夏休みの初頭に、私たちは付き合い始めた。私からの告白という、理性の欠片もない事態をきっかけにして。あのタイミングで行くのが正しかったのかは分からないけど、結果が良ければそれでいいような気がする。抑えきれない想いを零れ落としながら、私は彼に自分の恋を伝えた。
あの後家に戻って、二人でご飯を食べて、そして彼は自分の部屋に戻っていった。彼が帰っていくのが恨めしかったのをよく覚えている。私たちを挟む壁一枚が、酷くぶ厚い監獄の壁みたいに思えて、ベルリンの壁ってこういう感じなのかなって思った。
それから数日が経ったけど、なにしろ私たちのどちらも恋愛経験が無い。どういう風にしたらいいのか、わからずじまいだった。
「ごちそうさまでした」
毎朝、毎昼、毎夜こうして食卓を囲んでいる。これはもう、家族みたいなものなんじゃないだろうか。きっとそうに違いない。私たちの間にあるこの料理契約は、私にとってはすごく大事な物だった。恋人関係なんてものは、脆く崩れてしまうことだってある。そうならないようにするための、二重の鎖。彼を私に繋ぎ留めておくための、大事な鉄鎖だ。
テレビも無い、漫画もゲームも置いていないこの家で出来る事と言えばタブレットで配信を見るか、一緒にツクヨミに行くか、何もしないで二人でいることくらい。でもその二人でいるっていうことが、今は大事だった。名前のない時間を過ごせる心の余裕が、生まれたってコトだから。どういうわけか、それが生まれてから勉強も捗る気がする。病は気からというけれど、パフォーマンスもメンタルが大事なのかもしれない。
私は彼の隣に腰を下ろした。こうして並んで座ると、少しだけ彼の方が背が高い。
「付き合ってる恋人って、何するのかな」
「なんだろう……私は付き合ったことないからなぁ」
「さか、じゃなくて彩葉さんはモテそうなのに」
「恋愛に興味とか無かったから」
酒寄さん呼びは他人行儀なので変えてくれないかとお願いした。照れ半分だけど、彩葉さんと呼んでくれている。さん付けなのは尊敬を込めて、だそうだ。私としては無い方が良い気もするけど、呼び捨ては友達がしてくれるので逆に新鮮味があるかもしれない。彼だけの呼び方、みたいな。
これってなんだか特別な気がする。恋人っぽい……かな?
「手、繋いだりするのかな」
「するんじゃない、ですか?」
彼の言葉に、つい変な口調で返してしまった。ちょっと緊張している自分がいる。これまで一緒に食卓を囲むっていう家族みたいなことをしていたけど、私たちはボディタッチなんてほとんどしていないのだから。
「して……みますか?」
私の恐る恐るの問いかけに、彼は瞳を揺らしながら、それでも意を決したように私の手に自分の手を重ねた。温かさが伝わって来る。夜の部屋の真ん中に、手を重ね合わせているだけのカップルがいる。文字にすると少し変かもしれないけど、今の精一杯がこれだった。
顔から火が出るように熱い。彼の手の指に、自分の指を絡めてみた。ビクッとするけど、彼は拒まない。楓の温度が私の温度と混ざり合っている。私のより少し大きくて、男の子の手で、私を優しく包むみたいに。まるで、楓の性格そのものみたいだった。
私は安い女だ。手を握られているだけで満足してしまう。自分の中にある黒い何かがドロドロと溶けてどこかへ蒸発して、穏やかな気持ちだけが残っていく感覚があった。
「どう?」
「どう、って言われてもなぁ。彩葉さんの手、ちょっとひんやりしていて気持ちいってくらいしか」
「私の手、冷たいの?」
「俺のよりは、多分。まぁでも言うからさ、手が冷たい人は心が温かいって。彩葉さんって、そんな感じじゃない?」
「そ、そう……? 自分じゃよく分からないけど」
「そうだよ。いつもかっこよくてクールだけど、ちゃんと熱いモノ、譲れない信念とかを持ってるし。努力できるってコトは、そういうことじゃないかな。それに優しさもあると思うよ。俺の頼んだ仕事なんてぶっちゃけ適当でも良かったのに、毎食ちゃんと考えてくれてたから」
冷房、壊れてるんじゃないかな。体温の上昇が止まらない。でも、手を離したいとは思わなかった。何の生産性も無い時間かもしれないけど、私にとっては大事な時間なんだ。このまま、何時間でも一緒にいたい。
「そろそろ、寝ないと。彩葉さん、明日も早いんだから」
いつしか、何時間も経過していた。十分くらいしか経っていないような気分だったのに、時計の長針はもう二周くらいしている。
「あっ……」
自分の喉から零れ落ちたのが信じられないような切ない声が落ちる。彼の鼓動が私の鼓動と重ならなくなってしまったのが苦しかった。
「彩葉さん?」
「……ないで」
「え」
「行かない、で」
私は渾身の上目遣いをした。
「今日は、泊っていって」
目を白黒させている彼に縋りつくように、私はお願いした。こうすればきっと、彼はお願いを聞いてくれると分かっているから。ズルいな、優しさに甘えて。もっとしっかりしないといけないのに。自立しないといけないのに。
私の部屋に来客用の布団なんてない。なので、同じ布団に寝ることになる。持ってこようかって言ってたけど、そんな面倒な事をさせてしまうのは申し訳なかった。お風呂は流石に彼の部屋にあるのを使ってもらっている。寝間着姿は新鮮だった。シャンプーの香りがその黒髪から仄かにする。
一人用の布団は二人で寝ると少し狭かった。相手の吐息が自分の間近にかかるくらいには。真夏の夜に二人きり。ちょっと暑いかと思ったけど、冷房はしっかり仕事をしてくれている。暗くした部屋の中には、窓からの月光だけが差し込んでいる。
「ワガママ言って、ごめん」
「いいよ。大したことじゃないから。それに、彩葉さんが俺にお願いしてくれて、嬉しい」
「そうやって、またすぐに私を甘やかそうとする。アレだね、楓はお父さんになったら子供をデロデロに甘やかすんだろうね」
「そうかな」
「そうだよ。絶対にそうなるって」
「じゃあ、その時は彩葉さんがストッパーになってくれる……のかな?」
優しい目に揶揄う色がある。私はそれに気付いて、彼の足をちょっと小突いた。
「本当は、さ」
私の口から出る言葉を、彼は静かに待っている。
「自立しないといけないって、思ってるんだけどね。楓のせいだよ。どんどん溶かされて、一人じゃ生きられなくなってる気がする。一人で全部やるって決めて、ここに来たのに」
「もしかして、俺はいない方が良かった?」
「そんな事言ってない! 冗談でも、そんなこと言わないで」
「ごめん」
「これは、私の問題だから……」
彼は私の頭を静かに撫でた。頭を撫でられたのなんて、いつ以来だろう。最後は、いつだっけ。もう思い出せないくらい昔だ。それなのに、どうしてだろう。凄く懐かしい安心感が私を包んでいる。お父さんにしてもらったのと同じような感覚。
「自立ってさ」
「……うん」
「俺は一人で生きる事じゃないと思うんだよね。人って、色んな人と関わって生きていく。学校もそうだし、職場もそうだし、すれ違う人も含めればそれこそ沢山。彩葉さんはバイト先とか学校がメインだし、俺はツクヨミがメインっていう違いはあるけどね。そこでは色んな関係性があるけど、親しい間柄っていうのはさ、支え合ってるんじゃないかな」
「支え合う?」
「そうそう。人にはそれぞれ得意な事とか苦手な事があって、それでも支え合って助け合って生きてるんじゃない? 家族って、その助け合いが一番濃くて、深くて、大きい関係性だと俺は思っているし、そういう家族でありたいと思う。俺の家族は、そうだったし」
楓のご両親は既に亡くなっている。お父さんはお医者さんで、お母さんは主婦。二人とも優しい人だったと、彼は言っていた。
「家族がいる人って沢山いるけど、そういう人の中にはもちろんお互いに支え合って、ちょっと悪い言い方をすれば依存しあって生きている人たちもいる。でも、それって自立してないとは思わないよ。俺は、だけどね。自立してない人って言うのは、自分の大事な事を自分で決められない人じゃないかって思うから。逆に言えば、自分で決められるなら依存しあっていてもいいと思う」
彼の綺麗な目が、私を真っ直ぐ見ていた。暗い室内に、宝石みたいに光っている。
「だから何が言いたいかって言うと、俺は多分これから彩葉さんに甘えると思うから、彩葉さんも俺を頼って欲しい。一人じゃないんだから。それにほら、綾紬さんとか諌山さんもいるでしょ。自立することは一人で何でもかんでもやる事じゃなくって、助けてって言えることでもあるんじゃないのかな」
「言って、いいのかな。頼れるのは自分一人だけって、言われてたから」
「そんなのは状況次第じゃないかな。確かにその言葉は正しいのかもしれないけど……」
楓は少し悩む。私の母の言葉はいつだって正しかった。でも、最近あんまり聞こえない。なんでだろう、と思い返してみると、それは彼と出会ってからだった。楓の言葉は少しずつ、私の中にある母の冷たくて重たい残滓を拭っている。温かくて穏やかな陽だまりの方へと導きながら。
「じゃあ、約束するよ。俺が君を一人にしない。助けてって言ってくれたら、世界のどこからでも彩葉さんを助けるよ」
「どうして、そこまでしてくれるの?」
「だって、彩葉さんは俺の大事な人だから。俺の事、好きって言ってくれたでしょ? 自分のことを好きでいてくれる女の子を特別に思わない男なんていないよ。この感情が恋なのかは分からないけど、愛ではある。それだけは、確信してるから」
心臓が撃ち抜かれている。何枚も何回も。私の心はもう、恋の矢でハリネズミみたいになっている事だろう。この人は私の欲しい言葉をくれる。計算とか、きっとしていないんだろう。彼の心の中から出て来た、本心そのものの言葉。だからこそその強さは世界で一番で、私の中にクリーンヒットする。
「だから、困ったら俺を頼って。一緒に二人で解決していこう」
「私、楓が思ってるより面倒くさいよ」
「そうかも。でも、それも彩葉さんだからさ。それも含めて俺は、好きだよ」
私を射抜くためだけに生まれてきてくれたのかもしれない。あぁ、きっと彼を失ったらもう二度と同じような心臓の高鳴りは感じられないのだろう。絶対に逃がしてはいけない。纏っている儚さを引っぺがして、私に染めないと。それにこんないい物件を放置しておく女子ばっかりじゃないはずだ。目ざとい子はきっといる。だからこそ、しっかり私のモノであるってアピールしないといけないんだ。
「おやすみ、彩葉さん」
「うん、おやすみ。……ありがと」
彼は小さく微笑んで、目を閉じた。すぐに寝息が聞こえてくる。私を信じ切っているからこそできる無防備な姿だった。その信頼が心をくすぐる。
あなたの手を取ってしまったから、孤独な部屋にはもう戻れない。あなたの声が、あなたの存在が、ここにあって欲しい。彼の前髪を撫でた。一呼吸ごとに愛おしさが募っていく。静かに目を閉じる。耳をすませば、冷房の風に混じって彼の吐息と鼓動が聞こえる。その安心感に包まれながら、私は眠りに落ちた。
ガタンガタンと電車が規則的に揺れている。立川市民にとって、近場にある大きな遊園地と言えばよみうりランドだ。付き合って大体一ヶ月近く。相変わらず手を繋ぐくらいしかしていないけど、私たちはデートということで出かけていた。これまでのお出かけと言えば食材の買い出しという何とも所帯じみたものだけ。それはそれで悪くないけど、一緒に遊びたいっていう思いもあった。
八月最後の金曜日。私たちはそうして出かけていた。お目当ては遊園地……ではなくそこにあるプールの方。結構混んでいるのは知っているけど、それでも夏休み最終日だから多少はマシのはずだ。しかも夕方に近いナイトプールの時間にしているし。
恋愛初心者同士が行くにはちょっとハードルが高い気がしてヤチヨに相談したが、イケイケドンドンと太鼓判を押されてしまった。推しが言うのだから、信じるほかない。
「結構高いね……」
「高いところ、苦手?」
「あんまり来たことないから……」
ちょっと怖そうな顔をしているのが意外な一面。京王よみうりランド駅からはゴンドラが出ているので、それに乗っている。大きいジェットコースターの横を通ると、落ちる人たちの悲鳴が響いていた。ひえぇ、という顔をしながら彼は目を逸らしている。絶叫系は苦手、と。ちゃんと心の中にメモをした。怖がっているのを見ているのは可愛いけど、嫌な思いをして欲しいわけじゃないし。
「お待たせ~」
意外と着替えるのに手間取ったけど、なんとか終わった。男子の方はさっさと終わるし、待たせてしまったと思う。なんか小さい女の子に話しかけられていた。お母さんっぽい人もいる。
「またねー」
「気を付けてね」
「あの子、どうしたの?」
「迷ってたぽくて。お母さんすぐ見つかってよかったよ」
「そっか」
困ってる人をすぐ助けられるその行動力は尊敬するし、実際私もそれに助けられた。でも、あの子の目の中にハートマークがあったのは見逃さなかったぞ。なるほど、年下には刺さるのか……。これは要警戒かもしれない。
「迷子の子を助けるのは大変偉いんですけど、彼女の方に何かお言葉は無いのでしょうか?」
私の水着はパステルグリーンのセパレート式でホルターネック。外跳ねのポニーテールにしている。普段はしない恰好なので、少しくらい動揺してくれても良いんじゃないのかな。あ、でも目線を逸らした。直視できないってことは刺さってるってコトだろう。芦花たちと買いに行ったヤツだけど、二人のセンスを信じて正解だった。
今のところ、二人にしか楓とのことは報告していない。顔合わせはした。したけれど、楓は終始ずっと緊張していて、逆に真実と芦花の方が毒気を抜かれていたのを思い出す。高校生の高野楓としてはともかく、ツクヨミのアメツキカエデとしては抜群の信頼感を持っているので、そこも加味してくれたのか二人からはゴーサインが出ている。
親友二人とも仲良くしてくれると、個人的には嬉しい。真実の彼氏は楓の事を尊敬しているみたいだし。
「似合ってる、よ」
「他には?」
「可愛いです」
「もう一声」
「正直この感情をどう処理したら良いのか迷っています」
「いいでしょう、合格です」
「良かった……」
服を褒めるセンスとか無いからさ……と申し訳なさそうな顔をしている。というか、そういえば男子は上半身が出ているんだった。こっちの方が直視できていない。あれから彼の仕事が忙しくない日は一緒に寝ている。そのせいで、よく頭を預けているその胸板が堂々と露出しているのをしっかりと見れなかった。
普通こういうのって女子の胸とかを男子が見れないんじゃないだろうか。なんか逆な気もするけど、まぁその辺は気にしたら負けかもしれない。
「キャー!」
ウォータースライダーで楓が悲鳴をあげていた。でも、ジェットコースターよりは全然平気らしい。怖いけど二人なら大丈夫って言われたときは何かこう、私の中に抑えきれない衝動が生まれたのを感じた。心の中のメーターが加算されていく音がする。
プールの大きな浮き輪に浮かんで、私たちはプカプカと流れていた。ヤチヨの曲がBGMとして流れている。思わず口ずさんでしまった。
「好きだよね、ヤチヨ」
「好きってレベルじゃない。人生だからね。ヤチヨがいたから私は今まで生きてこれたし、辛い事でも頑張れたから」
「そっか。それを聞いたら、きっとヤチヨも喜ぶよ。今日後で報告しておこうっと」
「私のヤバい言動は伝えてないよね?」
「……」
「その沈黙は何!?」
限界オタクな言動が推しに伝わっているのは流石に怖い。サインとか貰おうかと言ってくれたけど、流石に断った。そういうのを利用するのはなんか違う気がする。頼めば関係者席で毎回ライブもタダで見れるんだろうけど、推しであるからこそしっかり同じ条件で応募してこそ真のファンになれる気がする。
「彩葉さん、音楽も好きだよね」
「なんで?」
「押し入れにキーボードが入ってたから。それに、ツクヨミでのアバターも武器がピアノのデザインだし。あんまり荷物持って来てないのに、あれだけは持って来たってコトは、実家に置いておきたくなかったくらいには好きなのかなって」
「まぁ、ね」
そこもいつか話さないといけないって思ってた。夕暮れのプールはライトアップされていて、キラキラと輝いている。水から出て椅子に座って、私たちは頼んだジュースを飲んでいる。普段こういうのにお金は使わないけど、でも今日くらいはいいはず。精神衛生向上も大事なことのはずだ。
「私の死んじゃったお父さん、作曲家だったんだ。その影響もあって、ピアノとか作曲は昔からやってた。て言っても、趣味程度だけど。結局、曲も未完成のままだし……」
「どっちも俺には全然出来そうにないなぁ。やっぱり、彩葉さんは才能あるね」
「そんな事ないよ。ピアノだって、小さい頃にコンクールで銀賞獲れただけだし」
「凄いじゃん。コンクールに全部で何人いるのか分かんないけど、何人もいてその中の二番目なら十分凄いと思うけどな。彩葉さん、志高いから一番が欲しかったかもだけど。俺みたいな普通の人からしたら、銀でも十分大拍手だよ」
苦手な漢字テストで90点を三回連続で獲ったら寿司だった俺の家がバカみたいじゃん……と彼はぼやいている。
「でも、お母さんはそうは思わないからさ」
「そっか。……俺はさ」
「……うん」
「偉そうなことは言えないけど……子供の努力を褒められないのはダメだと思うよ。どんな理由があったにしても。一番ならよくやったでいいし、二番目とかでも次頑張ればいいじゃん。まぁ、でもお母さんにもいろんな思いとかがあるのかもだからそれは仕方ないにしても、彩葉さんまで自分の努力を否定してほしくないな」
「私は……」
「練習、さぼったりした?」
「まさか」
「じゃあ、頑張ったんだよね。努力したんだよね。それで、ちゃんと銀賞を獲れてるじゃん。そりゃ、貰えるなら金の方が良いかもだけど。それは彩葉さんの頑張りが無かったことになるわけじゃないと思う」
「でも世間だと、結果の出ない努力に意味はない。でしょ?」
「かもね。世の中は認めてくれないかも。だからこそ、自分で自分を誇ってあげないと。よく頑張った私、偉いって」
自分で自分を褒める。したことないわけじゃない。でも、それはいつも結果が出た時だけだった。一番になれた時だけだった。それに、一番になっても、母が認めてくれるわけじゃなかったし。
「もし彩葉さんが褒められないなら、俺が褒めるから。彩葉さんはちゃんと頑張ってるぞー! って」
「それは、ちょっと恥ずかしいな」
「えぇ……渾身の言葉なんだけどな。俺は何番でもいいよ。彩葉さんが笑ってくれるなら、それで。俺にとっては世界一だし」
「なに、それ」
笑おうとして、泣きそうになっている自分がいた。一番だって、言って欲しかった。認めて欲しかった。その奥底には、あなたが一番だって言って欲しかったのかもしれない。愛してるって、一番の娘だって、順位なんか関係なく私の一番大好きな娘だって。銅賞だけど褒められている子を見ながら、私はきっとそう思っていた。そして、その心を涙と共に閉じ込めた。
「一番じゃなくても、誰かの心に響くモノはあるよ。ツクヨミはそういう場所だから。一番じゃなくても、成果は出なくても、誰かの人生を変えるモノに出会ってる人はいる。そういう場所にしたくて、俺もヤチヨも頑張ってる」
だからさ、と彼は言った。
「好きに正直で良いんじゃない? 結果が出なくても、好きならそれでいいんだよ。無駄かもしれないし、後になって振り返ってみれば何の生産性も無いかもしれないけど、楽しかった思い出があるなら、それは無意味じゃないはずだよ。この時間みたいに、ね」
「そうだね……そう、だったね」
『彩葉、音楽は自由に楽しむんやで』
お父さんの声が響く。あの時、私に優しく微笑んでくれるお父さんと、今私に手を差し伸べてくれている彼の姿が一瞬だけ被った。自由に、楽しむ。そんな事を忘れて、出来なくなって、どれくらいの月日が経っただろう。自由も楽しさも、今ここにある。私は泣きそうな顔を拭って、彼の手を取った。
「音楽、もう一回やってみようかな」
「いいね。聞かせてよ、俺にも」
「……うん。あんまり、上手じゃないかもだけど」
「彩葉さんが俺のために演奏してくれるなら、それで十分」
なにそれ。あなたがそう言ってくれるから、そうやって微笑みかけてくれるから、私はまた一人で立てなくなっていく。あなたの手を取ってじゃないと、生きていけない気分になる。でも、それがたまらなく嬉しく感じてしまう。
あなたに寄りかかってもいいですか。あなたに甘えて良いですか。それでも自立しているって、あなたは言ってくれるはずだから。昂った感情のまま、私は彼の唇を奪った。電流が流れて痺れるような感覚になる。レモンの味はしなかった。さっき飲んだジュースの味がした。
「嫌だった?」
「まさか」
「よかった」
星空が空に出ている。そんな中、私たちはあまり混んでいない電車で家に帰った。南武線の車両が揺れる。私は彼の肩に頭を預ける。車窓に家の灯りが流れていく。まるで、幻燈のようだった。この列車が銀河鉄道なら、どこまででも二人で行けるのに。二人で銀河の中に行きたい。そうして、透明な彗星を探すんだ。
「今日も、一緒にいてくれる?」
「もちろん」
明日が人生最後の日だとしても、私はきっとこの幸福を抱えながらその日を迎えるだろう。私は愛に包まれていた。私を愛してくれる彼からの愛に。そして、今は少しだけ、自分自身を愛せるようになった気がする。
次回:夏休み明け登校編
付き合って一ヶ月でキス。これはとってもハイペース。正史だと7年くらいかかったのに……。