冷房が壊れ、水道管も壊れ、真夏の中では到底耐えられない状況に直面してやむを得ず引っ越したその先で、まさかの同級生に会うとは思わなかった。しかも、こんなボロアパートで。オートロックなんてスーパーパーツは存在するはずもなく、どんなに頑張っても二人しか住めないであろうこの家に、到底住んでいるとは思えない相手が住んでいた。腰を抜かさなかっただけでも、頑張ったと思う。
若干顔がやつれているけれど、それでも可愛いなと純粋に思う。学校では髪を結んでいるけれど、家の中では下ろしているみたいだった。学校では超絶優等生で、よく一緒にいる友達も綾紬さんと諌山さんという超キラキラした二人。俺みたいな普通の生徒とは天と地ほどの差があるというか、月とすっぽんと言うか、とにかく全く関わりなんてない相手なのだ。挨拶くらいはするけれど、それ以上の関係性では決してない。そんな存在の普段の姿を見るのは初めてだった。
肌が白いなーとか、華奢だなーとか、そんなことを思ってしまう。健全な男子高校生に、この姿はちょっと目に毒だった。あんまりじろじろみたら失礼だろうから、ちょっと目線を逸らす。まつげが長いなと、そんなくだらないことが脳内に満ちていく。
「あ、えっと、高野楓です」
「知ってるけど……?」
「そ、それもそっか。ごめん、ちょっと動揺した」
同級生相手にもう一度自己紹介をするというよく分からないムーブをかましてしまった。誰? とか言われた日には死んでしまうところだったけれど、よく考えればそんな感じの子ではなかった。クラスメイトの名前を覚えておくくらい、酒寄さんには大したことではないんだと思う。
「改めて、隣に越してきました。まぁあの、だから何だって話かもしれないし、なんなら酒寄さん的にはあんまり好ましくないかもしれないけど、よろしくお願いします」
「ご、ご丁寧にどうも……」
俺の動揺はさておき、なんだか相手も動揺している気がする。見られたくなかったモノを見られた子供みたいな感じすらあった。
「あの、さ。いきなりこんな事頼むのはちょっとおかしいかもしれないけど……」
「お、おう」
彼女は俺を拝むように、パンと手を合わせた。先生とか同級生が酒寄さんに頼みごとをするのはよく見るけど、酒寄さんが俺に頼みごとをしてくる光景なんて見ることになるとは思わなかった。
「私がここに住んでるって、周りに言わないで」
「あー、そういうね」
「ぶっちゃけ高野君がこのお願いを聞かないといけない理由も聞くメリットもないんだけど……何か出来る事があればするから、出来る限り黙っていて欲しいというか何というか……」
出来る事があれば、なんて言葉がくるなんて思わなかった。自分がどこに住んでいるかなんて、親しい友達以外に知られたくないのは当然だと思う。酒寄さんはモテるし、変な男が勘違いして家までやって来る可能性はゼロじゃない。黙っていて欲しいと思うのは当然だし、何をそんなに遠慮しているのかが良く分からなかった。
と言うか、酒寄さんに不利な事をした瞬間に綾紬さんとか諌山さんにカウンター攻撃を食らって俺は学校に登校できなくなるだろう。いや、あの二人がそういう事をするのかは実際には知らないけど。でも酒寄さんとこの二人にガチで嫌われたら、明日から俺の席はないと思う。
「あぁ、別にいいよ」
「へ?」
「酒寄さんも、色々あるんだろうし。言いふらすような事しないって。俺にそんなことするメリットも無いし、する相手もあんまりいないし。あと、出来る事があればとか、気にしなくていい。こんなの見返り無くてもやるでしょ、普通に」
普通の倫理観とか常識を持っているのなら、黙っておくと思う。優等生の秘密を知っているのが自分だけ(多分綾紬さんと諌山さんは知っていると思うけど)なのはちょっと優越感がある……という感情があったのは見なかったことにしておく。
「ホントに!?」
「そりゃ、まぁ、当然」
「本当に、ありがとうございます」
九死に一生を得た。酒寄さんの言葉からはそんな感情を感じる。
「誰か、ご家族は? いたら隣に越して来たって伝えておいて欲しいんだけど」
「ここには、いない」
「あー」
俺みたいな事情で一人暮らしをしているわけではないみたいだった。親戚もいなくて、天涯孤独というわけじゃないんだろう。京都出身って言ってた記憶も朧気だけどあるし、なんかしら事情があったんだと思う。何かこっちでやりたいことがあったとか、親と仲悪いとか。毒親って、割とナチュラルにいるし、そういうのもあるんじゃないかと思った。DVとかから逃げて来たって理由だと、なおのこと俺に住んでる場所をばら撒かれたくはないだろう。
それにしたってこんなところに住むのはちょっと不用心な気もする。男の俺より、女子の方がもっとこういうのは気を付けた方が良いんだろうし。でも、そんなところに踏み込めるほど俺は酒寄さんと仲が良くなかった。
「おけ、じゃあまぁ、これからよろしく」
「こっちこそ、よろしく」
丁寧に挨拶をしてくれる。とは言え、絡みは特に無いし、今後どうなるってこともないと思う。人生はラブコメじゃないし、そんな素敵な事なんて起こらないものだ。平々凡々万々歳。
「あと、一個だけ聞きたいんだけど、ここヤバい人とかいる?」
「多分いないと思うけど」
「あ、良かった助かった。ごめん、酒寄さん勉強とかあるだろうし迷惑だよな。なんかうるさいとかあったら、言いにくいかもしれないけど、適当にポストに苦情でも書いて入れてくれれば直すから遠慮なく言ってくれると嬉しい。じゃ、おやすみ」
「おやすみなさい」
酒寄さんは静かにドアを閉める。そういえば、引っ越しの挨拶ってお菓子とか渡すもんじゃないっけ。しまった、凄い非常識なやつだと思われたかもしれない。挨拶しないだけならこの現代東京に結構いるかもしれないけど、したのに手ぶらってわけわかんなかった。脳内の酒寄さんが俺を嘲笑ってる。そんなことする子じゃないんだろうけど。
なんか買っておくべきかもしれない。でもお菓子って好き嫌いあるし、アレルギーとかもあるだろうし。物を送ると残るから困るかもしれないし。部屋に戻ってから「引っ越し挨拶 品物」で検索する。色々出てくるけど、正直女子とのかかわりが無いし、女性と言う括りではAIのヤチヨしかいない。最悪AIなんだし彼女に聞けばいいかと思ってツクヨミでの仕事に戻ることにした。チャットGPTの仲間なんだし、いけるはず。本人(人?)に言うと怒られそうだけど。
それにしても、と隣室との壁を見ながら内心で呟いた。あんな優等生だからどっかのお嬢様なのかと思ってた。こんなボロアパートに住んでいるなんて、思いもしなかった。雲の上にいる遠い存在だと思っていたけれど、勝手な親近感を感じてしまう。向こうからすれば、迷惑かもしれないが。
「戻りました」
『お帰り~。どう? お隣さんとは話せた?』
「まぁ、一応」
『ほうほう、それは良かったねぇ。どんな人だった?』
どんな人、という問いかけに応えようと口を開きかけて、止める。酒寄さんは黙っていて欲しいと言っていた。彼女の中でヤチヨが人判定なのかは不明だけれど、俺以外の第三者という意味では同じことだろう。だとしたら、ここで言うのは約束を破ったことになる。
「内緒」
『そっかぁ~』
えぇー、とか文句を言いそうだったけれど、ヤチヨは静かに笑っていた。どういう感情に基づいた表情なのか、俺にはイマイチ分からない。理解できたことがあるとすれば、その笑顔は間違いなく多くのファンを惹き付ける電子の歌姫だという事だけだった。
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「高野ー、情報の課題終わった?」
「一応」
「じゃあ、見せてくんね?」
「……いいけど」
「サンキュ」
またか、と思いはしたけれど断るのも面倒で見せた。情報の先生は妙に課題が多いということで有名で、あんまり人気はない。逆に普段の仕事内容に比べれば全然簡単なので、そういう意味で俺は結構楽だと思っていた。文系科目はイマイチ、理系は割とできる方、情報だけなら誰にも負けていない。それが俺の勉強における自認だった。なんでも一位の酒寄さんにだって、プログラミングとかなら勝てる。それしか出来ないとも言うけど。
体のいいパシリとして使われているのかもしれないけど、別にそれでもよかった。高校は出ないと苦労するから通っている。でも、ここで何かしたいことがあるわけでも、その先に繋げたいというわけでもない。将来に、あんまり夢は見れなかった。夢を見ても、人は結構簡単に呆気なく終わってしまうから。
「……帰ろう」
惰性で過ごす学校が終わり、家路に帰って作業をして、ちょっと寝て、学校に行って。俺の平々凡々で退屈な人生はそんな感じで毎日が繰り返されていた。凄く面白いとは思わないけれど、やらないといけない事とか片付けたい事があの無限の電子空間に沢山あるので、それと出会い続けられるのは俺の日々の中に存在する数少ない変化かもしれない。
酒寄さんとはあれから学校で何の絡みもない。まぁ、そんなもんだと思う。ただ部屋が隣同士なだけで、それ以外に接点となる要素が存在しないんだから。
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「夜飯……ないか」
冷蔵庫を開けても何も入ってなかった。こういう事がたまにある。普段は帰り道で買っているけど、考え事をしたりしていると忘れてしまう。腹が減っては戦は出来ないし、調達したかった。ツクヨミで大人気のゲームであるKASSENの大規模アップデートがそろそろ近い。それに備えての色々があって、ここ数日は忙しくなることが確定だった。
仕方なしに家を出ると夜の湿気が襲ってくる。一部屋しかないアパートなので、冷房の効きが早い分、外に出ると余計に暑く感じる。階段を降りようとしたとき、昇って来る人影に気付いた。随分とヨロヨロしているので一瞬老人かと思ったけど、疲弊しているだけの酒寄さんだ。
「あ、こんばんは」
「こ、こんばんは……」
引き攣った声は隠せない疲労の色がある。学校では微塵も見せない姿だった。一応同級生と出会ったのに隠していない。普段の様子とかをある程度知られているからか、俺に取り繕っても無駄だと思ったのかもしれない。俺が誰にもこの隣室の件を話していないから信用されているのだとしたら嬉しいが、多分そんなことは無いと思う。
それにしても、こんな時間まで出歩いていたのはちょっと不用心かもしれない。夏の夜は冬より若干明るいとはいえ、それでもこの辺の街頭はそんなに多くない。防犯ブザーとか、懐中電灯を持っているようにも見えないし、自衛としては弱いんじゃないかと心配になった。
「酒寄さん、バイト?」
「そうだけど……高野君は?」
「俺は夕飯の買い出し。この後、バイトだから」
「在宅ワークかぁ、いいなぁ」
最後の方は呟くようにして漏らしていた。確かに、自宅で出来る在宅ワークなバイトなんて中々ないので、結構恵まれている。
「それって、私でも出来る?」
「どうかな。まぁ酒寄さんならすぐに覚えてちゃちゃっとこなしちゃうかもしれないけど。懇切丁寧に教えてくれる上司もいるし、働きやすいとは思うから」
ちゃちゃっと、という部分に若干物申したいですという風な表情をされる。完璧女子高生とわが校で評判の彼女なら大体のことはスルスル苦も無く覚えてしまうんだとばっかり思ってたけど違うのかもしれない。案外、努力の人だったりして? それだったら親近感をちょっとだけ覚えてしまう。普通の部分もあるんだって。俺に親近感持たれてもキモいだけかもしれないけど。
「興味あるなら紹介しようか? ツクヨミのシステム保守とかの業務なんてあんまり面白くないかもしれないけど」
何気なく、本当に隣人への親切の気持ちで言った。でも、その瞬間空気が凍る。と言うより時間が止まるが正しいかもしれない。疲弊でしおしおしていた酒寄さんがすんごい形相で俺を見ていた。睨んでいるとか怒っているわけではない。なんて言うか、驚愕しているが近いのかな、そんな表情。
「え、は、今なんて?」
「いや、ツクヨミのシステム保守に興味あるかなって」
「あぁぁぁぁぁ!」
酒寄さんが壊れた機械みたいに変な声を挙げている。俺は同級生がこんな姿になるのを見たくなかった。よりにもよって、凄いなぁとちょっと尊敬じみた感情すら持っていた相手がこんな奇声を発しながらボロアパートの外廊下で発狂している姿なんて。
「さ、酒寄さん。あんまり公衆の面前で大きな声出さない方が……」
「いや、無理無理無理。え、え、じゃあこれ高野君!?」
「何が……?」
酒寄さんが猛烈な勢いで端末を操作して見せてきたのは、ヤチヨの配信画面だった。ヤチヨはホントに多種多様な配信をしているけど、これはシステム保守配信だと思われる。時々こうして裏方の作業も見せていることがあった。もちろん、大事な部分は映らないようにしていると本人は言っている。俺も配信自体はヤチヨのに限らず作業用のBGMとして見ている。ただ、システム保守配信は何が悲しくて仕事と同内容の配信を見ないといけないのかと食指が動かず見たことが無かった。
そして、その画面には作業をしながら話しているヤチヨの後ろで俺のアバターが作業していた。
「ドファッ!?」
なんか良く分からない声が出る。良く知ってるアバターは間違いなく俺のだ。
驚嘆どころの話じゃない。今まで全く知らなかった。ヤチヨは分身出来るから、俺と話しているのとは別の個体(?)が配信をしていたのだろう。画面の中の俺はそんなこと全く知らないから、普段のノリで話している。というか、大半は黙々と作業していた。
「このアメツキカエデって、高野君なの!?」
「まぁ、はい、そうです」
「じゃあ! 上司ってヤチヨ!?」
「そう、なるね」
「……」
酒寄さんは失神しそうな顔になっていた。しかし、人の口から聞くとやっぱり変な感じがする。俺のそのアバター名を呼ぶのなんて、ヤチヨかその友達のオタ公さんくらいだろう。俺の名字を母親の旧姓に変えただけで深い意図はない。小学生の時に、結構適当に決めた名前だった。
「ヤチヨと毎日お喋り出来るなんてなんて羨ましい、憎たらしい……! あのご尊顔を毎日拝し奉って、永遠の女神のお姿を拝んで、電子の歌姫のお声を聴けるなんてぇぇ……」
「じゃ、じゃあ酒寄さんもやる? 紹介は出来るけど……」
「いや、それは無理」
「えぇ……」
「私にはあんな速度で色んな問題に対処できない」
「?」
酒寄さんは真面目だろうし、多分練習すれば出来るとは思うんだけど。でも、この感じだとヤチヨを相当強く推してるんだろう。そんな人がこの仕事をしていたら、精神的に多幸感でおかしくなってしまうかもしれない。そういう意味では向いていないとも言える。
「頑張ってください。応援してます、ヤチヨの手足として」
「は、はは……」
なんて返したらいいのか分からない。これが酒寄さんの素なのだとしたら、随分キャラ崩壊だ。それくらいまでに俺の職場の話はショックだったのか。疲れているのも加わって、もうぐちゃぐちゃなのかもしれない。
「じゃあ、私は戻るから……」
「り、了解。あ、そうだ、ちょっと待って」
「え?」
部屋に戻ろうとする酒寄さんを引き留めて、俺は一瞬だけ部屋に引っ込む。古いものを詰め込んだ段ボールの中をごそごそすると、お目当ての物はすぐ出てきた。
「お待たせ。はい、これ」
「これって、防犯ブザーと懐中電灯?」
「そうそう。防犯ブザーは俺が小学生の時に使ってたやつ。電池式だから、まだ鳴ると思う。懐中電灯は全然普通に使えるはず。お節介かもしれないけど、持ってた方が良いと思うからあげる」
「えっと……」
「あー、ごめんキモかった?」
距離感ミスったかなと思って頬をかいた。同級生とは言えただの隣人にいきなりこんなものを渡されるのはあんまり気分良くないかもしれない。
「そういうわけじゃないけど、どうして?」
「いやだって、普通に夜は危ないし。ただでさえ女子の一人歩きは危険だよ。あんまりよくないと思うけど、酒寄さんも別に好きでしてるわけじゃないだろうから。街灯少ないとこも多いみたいだし、護身用と言うかであった方が良いじゃん。酒寄さんみたいな子だと、なおさら狙われるかも分かんないから」
「でも、貰うって言うのは……」
「気にしないで。どうせ使ってないし。あ、変な盗聴器とかは入ってないから、心配しないで。それに、ヤチヨも自分を推してくれてる酒寄さんが安全な方が嬉しいと思うよ」
「そういう、ことなら……。ありがとう」
「どういたしまして。じゃ、お休み」
「おやすみなさい」
今度こそ、酒寄さんは自分の部屋に戻っていった。ヤチヨの名前を出したら遠慮しなくなるかなと思ったけど、ホントにそうなってちょっと笑っている自分がいる。完璧に見える相手でも完全無欠じゃないってことが、ちょっとだけ分かった。ヤチヨは中でも最大の弱点みたいだ。それを知ったところでどうにもならないし、言う相手もいないけど、分かり合えないと思っていた相手にもちょっとだけ共感できたりする部分があるというのを知れたのは良かったのかもしれない。
それに、少しだけ気分がいい。自分がしていたことを酒寄さんを含めた誰かが見ていてくれたというのを知れたのは、素直に嬉しかった。夏の大三角の下、少しだけ足取り軽くコンビニを目指す。
それはそれとしてあとであの
こうして俺と酒寄さんの物語が少しだけ交わり始めたこの後、運命は思わぬ方向へと舵を切る。或いは、ここからが始まりだったのかもしれない。
――――光る電柱から、宇宙人が襲来したのだ。この、ボロアパートに。