっけ。古文なんて大昔の文章やってどうすんだよ、ネイティブスピーカー全員墓の中じゃないか。
別に古文が出来ない事に引け目とかは感じていないけれど、賞賛を浴びている酒寄さんを見ていると凄いなと素直に思う。俺もあんな風に、勉強とかスポーツとかそれ以外も万能にこなせる才能が欲しかった。優等生にとって学校はきっと楽しい場所なんだろう。多分、分かり合えない。そう思いつつ、俺は欠伸をかみ殺した。
「高野君、最近ちょっと提出物の状況が良くないね」
「すみません、気を付けます」
「学生の本分は勉強だから、学業を疎かにしないように」
「はい」
「色々あるのは分かっているから、何か相談事があるなら言ってくれれば……」
「大丈夫です、何とかするんで。色々すみませんでした」
話を切り上げたいという意図があからさまに伝わったのか、担任の立花先生は何か言いたげな顔で話を切り上げた。気にかけてくれているのは理解している。ただ、相談したからと言って先生に問題解決が出来るわけじゃない。話を聞いてもらったところで、現状が何も変わらないなら、言わないのと同じだ。
「失礼しました」
職員室を後にした。はぁ、とため息を吐く。この後も仕事が待っている。自分の生活費のためとはいえ、毎日の労働は骨が折れる。家から出ないで済む仕事なのが、この酷暑の中の唯一の救いかもしれない。
「おっと、ごめんなさい」
「こっちこそ、見てなかった」
職員室の入り口でぶつかりそうになって、謝る。ちょっと注意力散漫になってたかもしれない。相手を確認しようと視線を向けたら、酒寄さんだった。手には何枚ものプリントを抱えている。先生の手伝いとして駆り出されたのだと思う。そういう事を嫌な顔一つせず引き受ける姿は優等生の例として辞書に登録されていてもおかしくない姿だった。尊敬はするけれど、ああいう風になりたいとは思えない。なれるとも思わないけど。
「酒寄さんはまた先生の手伝い? ご苦労様」
「高野君は……」
「お呼び出し。まぁ、さしたることじゃないから。じゃあ、お疲れ」
「うん、お疲れ様」
何が疲れたのかはよく分からない適当な挨拶をして、俺は廊下に出る。途端にむわっとした空気が襲ってきた。職員室の中では数学の先生と酒寄さんが話している。俺と違って、彼女には呼び出されるなんてことは無いんだろう。住む世界が違うっていうのは、こういう事なのかもしれない。呼び出されていたら面白いのに、なんて嫌な事を考える自分に辟易しながら、蒸し暑い廊下を歩いた。
☽ ☾ ☽ ☾ ☽ ☾
『そっちのデバック終わった?』
「まだです! あとちょっとなんで、もうちょい待ってください!」
『五分くらいで終わってくれると嬉しいなーなんて』
「二分でどうにかします!」
目の前のキーボードを叩く。数日前から燻っていたバグの中枢原因にやっとたどり着いたところだった。
仮想空間『ツクヨミ』は登録者一億人を突破する超大規模インターネットコミュニティだ。多くの配信者や商店が集い、コンタクトレンズ型デバイスであるスマコンを使い、この仮想空間で活動している。視覚・聴覚以外の感覚は存在しないが、その場にいながらにして簡単に異世界気分を味わえるため日本ではデバイスを持っている人の多くが大なり小なりここを訪れていた。
和風を基調とした空間は多くの人でにぎわい、空には浮舟が飛んでいる。楼閣の火は消えることなく灯り、今日も今日とて各地でイベントが繰り広げられていた。しかし、こんな華やかな場所にも当然裏方は存在する。
この広大な空間はAIライバーである月見ヤチヨが管理人として全権を掌握している。その正体は誰も知らない。政府の政策とか、企業の合作とか色々言われているが、ともかくそれまでのAIの全てを塗り替える技術革新だったのは間違いない。製作者やデザイナー、声優などが一切名乗りを上げない辺り、何かしらの大きな組織の力があるなんていう陰謀論まで囁かれていた。この大人気AIは分身を作ることが出来るので、このツクヨミの各地に出没できる。
そして、ここで陣頭指揮を執っているのもその分身の一体なのだ。ここは世界最大の巨大電脳空間ツクヨミの裏側。その背後で日夜変化し続ける環境と戦い、デバック作業を繰り返し、新機能実装目掛け走り、時にはサイバー攻撃に対処する場所だった。
「終わりました」
『さっすがぁ』
「次行きます」
『お願いしまーす』
AIなんだから全部自分でやった方が早い気もするのだが、そこら辺は機能に限界があるのかもしれない。俺がここで雇われたのは数年前の話。病気で母親が亡くなってからそう時間の空かない時期だった。まだツクヨミが完全に機能を開始する前にテスター募集メールが来たので、それに応募した。その時の志望動機に、母が死んで寂しいみたいなことを書いた記憶がある。それが目に留まったのかは分からないけれど、幾つかのテストに合格した末に、テスターとして採用された。
元々プログラムとかこういうサイバー系だけは得意だったので、そこからずっとこうして働いている。最初は退屈しのぎというか、正直仕事にするつもりは全くなかったのだけど、中二の時に父親が事故で亡くなってしまってからは生活費を稼ぐための手段になっていた。幸い、通信費や電気代は向こう負担なのでありがたい。ここで勉強させてもらったことも沢山あったので、このスキルは将来活かせると思う。なので、現在は高卒で就職することを目標にしていた。
ツクヨミでテスターを二年、その後システム保守などのサイバー関連の業務を三年やっているなら、まぁそれなりの実務経験だと思う。他にすることもないので、毎日仕事しているせいか、それなりに生活は出来ていた。それでも両親と住んでいたマンションは売り払い、今では家賃の安いアパートに住んでいる。
他にも同じようなバイトやら正社員やらをしている人がいるのかもしれないが、今のところ同業者には遭遇していない。情報漏洩を防ぐためだと解釈していた。
「それにしても」
『なにー?』
「もうすぐ六年目ですね」
『だねぇ。随分長い時間が経ったもんだ』
「これまで色々教えてくれて、ありがとうございました」
AIにお礼を言ってどうするんだろうとも思ったけれど、ある種のケジメとしてしっかり言った。なんというか、父親が死んでからはどうして生きているのかよく分からなくなる時がある。あー、自分が今死んでも悲しむ人っているのかな、みたいな。
積極的に死ぬ理由もないし、怖いからぼんやりと生きている。そんな感じの人生が、俺の今だった。だから、この仕事はある意味で生き甲斐になってる。このスパゲッティコードを片付けるまではやらないとな、みたいな繰り返しが明日に息をする理由になっている。そういう感謝もあった。
「ぶっちゃけ全部自分でやった方が効率的だと思うんで、俺を雇ってくれている事はメッチャ感謝してます」
『そんな事ないんだけどなぁ。最初からちゃんと腕はあったし』
「いやいや、教師役の腕が良かったんですよ」
『まぁそんなことも……あるかも?』
にまっと笑う顔は本当に感情があるみたいだった。どうもこの月見ヤチヨは人間くさいところがある。これがもし本当に学習の末に生まれた存在なのだとしたら、相当凄いことなのだと思う。だからこそ多くの人を惹きつけ、推されているのだろう。
もう生きているのかどうか、心臓の鼓動があって生物として存在しているのかどうかは多くの人にとって曖昧になりつつあるのかもしれない。生成AIで燃えていた時代はもうとっくに過ぎ去っていた。
学習アルゴリズムが組まれていて、それを基にネットの知識などを拾い上げ、そして出力する。AIの根本にあるのはそういうシステムだ。状況を学習し、答えを出す。その繰り返し。でも、人間だってそんなもんだろうと思う。感情も、行ってしまえば経験に基づいて出力されたものだろうから。ただ、そこに不確定要素があるのかどうかが人間とAIの差だというのが俺の持論だ。
「雇ってくれて、ホントに感謝してます。じゃないと俺、なんかこう脱け殻になってたというか、明日目覚める動機が無くなってたかもなので。でも、なんで俺を雇ってくれたんですか。もっと出来る人、いっぱいいたと思うんですけど」
『うーん、そうだなぁ』
ヤチヨは少し考えるような仕草をした後、告げた。
『賭け、かな』
「……俺、ギャンブルだったんすか?」
『うーんちょっと語弊があるよねぇ。キミの腕が賭けとかそういう事じゃなくてね。まぁこっちの話だから』
「はぁ。あ、作業終わりました」
『お疲れー! うん、大丈夫そうかなぁ。じゃあ今日はもう上がっていいよぉ』
「お疲れ様でした」
『うん、お疲れ様』
運命が、始まる。現実世界に戻る前、視界の端でヤチヨの口がそう動いた気がした。その言葉の意味と、その曖昧な笑みの意味を理解できないままに、俺は現実世界へと帰還する。
「終わったぁ……」
ここ数日ずーっとバグ解消に取り組んでいた。このバイトで寝不足だったので、今日は久々にゆっくり寝れそうだった。
「てか、なんか暑くね?」
上を見上げると、クーラーが止まっていた。この真夏にクーラーを動かさないのは熱中症になってしまう。ピッとスイッチを入れるが、リモコンだけ音を立てて本体はうんともすんとも言わない。嫌な汗が流れて来た。
「う、嘘だろ……?」
何度押しても動かない。一回コンセントを抜いてみたけど、動かない。ブレーカーは落ちてない。冷蔵庫とかは動いている。という事はつまり。
「エアコン、ぶっ壊れた……?」
なんでよりにもよってこんな時期に。ぬわぁぁぁと叫び出したい気分を必死に抑える。このアパートでそんな声を出したら壁ドン必至だ。電化製品は黙って逝くから困る。どうせなら何日か断末魔を挙げてから逝って欲しい。
「修理、は無理かぁ」
調べても大分時間がかかるらしい。新しくエアコンを買うことは出来るけれど、設置する業者も空いていなかった。この酷暑、どこでも需要はあるのだろう。そんなこと言っても、俺の生活にエアコンは必須だった。
「落ち着け、落ち着け……」
水でも飲んで落ち着こうと蛇口をひねった。沈黙。水道代はちゃんと払ってるのに何で!? と慌てて管理会社に電話する。結構年を取ったお爺さんが一人で経営してる不動産なので出ないかなと思ったけど、なんとか出てくれた。
「あー、断水しちゃいましたか。たまにあるんですよね、老朽化でぇ」
「そんなぁ」
「エアコンも壊れてらっしゃるんですよね? 工事、しばらくかかりますよ」
「何とかなりませんか、困るんです」
「うーん。もしよろしければ、代わりのお住まいをお探ししますよ。すぐに空いているところとなると、ちょっと条件は悪いかもしれませんが」
引っ越し。出来る事ならそんな出費は抑えたかったけれど、背に腹は代えられない。冷房のないクソ暑い真夏の部屋で、風呂もトイレもなしってどんな拷問だ。
「家賃安めで、エアコンとWi-Fi完備、ブレーカーが落ちないところでお願いします。あと、出来れば保証人なしの!」
「は、はぁ。分かりました、条件に合う物件が近辺に無いか、お探し致しますね」
「よろしくお願いします……」
マジかよ参ったなぁと思いながらズルズルとへたり込む。先生には呼び出しを受けるし、冷房は壊れるし、風呂にも入れないし、今日は散々だ。もう明日の自分に全部ぶん投げて寝ようと思い、俺は布団に倒れこんだ。
☽ ☾ ☽ ☾ ☽ ☾
「マジでここに住むのか……」
翌日の朝。不快指数の高い自分の部屋で目覚めたすぐ後に、管理会社から連絡がきた。知り合いのやっている保証人なしのアパートで空室があったから、そこに引っ越せるという話だった。ちゃんと冷暖房はあるし、Wi-Fiもあるらしい。もう贅沢は言っていられないので、学校は休んで引っ越すことにした。引っ越しのトラックは管理会社のお爺さんの知り合いが持っている軽トラ。
「もうヤダ……なんでこんな目に」
『大変だったねぇ』
愚痴がこぼれる。バイトは休めないので、荷解きのあまり終わっていない部屋の中で辛うじてセッティングした椅子に座りつつ作業をしている。冷房の涼しい風があるだけで昨日の夜よりよっぽどいい。
『隣近所にご挨拶はしたのかな?』
「いりますか? 今時」
『しておいた方が良いと思うなぁ』
「そうですかね……」
『万が一の時に助けてくれる……かもしれないし』
「かもしれないじゃなぁ。でも、分かりました。一応挨拶だけはしておきます」
表札すらないボロいアパートなので、隣室に誰さんが住んでいるのか分からない。まぁ東京なんてそんなものかもしれないけれど。セキュリティーのセの字もない家だったけど、前のアパートもあんまり変わらないのでそこは困ってない。
「じゃ、ちょっと一瞬休憩入ります。その間に挨拶してくるんで」
『はいはーい』
片側の隣室はまだ人の気配がしない。外に出てみても、灯りは漏れていなかった。まだ帰って来てないのだと思う。もう片方の角部屋にはすでに電気が点いていた。こっちには顔合わせしておいて、もう片方はなんか適当に手紙でもポストに入れておくかと考えて、いる方の隣室のベルを鳴らす。ジーっという音が鳴り、ドアの向こうから曇った声が聞こえた。
「はい」
「すみません、夜分遅くに。隣室に越してきたので、ご挨拶に伺いました」
「分かりました、ちょっと待ってください」
相手は多分女性だった。なんかどっかで聞いたことがある声だなぁとぼんやり思う。チェーンなんて洒落たものは無いので、こんな夜に男性が訪問してくるのは怪しかったかもしれない。相手からしたら不審者だったなと後悔している時、ゆっくりとドアが開いた。
「どうもわざわざご丁寧、に……」
「えぇぇっ!?」
ボロアパートの隣室にご挨拶をしたら、同級生の超絶優等女子高生が出てきた。何を言っているのか分からないと思うが、俺にも事態を上手く呑み込めていない。どうやら先方も同じらしく、混乱した目をしている。みんなに尊敬されて、憧れられる酒寄さんは、俺の新居の隣室にいるらしい。
わけがわからないよ。頭の中でキュゥべえが喋っていた。