ヤチヨは手を払うように動かした。景色が一気に変化する。これは、何回も見たことのある景色。俺たちが前に住んでいたボロアパートの内装だ。彩葉さんの部屋にあった机とか椅子とか、全部再現されている。こんなセットをわざわざ作っていたところに、ヤチヨの想いがあるんだろう。
「んじゃ、まずは縄文人と魚獲った話から。よく覚えてるのが、ナガツノだっけかな。髭がめっちゃ長い海老がマジで貴重でね。茹でなくても真っ赤なあれでお寿司にしたかったなぁ。あとオオツキナマズね! 月の夜しか捕れないでっかいナマズ! 薪で焼くと濡れたタオル絞ったみたいに脂出んの。そんでそんで――」
ヤチヨはずっとノンストップで話し続けた。日本史をもっとちゃんと勉強しておけばよかったなぁ。たまに知っている名前が出てくるとテンションが上がる。信長は知ってるよ、信長。あと秀吉。彩葉さんはうんうんと聞いているので、多分全部知ってるんだろう。俺は日本史の教科書をチラ見しながら聞いていた。
話は丸二日続いた。まだ江戸時代だ。黒船来航した頃なので、あとちょっとで明治……かな? 合ってるよね?
「おやすみなさいよ、死んじゃう」
「大丈夫、まだ江戸だし」
「三徹は慣れてますから」
ここ数日ヤチヨの過去ログを探るために色々していたので、普通に結構眠い。でも、まだいける。娘の長い旅路の報告だ。そんなの、エナドリ無限摂取してでも頑張って聞く以外にない!
「あっちゃ~、ヤチヨの方が寝る時間だ。じゃ、お休み~」
ヤチヨは糸の切られた操り人形みたいにぱたりと倒れた。
「あぁ、もう五十二時間経ったのか……」
「五十二時間?」
「ヤチヨの限界連続稼働時間は五十二時間。そこからは充電とアップデートのために眠らないといけない。でも多分それだけじゃないね?」
ヤチヨとの付き合いは長いので、どういう仕組みなのかもわかっている。今までは充電とアップデートだけだと思ってた。でも多分、それだけじゃない。記憶のアップデートと保存整理が必要なんだ。ヤチヨは本当のAIじゃない。分身している分の記憶を統合する必要があるんだろう。
「記憶の統合整理だ。カエデはメカニズム分かってるだろ。定期的にスリープしないといけないんだ」
FUSHIは俺の考えを肯定する。彩葉さんは、寝ているヤチヨの髪を優しくなでた。寝ているかぐやちゃんの髪を撫でている時と全く同じ表情。穏やかに寝ている表情も、かぐやちゃんと重なる。おんなじなんだと、まじまじと突き付けられた気がした。
広い部屋じゃなくてもいい。このあんまり広くない場所でも、三人がいれば十分なんだ。だからヤチヨはここを残し続けた。彼女の、最初の思い出だったから。
「けらけら笑っちゃって」
「ホントに……」
「笑い話ばっかりじゃないはずなのに」
彩葉さんは慈しむような顔でヤチヨの頬を撫でる。彼女の言う通りだった。八千年。その想像もつかないような日々は、間違いなく楽しい事ばっかりじゃないはず。出会いと別れがあったはずだ。俺たちの見たことのない歴史があるんだろう。詳しくないからはっきりとは分からないけど、それでも知っているものはある。この国には何度も戦乱の時代があった。戦争で焼け野原になったこともあった。それをこの子は何も言わない。
俺たちはきっと、それを知らないといけないんだ。
「FUSHI」
「……」
「統括権限で命じます。月見ヤチヨの記憶領域を全て開放して」
「……」
俺の言葉に、FUSHIは視線を逸らした。
「ヤチヨが隠してること、あるよね?」
「……」
彩葉さんの言葉にも、FUSHIは沈黙を貫いた。
「……ヤチヨが言わなかったなら、それは……」
「見せて。私たちはかぐやの全部を見ないと。楽しい事だけじゃなくて、家族なら苦しい事とか辛いことも、分かち合わないと」
その言葉に俺も頷いた。
「人の身体で耐えられるか分からない」
「人間の記憶できる容量の問題でしょ? 任せて。俺がどうにかする」
「どうにかって……」
「忘れた? 脳波を転写する装置のプログラムはまだ生きてる。前のスマコンは壊れたけど、今のスマコンでも使えるよ。俺たちの容量が危なくなったなら、自動的にスマコンと接続されてる俺のパソコンに移転するように設定すればいい」
ウインドウを開いて、システムを起動させる。あれは脳に負荷がかかるけど、前回は俺の脳内で思考したモノを外に出していたから負荷がかかった。理論上は、入って来たものを横流しするだけなら多少はマシのはず。どっちにしろ、下手したら俺たちは八千年の重みでパンクする。なら、まだ可能性のある選択肢を取るだけだ。
「設定、完了。まぁ上手く行くかは分からないけど、どっちにしても俺たちは見ないといけない。FUSHI、再度同じ命令を出すよ」
「……分かった。ヤチヨはさっき、久しぶりに泣けたんだ。行くぞぉ!」
FUSHIの目が赤く光る。レーザー光線の中で部屋が崩れ、俺たちの身体が落下を始めた。記憶領域、起動。そんなアナウンスが響く。
『ヤチヨ……どっかにいるんでしょ? 出てきて、助けて……』
一人で孤独に耐えているかぐやちゃんの姿。そして、俺たちの意識は何千年も前へと向かっていった。
☽ ☾ ☽ ☾ ☽ ☾
何千年も前の地球の海岸で、かぐやは孤独に耐えていた。時間遡行アルゴリズムも計算システムも地球への大気圏降下のプログラムも、全部楓が託してくれたシステムを基にして作り上げた。
月人は身体を持たない。楓が電子生命体と呼称した通り、思念体に近い。だから、依代が必要だった。でもこの世界で落ちた場所の傍に依り代になれそうなものが無かった。舟として使った『もと光る竹』も故障している。ここに楓がいたら、適当にびゃーっと直してくれるのにな。かぐやは絶望の中、彩葉の歌を思い出しながら長い時を過ごした。
そして、現地の男の子と出会う。やっと人と出会えたかぐやは、去って欲しくなかった。だからウミウシに乗り移れた犬DOGEの身体に入り込んで呼びかける。そして、かぐやには新しい友達が出来た。かぐやはまだ、今の自分がどこにいるのか分かっていなかった。うんと過去かうんと未来のどっちかにいるとしか、分からなかった。
でも、古代の人の命は短い。病への耐性は今よりもずっと薄く、死はもっと身近だった。歌ってとか細い声で言う男の子に、かぐやはウミウシの身体で歌い続けた。
多くの人生があった。多くの出会いがあった。多くの願いがあって、そしてそれの多くが失われていった。人はみんな死んでいく。五十年かそこらの人生で、あっという間に。少しずつ時代が進んでいった。稲作が始まって、古墳が出来て、都が生まれて、大仏が建って。戦乱が始まって、幕府が出来て、城が建って、黒い船が来た。
人間の歴史は戦争の歴史だった。多くの城が燃えるのを、多くの人が死んでいくのを、略奪に消えた村を、かぐやは眺めるしか出来なかった。誰かの子供が、誰かの恋人が、誰かの親が、誰かの愛する人が死んでいく。未来が消えていくのを、見るしかなかった。
月での暮らしとはまったく対照的。誰も年を取らず、誰も本気で争わず、誰も誰かを愛さない。そんな完成された水槽みたいな世界にいたから、一回きりの終わりを受け入れるのには時間がかかった。
かぐやは、沢山の人を好きになった。多くの人の声が響く。
かぐやに恋をした物珍しい歌人が歌う。
「あひみての のちの心に くらぶれば 昔はものを 思はざりけり。だが、会わぬよりはよかっただろう?」
かぐやに思い出を残せと言った女性が言う。
「私は、私の喜ばしい記憶だけを、華やかな記憶だけを残す。それでいいはずだ。あの時代は確かに煌いていたのだから。だからそなたも、楽しき記憶を伝え遺せ。そら、春の曙だ」
大願を為した時代の寵児が最後に叫んだ。
「九郎は一歩も引かぬ! お前は行け、そして静に――」
世を遍歴し続けた僧の最期に立ち会った。
「花の下で死ねるなら、それでいい。あぁ、月が綺麗だ」
筆で世を綴る文人が呟く。
「花は盛りのみに非ず。月は隈なきのみに非ず。見えずとも、想えばそこにあるものだ」
燃える伽藍に男が嗤う。
「お前は生き続けよ、そして後の世に余の姿を伝えろ。この身は伽藍の灰に帰するとも名は残る。人間五十年、長く生きた。――是非に及ばず」
落城寸前の城で、気丈な姫が私を見下ろす。
「左衛門佐も逝った。もはや豊家は終わる。だが、お前は行け。会いたい者がいるのだろう」
時代が過ぎた。この世界は、綺麗だった。多くの命が失われて、多くの悲しみがあって、それでも喜びもあったし、美しいものの数はもっと多くあった。
「そうだ。この世は美しい。まだもっと、多くの地を巡りたかった。旅に病んで、夢は枯野を――」
美しい世界を描き出そうとする姿を見た。
「美しきものは消えぬ。お前も歌い続けろ。いつか、誰かを動かす日まで。さても惜しいかな、あと五年あれば真の絵描きになれたものを」
二人三脚で幼い少女と太夫を目指したこともあった。
「ムカつくからさ、笑うんだよ! そしたら、いつかてっぺん取れるかもしれないだろ? 高尾の大名跡、継いでみせる」
貧しい武士と、立身出世を歩んだこともあった。
「金が無くてはならぬ。金のあるところに人は来る、そして世は進む。金こそ天下の周りもの。儂はこれで幕政を立て直して見せる。あの運河を掘れれば、今度こそ――」
命を賭けて、多くを作ろうとする人の営みを、かぐやは愛さずにいられなかった。季節の移ろいを感じることも、涙を流すことも、誰かの運命を変えることも出来ない。非業の死を遂げた者を救うことなど出来なかった。
そして、時代は文明開化を迎え、どんどんと発展していく。西暦が始まった。やっと、かぐやは希望が持てた。だって、二人が待っているのは西暦2030年だから。まだあと100年以上ある。でも、洋館が建ち始めた。日本は発展し始めた。あぁ、あと少し。
「君のいる時代を、俺も見てみたかった。俺はダメだな。もうすぐ、銀河鉄道が来る」
作家は病床でそう笑った。暗い影の時代が来た。空襲警報が鳴り響き、何人もの人が前線に向かっていく。何もなくなってしまった東京の街で、かぐやは呆然と立ち尽くすしかなかった。あと少しだったのに。もしかしたら、何か歴史が変わってしまうのかもしれない。楓や彩葉の先祖が、ここで死んでしまったら? そう考えて、震えた。
「私は、ここなの。何もなくなっても、ここから離れられない。あなたは進んで。未来へ。――未来をよろしく」
焼け跡で花を売る少女がかぐやにそう託した。助けられたはずの命が心に傷を残す。何でも出来る最強のかぐや姫はいつの間にかいなくなっていた。時代は進む。多くの傷を覆い隠しながら。
「オリンピヤード東京大会の開会を宣言します」
「もはや、戦後ではない」
「七十二時間働けますか」
「安保闘争は今も激化を続け――」
「三種の神器と呼ばれるこの三大商品を持つのがステータスに……」
「未曽有の好景気です!」
「まさに、バブルが弾けたという他ないでしょう」
そして、インターネットが生まれた。あの悲惨な戦争の中で、かぐやの愛したインターネットは産声をあげた。ウミウシの身体でたどたどしくHellow,World!と打った。すぐに返って来る。やっとだ。あと少し、あともうちょっと。
「阪神淡路大震災の被害は――」
「ミレニアムの到来です」
「ワールドトレードセンタービルに――」
『もと光る竹』をネットに接続できれば身体の制限を超えられるのかもしれない。そう思って、プログラムを打ち込む。昔教えてくれた、優しい声。上手だね、才能あると褒めてくれた声。そんな声を思い出しながら、作っていった。
時代は進んだ。インターネットの世界はどんどん広くなっていった。衝撃的だった歌に出会ったりもする。
「メルト 溶けてしまいそう」
コメントの流星群が流れていく。こんな風に誰かを喜ばせる歌を歌えたらな。昔みたいに、歌いたいな。
いつしか思った。戦争もなく、みんなが好きな事をしていて、殺し合うこともない、楽しい世界を。孤独な人もいない、自由に絵や歌や文字を表現できる場所を作りたい。そうだ、名前は――。そしてかぐやは気付いた。八千年の時を経て、やっと気付いた。自分こそが、ヤチヨだったのだと。
CIAの職員はウミウシのかぐやの最後の友人だった。彼は素性を打ち明けても笑いながら協力してくれた。正倉院にある『もと光る竹』を盗み出すなんていう滅茶苦茶なお願いを叶えてくれた。一緒に来ないかという誘いを断っても、彼は笑って言った。
「極上のワインは時間が経つほどに深まる。悪い事ばかりじゃないさ」
そして、準備は整った。仮想空間ツクヨミのプロトデータを作る。ただ、これだけじゃ足りない。このツクヨミを完成させるためのピースはまだそろってない。私一人だけだときっとここを守り切れないだろう。
小学生プログラムコンテストで優勝。高野楓。そんな新聞記事を見つけ、すぐにメールを送った。返信はすぐに来る。そこから、
「ここからですね」
「まぁ、初回はあんまり人入んないですよ。でも、そのうちきっともっとたくさん聴いてくれます。俺は好きですよ、ヤチヨの歌」
「あのさぁ、なにこのコード。どういう思考をしてたらこんなスパゲッティになるんですか」
「仕事してくださいねー」
「なんですかこのアップデート。これいります?」
なんか、ろくでもない会話。
「システムへの攻撃、撃退しました。ここは抜かせませんよ。俺とヤチヨで作った場所なんですから」
記憶通り、かっこよくて優しいところもあって。
そして、楓と二人でツクヨミを作り上げながら、
そして、かぐやは初めて知った。ヤチヨが何でずっとあんなに楽しそうに、笑っていたのかを。
☽ ☾ ☽ ☾ ☽ ☾
すべての記憶が俺たちの中を流れた。八千年分の、積み重ね。その壮絶な世界と、想いと、出会いと、別れ。幾度も月が昇り、星が瞬き、そして太陽が昇っていた。その中を、あの子はずっと駆け抜けたんだ。俺たちに、会いに来るためだけに。長い、長すぎる旅路。その全てを、俺たちは見た。
気付けば、水の上にいた。遠くには太陽が薄っすらと見える。それは沈んでいく夕陽じゃなくて、昇っていく朝日みたいだった。空の上には満天の星と、円環のような何か。あれは、ヤチヨの心象風景なのかもしれない。彩葉さんがゆっくりとヤチヨを抱きしめた。もう二度と離さないと宣言するように。
「触れたらあったかいかな、っていつも思うんだ」
その瞬間、何かが俺の中に繋がった気がした。まだ円環は続いている。今でも空の月でかぐやちゃんは作業しているんだろう。でも、この先の物語は誰も知らない。ヤチヨが知っているのは、かぐやちゃんが月に帰るところまで。かぐやちゃんがもう一回地球に来るのを変えたら全部壊れてしまう。それは今よりもっとひどい結末になってしまうかも。
だから、そこは変えられない。変えられるなら変えたいけど、弄ってはいけない場所だ。でもまだ、未来は確定していない。
「三人でおでかけ、したかったな」
まだ確定していない未来なら、いくらでも変えられる。彩葉さんを見たら、彼女も同じような事を考えているみたい。親って似るもんなのかな。
「まだだ、まだこのお話は終わってない。楓は言ってた。仮想の脳は今すぐだと難しいけど、もし肉体があるのなら……! 記憶、感情、五感、魂の転写流入……それが出来るなら、まだ! その辺、出来る?」
「誰に言ってるの」
彩葉さんの問いかけに、俺は静かに立ち上がった。
「電子の世界で、俺に出来ないことは無い。それにかぐやちゃんにしろヤチヨにしろ大本が月のプログラムなら、やりようはある。お空の上にいる連中、ビビってるんでしょ。なら、ちょっと
かぐやちゃんを返せとは言えない。それをしたら、ヤチヨがやってくるっていうループが消えてしまう。それは許容できない。ならせめて、大本になったかぐやちゃんを構成している全データを教えろと要求しよう。そうしないと、今度はこっちから攻め込むぞと。向こうはそれがハッタリなのかは分からない。それに、地球時間は認識しているみたいだ。なら十分に、やれる可能性はある。
そうすることで、電子生命体を実際の身体に移管する際の諸々について知ることが出来るはずだ。データがあれば、どうにでもなる。こっちには無敵の解析AIもいるわけだし。
「私、やりたいことが出来た。私は身体を作る。だから、魂とプログラムの方はお願い」
「任せとけ」
「頼んだよ、未来の旦那様」
「奥様のお眼鏡にかなうようにしてみせますとも」
俺たちは二人で笑い合う。希望が見えてきた。俺たちならきっとできる。そんな予感が、根拠もないけど俺たちの中に生まれていた。
「俺たちは、ハッピーエンドを教えてもらった。普通のエンドで良いと思っていた時に、ハッピーエンドが何かも分からなかった時に」
「だから今度は、私たちが本当のハッピーエンドに連れて行く。可愛い
宣言した俺たちを、ヤチヨはぽかんとした顔で見上げていた。その表情は、かぐやちゃんの無茶を聞いている時の彩葉さんに似ていた。