キジバトの声がする。ハッと目を覚ましたら、もう朝の六時近かった。なんか不測の事態が起こったらマズいので起きておこうと思って、確か三時くらいまでは起きていた気がする。記憶がおぼろげだけど、多分寝落ちした。取り敢えず覚えている限りだと、隣の部屋は特に異常なく静かなまま。きっとあの赤ちゃんはスヤスヤと眠りの世界にいるんじゃないかな。
うっすい壁の向こうから、微かにタイマーらしき音がする。酒寄さんは起きたんだろう。赤ちゃんは起きてないかもしれないけど、昨日の夜言った通り今後の事を話し合わないといけない。寝起きで申し訳ないと思いつつ、隣室のドアを叩いた。
「どうぞ……」
眠たそうな声がする。どうぞって言われてもな、と思って鍵を捻るとすんなり開いた。この僅かな時間に酒寄さんが開けたとは思えない。俺が帰った後閉めないで寝ちゃったのかもしれない。
「酒寄さん、こんな都会のど真ん中でカギ閉めないのはヤバいって。俺の部屋なら最悪もの盗られて終わりかもしれないけど、酒寄さん女子なんだし」
なんか親みたいなことを言ってしまった。同級生に言うような言葉じゃないかもしれないけど、でも心配なのには変わりない。都会って結構変な人がいる。酔っぱらったからって部屋間違える人、深夜徘徊のついでに他人の家のドアノブを捻る人は知っている。あと、前のアパートは俺の前の住人の元カノ? らしき人が殴り込んできたこともあった。鍵かけなくていいのはド田舎だけだと思う。偏見だけど。
「そういうのはもう無意識レベルで警戒しないと、ここセキュリティーのセの字も……」
そこまで言って、目のやり場に困った。昨日最後に見た時はバイト帰りの制服だったけど、パジャマ姿になっている。夏の服なので随分と薄いし、足が結構がっつり見えている。どう言ったらいいのか分からない俺の醜態を嗤うように、扇風機のカラカラと言う音だけが響く。
「あぁ……おはよう」
「お、おはよう」
視線を向ける先に困って、俺は肝心の赤ちゃんの方を見た。布団の上でスヤスヤと寝ている。……その布団に染みを作りながら。昨日の夜に激安の殿堂で色々仕入れはしたけど、もっと早くに持ってくるべきだったかもしれない。そこら辺の判断をミスったあたり、二人とも混乱してたんだろう。
「うわ、濡れてる! マジか!」
「まぁ、赤ちゃんだしね。ちょっと酒寄さんさ、台所借りるよ。色々仕入れはしたから。申し訳ないんだけど、お風呂場で着替えてくれると嬉しい。なるべく早く」
「へ?」
「その、さ。目のやり場に困るから。俺もほら、一応男子だし」
「あ、ご、ごめん」
全然謝る事ではないんだけど、酒寄さんはそう言って慌てて風呂場に行った。ここ、彼女の家だし、謝る必要は微塵もないというか、なんなら俺の方が異分子と言うか。家主を浴室で着替えさせて、隣人がメインルームを占領しているというのも変な気分だ。
「じゃあまぁ、ちょっと準備をば」
昨日の夜ネットで調べておいた通りの手順で準備をしていく。粉ミルクの作り方なんてこの年で知る羽目になるとは思わなかった。この子が母乳派ではないことを切実に祈る。後はオムツと、換えるときに使うウェットシートと、小さいビニール袋と。普通の高校生の部屋には絶対ないものばかり。マットレス的なのは布団を代わりにすればいいかな。
喫緊で絶対必要っていうのものは揃えてきた。オムツのサイズとか良く分からなかったので、適当に幾つか買っておいたけど正解だった気がする。
「ていうか、なんかデカくなってない?」
もっと小さかった気がする。いや、夜だったし混乱してたしでちゃんとサイズを測ってなかったけど、こんなデカくはなかった。普通の人は一晩でサイズが変わったりはしない。コナン君の逆バージョンかなとか、くだらないことを考えた。
ドンキのオムツコーナーでウロウロしていたら、ベビー用品を買いに来たであろう若いお母さんに色々教えてもらえた。新米パパと思われたんだろう。まだそんな年じゃないんだけど、まぁこういう年で父親になる人も決していないわけではないのかな。
おかげで乳液とかそういうのも仕入れた。あと、前掛けとか色々。結構デカい出費にはなったけど、普段使わないで貯めておいたのが功を奏して、まだ残金には余裕がある。でもそれだっていつかは限界が来てしまうだろう。
「ごめん、お待たせ」
「あぁ、うん。今ごはん作ってるから、オムツだけ交換してくれる? あと、シーツは洗った方が良いかも。と言うより、この部屋暑くない? 熱中症になっちゃうんじゃないかな、赤ちゃんって体温高いみたいだし」
「あ、ヤバ」
酒寄さんは慌ててエアコンをつける。というか、こんな真夏の夜にエアコンなしで耐えていたのか。マジで?
いや、マジなんだろうけど正気を疑う。そりゃ確かに部屋の中は外よりは日光が無い分マシかもしれないけど、それでも連日の天気予報で酷暑だの熱帯夜だのを注意している。正気の沙汰とは思えなかった。もしかしたら、夏に冷房を付けないで救急搬送されているご老人ってこういう空間にいるのかな。それなら、ぶっ倒れるのも納得。
「はい、出来た。酒寄さんの方に懐いてるみたいだね。お母さんだと思ってるのかも」
「そんな鳥じゃないんだから……」
そう言いながら、酒寄さんはオムツを換えて抱きかかえた赤ちゃんの口に哺乳瓶を入れている。ごくごくとよく飲んでいた。結構お腹空いていたのかもしれない。
「飲ませたら、肩に顎を乗っけて、背中を優しくトントンしてみて」
けぷぅといい声を出していた。きゃきゃと笑いながら酒寄さんの顔を見つめている。やっぱりママだと思ってるのかもしれない。確かに、彼女が最初に会ったのは酒寄さんだ。でも、赤ちゃんってあんまり目が良く見えてないはずなんだけど……その辺は人外クオリティーなのかもしれない。
「高野君、詳しいね」
「ちょっと調べたから。途中で寝落ちしたけど、なんか問題あっても対応できるように起きてるつもりだったし」
検索履歴は育児中の人みたいになっている。
「というか、このあちらこちらにあるベビー用品は……?」
「あぁ、それは昨日酒寄さんと別れてから買った」
「買った!?」
「うん。ドンキで買ってきた。まぁまぁ安かったよ、その量にしては」
「そんな、レシートは?」
「あー、捨てた。俺、レシート貰わない主義なんだよね」
「じゃ、じゃあ支払い履歴とか。ふじゅ~payとかの」
「俺、現金派だから」
「あ、そうなんだ。……ツクヨミの保守担当っていう滅茶苦茶電子派っぽい感じなのに?」
流石酒寄さん、察しが良いというか、頭の回転が速いというか、よく気付く。ぶっちゃけ誤魔化した。買ってこいとも言われてないし、俺が自分の判断で買ったものだから、請求する気なんてない。酒寄さんは真面目だし、きっと性格も悪くないはずだから、こういう時にお金を払おうとするだろう。
そもそも、ありがと~で終わらせられるような図太い人なら、こんなボロアパートで冷房も付けずに日々頑張ってないと思う。それくらいのことは俺にだって理解できた。
「それよか、この子なんかデカくなってない? 俺はどうしてもそうとしか思えないんだけど」
「誤魔化した……」
「まぁまぁ」
「はぁ、後でちゃんと払うから。それで……確かにおっきくなってるかも」
「こんな逆コナン君みたいな事が起きるってことは」
「やっぱり普通じゃない、よね」
二人してため息を吐いた。なんでこんなビックリどっきりSF大事件! みたいなのに、ちょっぴり普通の家庭環境じゃないかもしれないけど、平凡に小市民として生きていたはずの俺たちが巻き込まれないといけないのか。運命の神様はいたずら好きらしい。
「宇宙人、なんだろうね多分」
「なのかな。この子、どうしよう……ずっとは匿えないよ」
「でも警察に言ってもなぁ。成長速度が普通なら保護してもらうところだけど、この感じだととんでもないことになりそうだし」
NASAとかで解剖されちゃうかもしれない。日本だったらJAXAかもしれないけど。宇宙人なのはもう確定だとして、じゃあどこの星の方なのかも分からない。金星なのか、火星なのか、それ以外なのか。M78星雲からかもしれないし、イスカンダルからかもしれない。
「?」
赤ちゃんは頭を抱えている俺たち二人を見上げながら、純粋無垢な笑顔を向けている。その顔は止めて欲しい。昨日色々調べていたら、赤ちゃんが可愛いのは周囲の大人に守ってもらえるようにするためと書いてあった。まさにその通りだ。現に俺たちはこの子を外部に渡した時の結末を考えて、手放すのを躊躇している。
「もうちょい大きくなってくれればなぁ。流石にこの状態だとつきっきりじゃないといけないだろうし」
「あんまり変わんなくない?」
「いや、もうちょい大きければなんか作業とかもできるし、その間は遊んでてもらえばいいから」
「どこで」
「俺の部屋で。酒寄さん、学校行かないとだしさ。日中は俺の部屋にいて、寝る時だけ酒寄さんの部屋にいるとか。最悪俺が引き取ればいいし」
「いや、いやいやいや。そういうわけにはいかないでしょ、私が拾ってきちゃったんだから。高野君をそんなことに巻き込めないというか、そこまでさせられないっていうか」
自分が拾ってきて連れて帰ったんだから、自分が面倒を見るべきだ。酒寄さんはそう主張した。それは筋が通っていると思う。ただ、現実的に不可能ってことを除けば。
酒寄さんは忙しい。学校でも真面目に過ごして、通っている。何日も休んだりは出来ないだろう。将来はどこかの大学に進学して、バリバリ学生生活を送るんだと思う。それに、友達だって心配する。綾紬さんや諌山さんは心を痛めるだろう。
翻って俺はどうだろうか。別にそんな友達もいないし、夢もない。大学に行くつもりもない。このままツクヨミの保守業務で十分食べていける。このボロアパート住まいなのは変わらないだろうけど。学校に通わせたりしないでいいなら、このヘンテコ宇宙人と同居することもまぁ不可能ではないはず。厳しくはあるけど、頑張れない範囲じゃない。
「俺には将来の事とか目標とか無いし。だから、この子と二人でも頑張れば暮らせるかなって」
「頑張ればって……そんな努力、本来の高野君はしなくてよかったんだよ」
「でも、俺は自分から関わりに行った。見て見ぬふりとか出来たけど、それでも手を出すって決めたのは俺自身だからさ。それに努力っていうけど、普段の酒寄さんのしてる努力よりはきっと何倍も矮小だろうから。それくらい出来なきゃ、情けなすぎるよ」
ぽかんとした顔で、或いは何かに動揺したような顔で、彼女は俺を見ていた。どういう感情なのかはいまいち良く分からない。
「子供にはさ、誰か親とかそういう代わりの人がいた方が良いだろうし。一人は、寂しいから」
寂しい。そんな言葉が、ぽろっと零れ落ちるように出てきた。俺は、寂しかったのかな。母親が亡くなった直後にヤチヨに出会った。その後父親が亡くなった後も、ツクヨミに居続けた。そのおかげで寂しさみたいなのは少なかった気がする。それでも、心のどこかに寂しさがあったのかもしれない。
そんな風に気付きかけた何かを心の奥にしまった。今大事なのは俺のことじゃない。でも、疑問は頭の中に浮かんで消えない。両親って、どんな声だったっけ。
「……決めた」
酒寄さんは静かに言って立ちあがった。
「もうちょっと様子を見る。まだどうなるのか分かんないし、もっと大きくなって自活できるようになったら追い出せばいいし」
「追い出しはするんだ……」
ま、その時は俺の部屋で過ごしてもらえばいいか。そう思って酒寄さんの言葉に頷く。彼女は責任感が強いというか、自分で決めたことは貫きたいタイプみたいだから、このまま放置は流石に気が引けたんじゃないかな。多分、そんな感じがある。
「この件に関しては、俺と酒寄さんは共同戦線みたいなもんだから。だから……」
言葉に迷う。どこまで踏み込むのか、どこまで言っていいのか。でもこんな事態に遭遇して、酒寄さんも冷静そうには見えないし、きっと不安な気持ちもあるんじゃないか。だったら、ちょっとくらい踏み込んでもいいかな。そう思って、言葉を続けた。
「それぞれ出来るは違うだろうから、出来る事を出来る範囲でやっていこう」
「分かった。よろしくお願いします」
「こちらこそ」
俺が迷いながらも酒寄さんに差し出した手は、しっかりと握られる。あんまり大きくない、女の子の手だった。手なんて初めて握ったかもしれない。ついついそんなことに思考を吸い取られてしまった。多分、酒寄さんは何にも感じてないだろうし、バカみたいだ。
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「赤ちゃんって普段何してるんだろう」
今後の方針がぼんやりながらも成り立ったところで、酒寄さんの素朴な疑問が出た。
「寝てるんじゃない? 赤ちゃんは寝るのが仕事って言うし」
「そっか……」
「基本的には寝てるか、起きてるときはボーっとしてたりなんかやってたりするらしいよ。まだハイハイとかは出来ないし、寝かせておけばいいんじゃないかな」
「なるほどね」
ビニール袋をくしゃくしゃすると泣き止んだりするらしい。あと、適当なおもちゃを持たせておくとか。何かを誤飲しないようにしないといけないけど、酒寄さんの部屋はかなり片付いているし、小物とかは段ボールや押し入れにあるようなので、床に置いている赤ちゃんが何かを呑み込んだりする危険はないだろう。
全部ネットの知識だけど、世の中の育児に悩むお父さんお母さんの集合知でもある。ある意味、その辺のろくでもない記事よりは全然信用度が高いんじゃないかな。育児ブログって、そういう先人の知恵の塊と言うか、血の涙の跡に見える。
「もう困ったらそのタブレットで何か見せておけばいいと思う。酒寄さんが音鳴ってても勉強できるタイプならだけど」
「まぁ、あんまり気にはならないかな」
「そっか。なら、大丈夫だと思う」
どっちの部屋に置いておくかは揉めに揉めた。融通のきく俺の部屋にした方が良いと俺が主張し、自分の責任が大きいからこれだけは譲れないと酒寄さんが主張した。長い論戦の末、当たり前のように俺が負けた。悲しいかな、学力の差はレスバ力の差なのかもしれない。
「俺もちょくちょく様子は見にくるよ。迷惑じゃなければ」
「むしろ助かる……」
「ちょっとこっちも佳境だから、そこまで助けられないかもしれないけど、買い出しとかならちょちょっと行くから。遠慮なく呼んで」
「……うん」
ちょっと返事に迷いがあった。俺はそんなに頼りないかなと少しショックを受ける。結構色々やってはいるつもりなんだけど。でも、酒寄さんの基準には届いてないのかもしれない。
「俺、やっぱり頼りない?」
「そんな事ない!」
「だったら、もっと頼ってくれると嬉しい。少なくともこの件に関しては、酒寄さんは一人じゃないんだから」
俺はそれだけ言って、靴を履く。一旦部屋に戻って、作業の続きだ。昨日の夜はこの件で全然進められなかった。ヤチヨはそれでも良いと言ってくれたけど、自分の仕事の領分にあるものはきちんと済ませてしまいたい。
「じゃ、またあとで」
「高野君」
「別に君付けじゃなくてもいいよ、もっと適当でも」
「じゃあ、高野」
呼び捨てにされるのは新鮮だった。それくらいには近しくなれたのかなと思う。下心とかじゃなくて、そうだとしたら純粋に嬉しいなと思った。
「ありがとう」
「どういたしまして」
「ごめんなさい」より「ありがとう」の方が貰った時には気分がいい。彼女がもうちょっと頼ってくれたら、これ以上言うことは無いんだけどな。そんな風に思う。酒寄さんは完璧じゃない。それは、ここに越してきてから気付いた。
そして、この赤ちゃん騒動に遭遇して、追加で気付いたことがある。酒寄さんは、ちょっと自立心が強すぎる気がする。何でもかんでも自分でやろうとする。それは世間的には良いことなのかもしれないけど、ちょっと病的に見えた。もしかしたら、綾紬さんとか諌山さんはそういうところが気にかかっているのかもしれない。
俺にそれを変えられるなんて、自惚れてはいない。それはただの凡人である俺には出来ないし、する権利もない。でも、少しでも助けになれたらいいなとは思う。
「ツクヨミの管理者権限で、俺の端末にアニメ配信サービスのアクセス権入れておいたから。困ったらそれでアンパンマン流すといいよ。すぐ持ってくる」
「大丈夫なの、それ?」
「
部屋のドアを開けると夏の空が広がっている。青い空と入道雲。暑い夏は好きじゃなかったけど、不思議と今は少しだけ心が躍っていた。
こんな、訳の分からない状況の中なのに。