前半部部の引っ越してからあった諸々は彩葉視点とあんまり変わりません。かぐやがいないだけですね。楓の引っ越しが一年前倒しになっていますが。
夏の暑さがじわじわと忍び寄り、もうすっかり熱帯夜の様相を呈するようになってきた高校一年生の七月。母から離れ、このボロアパートで一人暮らしを始めてから数カ月が経過した。バイト先に仕事にも慣れ、ちょっとずつだけど日々の暮らしが出来上がりつつある。
正直に言ってしまえば、全然楽じゃない。こんなにやらないといけないことが多いのかとか、家に帰っても誰もいないことに疲労感がたまったりとか。増えない残高、やってくる光熱費の請求書。家賃は安いけど、それでも無いわけじゃない。学費の請求書、通信費の請求書、こっちは修学旅行積立金。今まで見えないところに存在していたお金は全部自分で回さないといけない。
それは中々骨の折れる事だったけど、それでも自分で生きているっていう実感が私を護っていた。それでも時々泣きそうなときは、ヤチヨの配信を見て癒されている。彼女は私の中の大きな救いだった。
そんなある日、隣の部屋に引っ越しのトラックが出入りしているのを見た。誰か越してくるみたい。折角空き部屋だったのにちょっと残念。そう思いながら、今日も今日とて戦場ことバイト先に向かった。
帰ってきたら、隣の人が挨拶に来る。律義な人だなと思いながら玄関を開けたら、そこには同級生が立っていた。なんでも、前の家の水道と冷房が壊れてしまったらしい。その不運には同情したけど、学校の人にこんな暮らしをしているとバレたくなかった私の懇願に、彼は、高野楓は何でもないかのようにこう言った。
「酒寄さんも、色々あるんだろうし。言いふらすような事しないって。俺にそんなことするメリットも無いし、する相手もあんまりいないし。あと、出来る事があればとか、気にしなくていい。こんなの見返り無くてもやるでしょ、普通に」
普通に。その言葉が痛かった。そんな小さな痛みを伴いながら、私と彼の関係性は始まった。そこからは色んなことがあった。彼がツクヨミの統括管理補佐ことアメツキカエデであると知ったり、そんな彼から懐中電灯や防犯ブザーを貰ったり。そんな日々を過ごすうちに、少しずつ私の心は溶けていった。この人の前でなら、安心して取り繕わないでいられる。そんな思いが芽生えていった。
色々な話をして、ちょっとずつ仲良くなって。ご両親が亡くなっているので一人暮らしをしないといけない彼と、自由になりたいっていう理由だけで飛び出してきた私。その差が苦しくなる時がある。彼は私の事情を知らない。多分、知っても変わらず尊敬しているなんて言ってくれるんだろう。でも、本当に尊敬されるべきは彼の方だった。
もうすぐ夏休み。将来に向けて、私は勉強とバイト漬けの日々を送るつもりだった。そんなある日、呼び鈴が鳴る。
「はーい」
「夜にごめんね。酒寄さん時間大丈夫?」
「大丈夫だよ。どうしたの?」
「そうめん余ってるんだけど……貰ってくれない?」
彼は大きな段ボールを抱えながら言った。
「なんかさ、適当に応募したネットの懸賞に当たっちゃって。それでドサッと来たんだけど、それがもうすんごい量で。俺一人じゃ食べきれないし、腐らせちゃうのも勿体ないから、少し貰って欲しいなって」
学校ではお互いに話しかけることは無い。私は私で忙しかったし、彼は基本ずっと寝ている。狸寝入りとかではなくホントに寝ているみたいで、この前通りかかったら気持ちいくらいの寝息が聞こえていた。昼夜逆転の生活、みたいな感じなのかもと思っていた。なにせ、私が寝ようと思った時にはまだ電気が点いているから。ベランダ越しに隣室の灯りは見える。
なので、この関係性を知っている人はほとんどいない。彼の優しさに直接触れている人も、同様に。
「でも……」
「人助け&フードロス対策と思って、ね?」
「ホントに良いの?」
「良くなかったらこんなでっかい段ボール抱えてこないよ」
彼が多分ほんのりと嘘を吐いているんだろうなって、私は分かっていた。でも、その優しさに甘えてしまう。自立、するつもりだったんだけどな。私はこのままじゃ、母の言う通り甘ちゃんのままなのかもしれない。だけど断ったら彼はきっと悲しむ。それは良くないよねって、自分に言い訳した。
「てか、酒寄さんの家暑くない?」
「まぁ、そうかも」
電気代節約のためにエアコンは起動していなかった。扇風機がカラカラと音を立てている。
「え、エアコン付けてないの? ごめん、もしかして今からどこか行くところだった?」
「そんな事ないけど」
「……じゃあ、帰宅直後的な?」
「ずっといたよ、今日は」
「この真夏に、冷房無しで……? ま、まぁ夜だけだよね?」
「昼もだけど」
「……」
信じられないものを見る目つきで彼は私を見た。
「酒寄さん、それはダメだよ。酒寄さんが頑張って学費とか自分でどうにかしているのは知ってるけど、ちゃんと使うべきところにお金は使わないと。このメーカーでこの面積だと……一年間フルで使っても2万いかないくらいだし。真夏に冷房を付けないで熱中症になって、何人も毎年搬送されてるじゃん。自分の健康を守らないと、頑張るものも頑張れないって」
「で、でもその2万円のせいで後悔することになるかもしれないし……」
「だけど、今付けないと近日中にぶっ倒れるかもしれないよ。そうなったら、入院代とかでもっとお金かかるんじゃない?」
「そう、かもだけど」
確かに彼の言っていることは理解できた。ド正論だと思う。でも、なんだか素直に受け取れなかった。うーんと言いながら私を見て悩んでいた彼は、何かをひらめいたような顔になる。
「じゃあさ、その分をすぐに稼げるようになればいいんじゃないかな」
「え? そりゃまぁ、それを補填できるだけのバイトとかあればいいけど。でも今のシフトで割と限界ギリギリに入れてるからなぁ……」
「酒寄さん、料理とかできる?」
「人並みには」
「よかった。それなら、バイトしない?」
「どこで?」
「ここで」
何を言っているんだろう、この人。暑くておかしくなっちゃったのかな。扇風機耐久をしている私より心配だった。
「どういうこと……?」
「つまりさ、夏休みの間ご飯作ってくれないかなって。出来れば三食。食材費二人分、作業費は一食当たり一時間分の時給。これを明日から、取り敢えず夏休みの終わりまで。どう?」
食費を向こうもちってことは、ちゃんとしたモノを食べてもお金は減らない。それどころか、時給がもらえる。三食作れば三千円強。それが40日くらい。合計すれば、12万強。それだけあれば、当分は楽な暮らしができるかもしれない。
「あー、でもやっぱり嫌だよね。同級生とは言え、ただの隣人にご飯作るなんて」
「いや、そんな事ないけど」
彼は私のことを友達だと思っていないのかな。私は思ってたんだけど、どうも違うみたい。それはちょっと悲しかった。折角少し仲良くなれたと思っていたのに。勘違いだったのかもしれない。
「正直に言えば、私にはすごいメリットがある。でも、高野君に何のメリットがあるの?」
「美味しいご飯が食べられる。少なくとも、コンビニ飯で三食済ませるよりは健康的な可能性が高い」
「家政婦さんとかの方が、良いんじゃない? それに、高野君のお金だって……」
「仕事の都合上さ、あんまり知らない人が家に来ると困るんだよね。お金は心配しないで。ツクヨミはそんなに貧乏じゃないから。あとメリットがあるとすれば……可愛い子にご飯用意して貰えるのは、普通に嬉しいってことかな?」
口説いてんの?
急に可愛いとか言われて、ちょっと動揺した。全然そういうことを言うタイプだとは思っていなかったから。そりゃ、バイト先とか学校とかで言われたことはあるし、自分の容姿はキープできるようにはしているつもりだ。でも、普段全然そういう感情とかを見せるタイプじゃない人に言われると、ちょっとビックリしてしまう。
でも悪い気はしなかった。
「どうかな? まぁ酒寄さんも忙しいと思うけど、もしよかったら検討してもらえると……なんてね」
「それ、冗談じゃないよね?」
「こんな大事な事で冗談なんて言わないよ」
「じゃあ……お願いします」
出来過ぎな話にすら思える。彼に何か思惑があるとか、裏があるとかした方がまだ現実味があるんだろう。でも、彼の目にはそんな感情は一切感じられず、私が引き受けてくれたことを純粋に喜んでいるみたいだった。その垂れた目が優しそうな眼差しで私を見つめている。その瞳の穏やかな色に、少しだけ鼓動が早くなった。
「よーし、じゃ俺は買い出しに行ってくるから。俺の家にはフライパンしかないから、酒寄さんの家で作ってくれる? お皿は後で持っていく」
「う、うん」
そこから、私たちの奇妙な関係が始まった。同級生で、隣人で、ご飯を作る相手。私が、私を出せる相手。それが高野楓だった。
「おはよう……」
「はい、おはよう。もうすぐ出来るからね」
「ありがとうね、毎朝」
「お金貰ってるんだから、当たり前」
私の部屋のキッチンはここ二、三週間、引っ越して以来初めてのフル稼働していた。フライパンの上では目玉焼きとベーコンが良い匂いを醸し出している。トースターの中には二枚の食パンが入っていた。机の上に置いてあるパソコンからは八月三日の天気を告げるニュースが流れていた。
眠そうな目をした彼は朝の七時半に訪ねてくる。前まで休日はもっと遅くまで寝ていたみたいだけど、私に合わせてくれていた。朝の七時半に朝ごはん。正午に昼、夕方は私のバイトや彼の仕事に合わせて適宜変更。それがこのお仕事のタイムスケジュールだった。私が友達と出かける時は無くてもいいなんて、そんな自由さまである。正直、罪悪感に襲われないと言えば嘘になるけど、私はずぶずぶと甘えていた。
ありがとうなんて、言うのはむしろ私の方だ。おかげさまでご飯を三食食べられている。その影響か、肌や髪の艶が戻って来たし、口内炎も無くなった。お腹が空くことも無くなって、前より勉強に集中できた。冷房もちゃんと起動しているし。QOLが高いとパフォーマンスも良くなる。彼の言っている通りだった。
「お待たせしました」
目玉焼きとベーコン。焼かれたトーストと上にはバター。レタスのサラダにヨーグルト。一か月前の私が見たらその豪華さに卒倒するレベルの朝食が平然と毎朝並んでいる。自分で作っておいてなんだけど、未だに慣れない。
「「いただきます」」
私の部屋にあるちゃぶ台を挟んで向かい合わせになりながら、私たちは手を合わせた。一緒にご飯を食べるっていうのは、別に仕事内容に入っているわけじゃない。私がそうしたいからっていう理由で始めた。彼には、片付けが楽だからって説明している。でも、本音のところはそうじゃないって自分で分かっていた。
「どうですか、今日は」
「美味しいよ」
「なら良かった」
あぁ、この言葉が聞きたい。美味しいよ、と言ってくれるとそれだけで嬉しい気持ちが満たされていく。そして、もうちょっとこうしたらいいかなとか、この料理はどうかなとか、そんな工夫をしたくなってくる。そのループがずっと続いていた。最低限のモノでいいと彼は言うけれど、それは私のプライドとか色んなものが許さない。どうせなら、私にこんな優しさをくれる相手には喜んで欲しかった。
「今日の夜は遅くなりそう」
「了解。あんまり頑張りすぎないようにしないと。酒寄さんは十分頑張ってるんだし」
「ありがとう。でも、目指している場所があるから」
「そっか」
気にかけてくれているだけで、私には十分だ。
「そっちはどう? ツクヨミ、大規模アップデート中だったと思うけど」
「まぁね……この後もずっと作業だよ。お盆までには終わらせたいから」
「ツクヨミユーザーとしては健闘を期待します。あ、でも宿題は?」
「……」
「終わってない、と」
「存在を忘却してた」
「あー」
しまったなぁ、と言いながら彼は頬を掻いた。そこで、私はひらめく。
「じゃあ、教えようか?」
「へ?」
「私が教えてあげるよ。これでも成績は良いしさ。理系科目以外ならお役に立てるかもって思うんだけど」
「い、いや悪いよ。俺、別に成績良くないし。酒寄さんの足引っ張っちゃうから」
「大丈夫。教えることで学習の定着が図れるっていうデータもあるから。それに、こんな好待遇のお仕事と私の食生活改善のお礼がしたいし」
「お邪魔じゃないなら、頼りたいけど……」
「任せて」
その笑顔に、瞳に、優しさにずっと包まれていたい。見えないところで人を惹きつけてしまう彼の存在を、どうにか自分に縛り付けておきたい。そんな黒い欲望が湧き上がっていた。勉強を教えれば食事の時以外も、同じ空間にいられる。貰ってばかりの私が、少しは彼の役に立てるかもしれない。
彼の存在が私の中に少しずつ増えていく。それが心地よいとすら感じている自分がいた。
「ごちそうさまでした」
「お粗末様でした」
「今日のお昼は?」
「焼きそばとか、どうかなって」
「お~、素晴らしいチョイス。楽しみにしてるね」
「そんな大したものじゃないって」
私の苦笑いを穏やかにいなして、彼は私の部屋から出て行った。バタンと閉まるドアの音が、無性に私の心を締め付けた。去っていく背中に、私は思わず手を伸ばしそうになってしまう。なんで、こんなに弱くなってしまったんだろう。
その日のバイトもどこか集中力を欠いていた。ミスはしなかったけど、危なかったぁっていう場面が幾つか。ここ最近、そんな事ばっかり。原因は何となくわかってる。今までと変化したことと言えば、彼の存在くらいだ。でも私は、自分の感情を整理できないでいる。名前を付けられないでいる。
困った時は、ここに相談しよう。そう決めている場所に、お悩み相談を送った。ヤチヨのお悩み配信。私が苦しい時の道しるべだ。イヤホンを付けて歩き出す。採用されるかは分からなかったけど、ヤチヨは読み上げてくれた。夏の夜のじわっとまとわりつく暑さの中、私は貰った懐中電灯で道を照らしながら歩く。
『ヤオヨロ~。今日も、みんなのお悩みに応えていくよ。まずは東京都在住のいろいろさん。いつも見てくれてありがとう。お悩み、最近訳あってお隣さんにご飯を作ることになりました。そんな毎日を続けていると、もっと美味しいって思って欲しいとか、もっと喜んで欲しいっていう気持ちになります。自分の中に彼の存在が大きくなっていって、それに戸惑ってしまったり、集中できなくなってしまうことがあります。どうしたらいいでしょうか。なるほどぉ』
ヤチヨの穏やかな声で私の投稿が読み上げられている。こうして冷静に聞くとちょっとこっぱずかしい内容だったかもしれない。
『まずね、いろいろさんの感情にしっかり名前を付けよう! ヤッチョの勝手な決めつけかもだけど、この感じはズバリ「恋」だね!』
恋。その言葉を突き付けられた時、私の中にある全部に説明が出来る気がした。え、もしかして、私は彼に恋をしているの? まだ出会って一ヶ月くらいしか経ってないのに?
『人が恋をするときっていうのは、あっという間だからね~。凄く長い人もいるけど、逆に一目で好きになって、そのまま幸せに人生を過ごす人もいる。だから、出会ってからとかは関係ないよ。相手のことを思って、相手に幸せになって欲しい。そんな風に思うのは、恋だし愛じゃないかなとヤッチョは思います』
名前が付いた。その瞬間、ドクドクと鼓動が早くなる。
『まだそこまでハッキリ自覚できてないかも? でも、人に言われると気付けるかもって思って、ヤッチョは今言ってみました。確かめたいときはそうだなぁ、じゃあ凄く可愛い子がそのお隣さんに告白しています。どう思うかな?』
ズキンと胸が痛んだ。彼は優しいし、容姿も悪くないし、困っている人に手を差し伸べて、何でもないと言える人だ。普段あんまり人と関わらないだけで、ちゃんと関わると凄く安心感がある。全部を委ねてしまってもいいと思えるくらいには。それでいて踏み込み方も凄く上手い。そんな人を好きになる人がいてもおかしくない。それはちゃんと理解している。
でも、苦しい。胸が凄く苦しい。私じゃない誰かに、あの笑顔が向けられている。そんなの嫌だな。醜い嫉妬心がドンドンと溢れていった。
『今苦しいなら、それは恋なのです。それをどうするのかはいろいろさんの自由だけど、恋愛は先手必勝! 恋が成就するのをヤッチョは電子の海から祈っています。好きには正直にならないとね。八千年の恋愛指南、役に立ったかな~?』
バクバクと高鳴る胸を抑える。ヤチヨは次のお悩みについて話している。私はイヤホンを外す。満天の夏の星空の下、私の頬は夏の暑さでは説明できないくらい熱く燃えている。歩道橋の上で、私は大きく深呼吸をした。このまま家に帰ったら、彼が待っている。あと五分歩けばあのアパートだ。
落ち着け、酒寄彩葉。彼はきっと、そんな気持ちはないはず。仮に、仮にだ。私が彼のことを好きだとして、いきなり告白しても上手く行くかは分からない。やっと友達だと思ってくれたみたいだし、そんな状態で告白って言うのも――
ぐるぐると回り続ける悩みを抱えていると、後ろから声をかけられた。
「あれ、酒寄さん?」
その声にドキッとする。
「偶然だね、俺もコンビニ帰りでさ」
「そ、そうなんだ」
「バイト、お疲れ様」
「う、うん」
どうしてもぎこちなくなってしまう。ヤチヨが強制的に意識させてくれたせいで、彼の一挙手一投足が私の耳目を惹きつける。彼が歩き出した。私はそれに並んで歩き出す。彼が何かを話しかけてくれているけど、曖昧な返事しか出来なかった。目を合わせられない。そのせいか、ちゃんと前を見ていなくて、階段を降り終わりかけたところで足を踏み外した。
「酒寄さんッ!」
落ちかけたところを、少し前にいた彼が咄嗟に受け止めてくれた。どしん、と音を立てて彼は私を抱き留めたまま路面の上に腰をついた。
「大丈夫?」
「私は、大丈夫。ありがとう、助けてくれて。高野君こそ、大丈夫?」
「なんとかね」
よかったぁ、って言いながら、彼は安堵した表情で私を見つめている。私の身体は大きく彼に抱きしめられるように寄りかかっていた。服越しに彼の鼓動が聞こえる。私の鼓動も負けないくらいに高まっている。下手したら彼が大けがをしていたかもしれないのに、彼は迷わずに自分が下になって私を抱き留める選択をしてくれた。
そういうところだよ、私をおかしくしたのは。キスしそうなくらい顔が近い。
「怪我してなくてよかった」
彼は優しく言う。いつまでも抱き着いているわけにもいかないので、私は立ち上がる。彼はパンパンとお尻を払いながら、少し擦りむいた手をさすっている。
「高野君」
あぁ、私の理性が壊れる音がする。これまでの日々で溶かされた心の防壁は既に存在していないに等しい。そして、名前を付けないようにして誤魔化していた感情にヤチヨが名前を付けてしまった。その顔を見るたびに、心に刺さる痛みが増していく。これが恋なのかな。それに振り回されているのは、母から見れば滑稽なのかもしれない。だとしても私は、それに心地よいとすら感じていた。
「どこか痛む?」
「ううん、それは大丈夫。こんなタイミングで言うのも変な話だけど、でも言いたいことがあって」
「酒寄さん?」
「――好きです」
彼の目は大きく見開かれた。言ってしまった、言ってしまった。もっと誤魔化していれば、気付かないふりをしていれば、このままのぬるま湯みたいな日々を続けられたかもしれないのに。もしここで振られてしまったら、私たちはもう前みたいには戻れない。全部終わりかもしれない。それでも、私は言わずにはいられなかった。どうか、聴いて欲しい。私のこの想いを。
あなたのせいでこんなに膨れ上がってしまった、この心を。
「あなたのことが、好きです」
どんな答えが来るのか。何かに祈った。胃の中から全部出てしまいそうな感覚。その永遠みたいな刹那の末に、彼は戸惑いながらも答えをくれた。
「えっと、その、俺の何が良いのかは分からないけど、そう思ってくれたなら嬉しいな。全然カッコいい彼氏とか、理想のパートナーにはなれないかもしれないけど、よろしく」
今この瞬間、世界が止まればいいのに。あなたはあなたのままでいてくれればいい。その優しさに、温かさに、私は狂わされてしまったのだから。惹かれてしまったのだから。好きに正直にならないと、とヤチヨは背中を押してくれた。
私の目指しているモノとかには、もしかしたら恋愛なんかしていたらたどり着けないのかもしれない。でも、もし可能なら、私が頑張りつつ彼が傍にいてくれることでなら成し遂げられるのだとしたら、私はこの恋を守りながら進んでいきたいんだ。
三日月が私たちを照らす。カップルになったって何をすればいいのかもわからないながら、私たちはぎこちなく歩き出した。私たちの、帰るべき場所に向かって。
好評なら続きもあります。かぐやはこの時系列の翌年に来ます。既に夫婦の状態のところへ来るのがかぐや姫のストーリーですしね。