波瀾万丈(?)な夏休みはすっかり終わり、また今日から学校が始まる。学校生活は引き続きしっかりと送りたいと思っているので、朝からちゃんと起きた。なんだけど、楓が全然起きてこない。予想外のシステムエラー対応で遅くまで作業していたのは知っているから、起こしに行く事にした。合鍵はお互いに持っているので、寝ていても問題ない。
「起きてるー?」
返事はない。なので鍵を開けた。楓の部屋は結構狭く感じる。それは多分、でっかい機械が幾つか置いてあるせいだろう。机の上には大きなパソコン。彼は敷かれた布団の上ではなく、椅子に座ったまま寝ていた。きっと作業した後寝落ちしたんだ。
「おはよう。朝だよ?」
「……」
私の呼びかけにも起きないまま、スース―と寝息を立てている。このまま眺めていてもいいかなぁという誘惑に一瞬負けそうになりながら、私は彼の身体をゆすった。ぼんやりとした顔で楓は目を開けた。そしてそのまままた寝落ちしそうになってる。
「二度寝しないでー」
「あぁ、彩葉さん……おはよう……」
「はい、おはよう」
コキっと肩を鳴らして、彼は椅子から立ちあがった。あんまり座ったまま寝るのは健康に良くないので、ちゃんと寝て欲しい。いや、それは遅くまで勉強している私が言えることじゃないのかもしれないけど。
「朝ごはん、出来てるよ」
「……なんで制服?」
「今日から学校だから。新学期だよ」
「あぁ、そっか。うーん、さぼっちゃう?」
「ダメです」
「だよね」
分かってたけど、と彼は笑った。あぶねー、分かったって返事しそうになってしまった。学校さぼってデートとかは憧れる部分が無いわけでもないけど、学校生活はしっかり送りたい。恋愛していたって、それがマイナス面に作用してるなんて思われたくない。私自身のためにも、楓のためにも。
楓と付き合ったせいで私がダメになったなんて言わせたくない。
「着替えたらすぐ行くね」
「焦って転ばないでよ」
「大丈夫大丈夫」
と、言いながらこの前コードに足を引っかけて転びそうになっていた。この部屋、もうちょっと配線とか綺麗にした方が良いかも。勝手に掃除したりはしないけど、気になる。今度余裕がありそうなときに提案することにした。口うるさい彼女なんて嫌われてしまうかもしれないけど、きっと大丈夫だろうと思えるから。
制服姿は久しぶりに見たかもしれない。白いシャツは綺麗にアイロンがされていた。最低限の家事は自分で出来るように。それが彼のお母さんが遺してくれたものだと言っていた。つまり、自炊もやろうと思えばできるんだろう。それでも彼は私にご飯を作るという仕事を提案してくれた。彼なりの、思いやりで。
「「いただきます」」
食べ方が綺麗なのは、お父さんに厳しく言われたらしい。どこに出しても恥ずかしくないようにと育てられたと言っていた。楓のご両親には私も会ってみたかった。きっと、楓に似て優しくて思いやりのある、素晴らしい人たちなんだろうから。語られる思い出はどれも綺麗で、それが少しだけ羨ましかった。
「今日って何かあるっけ」
「宿題を全部出さないといけないかな」
「あぁ、そうだった。彩葉さんのおかげでちゃんと終わったよ。ありがとうね」
「お役に立てたなら何より」
古文は好きじゃないよ~と言っていたけど、でも呑み込みは早かった。やる気が無かっただけで理解度は高いと思う。割と論理だてて説明すればちゃんと理解してくれる。単純にお仕事が忙しくてやる時間が取れなかっただけな気もする。
「そういえばさ、学校で思い出したというか、相談しないといけないことがあったなって」
彼はちょっと悩まし気な声で言った。
「学校では、あんまり俺に話しかけない方が良いと思うんだ」
「え、嫌だけど」
「えぇ……」
「なんで? なんで彼女が彼氏に話しかけたらダメなの? ……浮気?」
「違います。違うから持ってるフォークを置こうか」
いけない。何かどす黒いモノが溢れ出そうになった。彼は誠実なので浮気なんてしないだろうけど。心配なのはコナをかけてくる泥棒猫がいる可能性だ。まぁ私はこれでも容姿にも成績にも自信はあるし、大抵の女子には負けないと信じている。流石に芦花とかが全力で来ると分が悪いけど……。
「彩葉さんのイメージが悪くなるかな……と思って。俺は学校でも話しかけてくれたら嬉しいけどさ」
「あぁ、なんだ、そんな事か」
「大事な事じゃないの? 彩葉さんにとっては」
「まぁそりゃ大事だけどね」
学校でのイメージ、評判。そういうのは大事だ。自分を守る外壁みたいなものでもある。でも、それ以上に大事な物だってある。親友二人もそうだし、当然楓もそうだ。天秤にかけた時、どちらに傾くかなんてわかり切っている。彼と話したら崩れてしまうモノなんてこっちから願い下げ。彼氏がいようと完璧だね酒寄さんって言われてこそ一流だ。
それに、半日近く会話も出来ないのに我慢できるはずがない。こっそり隠れてお弁当を食べたりっていうのも、それはそれで楽しそうではあるけど、求めてるものじゃなかった。弁護士の娘と医者の息子、完璧女子高生と電子の海の守護神、全然釣り合うね。何なら私の方が釣り合ってない可能性すらあるし。なのでヨシッ! 頭の中のヘルメットをかぶった猫が太鼓判を押している。
「楓は嫌だ? 私と付き合ってるっていうのが広まるの」
「嫌なわけないよ。男子からはボコボコにされるかもしれないけど。それはそれで、俺の彩葉さんはそんなに多くの人から好意を寄せられてるって思えて誇らしいし」
「じゃあ、何の問題も無いよね? 最初こそ驚かれるかもしれないけど、続けばそれはもう日常の風景になるわけだから。見せつけていけばいいよ」
ちゃんとアピールしないといけない。ある意味ではマーキングだ。この人は私のだよっていう。そうじゃないと、影から狙うお邪魔虫を牽制できない。それを突破してアプローチをしてくる子がいたとすれば、それはもう猛者だ。堂々とお相手しないと。
まぁ、彼は私を選んでくれると思うけど。でも胡坐をかいていたら負ける。ヤチヨも恋愛相談コーナーでは言っていた。なんか、ヤチヨの相談コーナーの常連になりつつある。面白がってるのか、毎回取り上げてくれていた。アドバイスはいつも助かっている。神棚に鎮座しているアクスタを拝んでいた。
恋愛をまんねり化させないコツはドキドキと安心感を交互に与える事らしい。この人といたら安心するなっていう感情と、定期的にドキッとさせるアプローチ。このギャップがちゃんとあることで、気持ちは長続きするそうだ。八千年の知恵を拝借し、私はこの初めての恋に挑んでいる。
「と、いうことで、OK?」
「は、はい。彩葉さんがそれで良いのなら」
「それ
並んでお皿を洗っていると、同棲しているみたいだ。この部屋の壁を取っ払ってしまいたい。そうすれば、いつでも同じ空気を吸えるのに。あなたの瞳をいつまでも見つめていられるのに。薄い壁の癖に、私たちを引き裂く。高校を卒業して、もっとお金を貯めたら速攻で引っ越そう。
「じゃあ、行きますか」
「そうだね」
靴を履いて、ドアを開ける。九月になったからと言って全く涼しくない夏の気温が私たちを包み込んだ。真夏はまだまだ継続中。その中を歩くのが、夏前は嫌だった。でも、今はそんなのが気にならない。あぁ、ダメだな。私の頭の中には彼の存在で満ちている。
相変わらずおんぼろなアパートの階段。彼は少し下の段から、私に手を差し出す。お手をどうぞ、と言う表情で。私は笑顔でその手を取った。最初は手を繋ぐだけでドキドキして何も考えられなくなった挙句数時間が経過しているなんて事もあったけど、今は少し慣れた。
慣れたっていうのは飽きたっていう意味ではなく、自然にできるようになったということ。指の擦れる感覚が走るたびに、幸福感が満ちていく。
「お弁当、作ったよ」
「やった」
「そんなに嬉しい?」
「彩葉さんのご飯美味しいから」
「楓のおかげだよ。おかげでちゃんとした食材になっているので、お楽しみに」
私のお弁当までしっかりグレードアップ。これで、バイトの賄いを昼ご飯にする悲しい生活ともおさらば。血色は明らかに良くなっている。鏡を見るたび、それを実感していた。肉付きもちょっと良くなった……かな? 太りたいわけじゃないけど、やせすぎでも心配させてしまう。あと……胸はもうちょっと……あった方がいい気がする。
「やっぱり日差しが強いから、持って来て正解だった……」
彼はそう言いながら、日傘を広げた。黒い影が私と楓を包みこむ。蒼天には白く高い入道雲が伸びている。その下を、一つの影がゆっくりと歩き始めた。アスファルトからは湯気が立ち上る。まだまだこの熱い夏は終わりそうにない。私の恋が冷めないと同じように。
教室のドアを開けた時の空気感は冷え冷えだった。ビックリするくらい凍り付いた。空気が凍るってああいう感じのことを言うのだろう。辞書に写真とセットで掲載できそうだ。普段一人、或いは真実や芦花と登校してくる私が、いきなり男子と来たのが原因なのは明白だった。驚かせてしまって申し訳ないとは思うけど、我慢は出来なかった。反省はちょっとしている。後悔はしていない。
「あ、彩葉」
「おはー」
「おはよう、二人とも」
真実と芦花が迎えてくれる。やっぱり二人とも魅力的だ。日陰の中でも教室の中でも、そこだけ光が差し込んでいるみたい。この二人と楓がいる場所が私のヘブンなのかもしれない。天国はここにあったのか。地上にもあるじゃん、神の国。昨日ローマ帝国の勉強をしていたせいで頭の中にいるアウグスティヌスを追い出した。
「高野君もおはよう」
「大丈夫?」
「おはよう。大丈夫……だと思いたい」
真実と芦花はこの夏に楓と知り合っている。数学の宿題を手伝ったと楓が言っていた。仲良くしてくれるのは嬉しい。二人とも凄く素敵な人だし、楓も基本的に誰とでも仲良くなれるタイプだとは思うから、一緒にいても問題ないと思っていた。真実からは、自分の彼氏が憧れのアメツキカエデに会えて、その話しかしないから何とかしてくれと言われてしまった。
男に嫉妬する羽目になるとは思ってなかったらしい。これに関しては引き合わせた私が悪いので、全面的に謝るしかなかった。IT系の進路を取りたくて、今からそういう系のコンテストとかにも部活経由で応募している真実の彼氏からすれば、楓はトップを走っている雲の上の人だったのだろう。
話が合う人が見つかって嬉しかったのか、楓も楽しそうにアドバイスしていたりする。彼氏同士が仲良くなると彼女が放置される。なるほど、これが真実の気持ちなのかとやっと最近理解できた。
「あ、あの、酒寄さん」
「うん? どうしたの?」
「えっと、その、二人はどういう関係で……?」
「逆に、どう見える?」
クラスメイトの女子が恐る恐ると言った感じで質問した。少しだけ芽生えた悪戯心で逆質問をしてみた。彼女は目を白黒させながら私と楓を交互に見ている。楓は困ったなぁという顔で私に視線を送っている。本気で困らせたいわけじゃないから、答え合わせと言わんばかりの勢いで私は彼に寄りかかった。そして腕を絡めながら答える。
「こういう関係、かな?」
「は、はい……!」
顔を真っ赤にしたその子はキャーと言いながら走って行ってしまった。
「彩葉~」
「今のはちょっとモラルハザードだよぉ」
そう言う二人に同意するように、楓まで首を縦に振って頷いていた。
「まさか、こんな浮かれポンチになるとは……」
「まぁでも、ちょっと安心した」
やれやれと言う顔の芦花に同意しつつ、真実が言った。
「彩葉、明るくなったし顔も柔らかくなったし」
「確かに。どっかにふっていなくなっちゃいそうな感じあったからね」
そんな感じに思われていたのか。どこかに行くつもりなんて無かったけど、二人には心配をかけてしまっていたのかもしれない。
「高野君、どんな魔法を使ったの?」
「俺は別に大したことはしてないよ。ほら、シンデレラだって魔法にかかる前から綺麗だったわけだし。それと同じこと」
「……」
「……なるほどぉ」
真実が何かに納得したような声を出した。彼女が何に納得したのかは分からない。楓の魅力? まぁそれは漏れ出てくるから分かってしまうのも仕方ない。本当は私にだけ向けて欲しいけど、それを閉じ込めてしまったら彼の良いところが一つ消えてしまう。楓の良いところはたくさんあるけど、それは続けて欲しかった。彼を歪めてまでも私を見て欲しいわけじゃないのだから。
「これを二十四時間毎日食らったわけだね」
「そうだね」
「……はぁ。勝てない、か……」
二人ともため息を吐いて、そして声をそろえてこう言った。
「「応援してるよ。お幸せに」」
「二人とも……ありがとう」
「さて、それはそれとして高野君はちょっとお話ししようか」
「そうだね」
「え……拒否権とかは?」
二人の怖い笑顔に封殺されて、彼は連行されて行った。いったい何を話すのかは分からないし、帰って来た彼も教えてはくれなかった。それでも「良い親友だね」と笑いながら言ってくれたので、きっと悪い話じゃなかったのだろう。
彼氏がいますってアピールすれば、私へのアプローチも減るかなと思っていたけど、これは大きな誤算だった。楓がいけるなら、自分でも行けるはずっていう勘違いも甚だしいことを考えた人たちが逆に沢山アプローチをしてくるようになってしまったのだ。私には告白を、彼には圧力を。これは本当に大きなミスだった。楓が舐められているのは腹立たしいけど、それ以上に精神的に疲弊する。
だからか、私はちょっと疲れてしまっていた。夏休みが開けて最初の休日でも、疲れが抜けないままだった。心の中に棘みたいなものが刺さっている。それを助長するように、空は曇天だ。夜から雨らしい。今日の午後はバイトがあるから、傘を持って行かないと。
「お疲れみたいだから、今日のお昼ご飯は俺が作るよ」
「ごめん……甘えさせて」
「いいよ、彩葉さんが甘えてくれるのは嬉しいから。まぁあんまりレパートリーはないけど、取り敢えず炒飯でも作ろうかな」
「やった。楓の炒飯美味しいから」
楓は中華料理が結構上手だった。中でも炒飯は特に。お父さんが昔作ってくれたのが美味しくて、頑張って練習したらしい。その味を食べられるのは私だけ。そんな優越感に心が少し楽になる。
「この前諌山さんもメッチャ美味しいって言ってくれてさ。まぁ例に漏れずあのカップル二人にではあるんだけど」
「……は?」
「彩葉さん?」
ちょっと疲れていた。だから、普段は全然気にならないようなことが気になった。私と彼だけの特別に、他の人が介在しているのが嫌だった。私に向けてくれる特別なモノを、他の人に向けて欲しくない。優しさも、愛情も、料理だって。我慢しないといけないと分かっている。彼の良いところを消したくない。
でも、今週何回も彼を否定されて、その末に思ってしまった。こんな人たちに理解されたくない。楓について知られるくらいなら、大事な宝石みたいに隠してしまいたいと。彼は何を言われても怒りはしなかった。ただ静かに、それを受け入れていた。でも私は知っている。あなたは優しいから見せないだけで、傷ついてはいるって。
少し口数が減って。学校ではあんまり話せなくなった。もし、私と付き合わなければ、彼は平穏なままでいられたのだろうか。私は彼に、幸せをあげられているのだろうか。どんどんと胸が苦しくなる。泥水が溢れるように、私の心の中に黒い水滴が何滴も落ちていく。それはすぐにいっぱいになってしまった。自分への不甲斐なさ、特別を取られたような欠落感。そういう色んな感情がごちゃ混ぜになってしまう。
「なんで、真実たちに作ったの。私じゃなくて!」
「頼まれたから……ダメだった?」
「ダメじゃない。ダメじゃないけど……」
理性的なんかじゃない。もう滅茶苦茶だ。ただのワガママ、ただ自分の思い通りにならなくて拗ねているだけの子供だ。頭の中では分かっているのに、止められない。真実のことはもうぶっちゃけどうでもよかった。ただのきっかけ。ダムが決壊する些細なきっかけに過ぎない。
「楓は、誰にでも優しくしちゃうの?」
「誰にでもないよ。諌山さんは……」
「真実のことだけじゃない! 今週、ずっとあなたのことを否定する言葉ばっかり聞かされた。そんな言葉を口にする人にも、あなたは怒らないで、優しくして……悪口や文句ですら一回も言わなかった。なんで、そっちに優しさを向けちゃうの。私だけ見ててよ。他の雑音なんかじゃなくて、私を。私だけに――全部注いでよ」
不安もあった。私が告白して、彼が受け入れてくれたけど、それは私の一方的な押し付けなんじゃないかって。私が楓に向けている感情と、楓が私に向けてくれている感情の種類も重さも違うんじゃないか。そんな不安がよぎる。
要するに、私は不安なんだ。こんな感じの日々が続いたら、彼は私と一緒にいることに疲れて、いつか離れてしまうんじゃないかって。
「他の人に、優しくしないでよ……」
「それは出来ない。力になれることがあるのに何もしないのは死んでいるのと同じだから」
「……じゃあ、私じゃなくても良かったんだ」
「彩葉さん?」
「私が特別なんじゃなくて、ただ可哀想だったから手を差し伸べてくれただけなんでしょ! 他の子でも同じだった。他の子でも同じように優しくして、同じように手を差し伸べて、同じように好きだって言われたら受け入れて、寄り添ったんでしょ!」
言っていることは滅茶苦茶。私は感情を整理できないまま叫んで、そして家を飛び出した。そのまま走ってバイト先に向かう。ちょっと早く出勤してしまったけど、丁度人手不足だったみたいでむしろ感謝された。
お店の外ではザーザーと雨が降っている。そういえば、傘を忘れた。折り畳みも持っていない。あぁ、なんでこんなことになっちゃったんだろう。濡れて歩くのが確定した私は、ロッカールームで着替えながらため息を吐いていた。
支離滅裂な事を言って、自分の中にあった不安とか嫉妬を全部好き放題にぶつけて、飛び出してきてしまった。きっと、愛想を尽かされた。帰ったら言われるんだ。「別れよう」って。元々私より身軽な身。どこか別の家に引っ越すんだ。甘えて、寄りかかって、捨てられて。どうしようもない。ホントに、どうしようもない。
「……嫌だな」
せっかくちょっとだけ自分を愛せるようになったのに。幸せになれる気がしたのに。音楽だって、もう一回始めようと思えたのに。全部無くしてしまうんだ。自分のせいで。自分の愚かさのせいで。彼は私でなくてもいい。私は彼じゃないとダメなのに。もっと素敵で、優しくて、手のかからない彼女がすぐ見つかるだろう。私はこの失った恋を抱えながら、一生引きずって生きていくんだ。愚かさの象徴として忘れられないまま。
「いや、いやだよ……」
涙が零れ落ちる。少し時間をおけば彼の気持ちが私に向いていることも、愛してくれていることも理解できた。でも不安だったんだ。告白したのが私だから。彼はただ、可哀想な酒寄彩葉を放り出せなくて、惰性とか義務感で一緒にいてくれるだけなんじゃないかって。私の愛情と、彼の愛情の種類は違うんじゃないかって。その不安だけは、今になっても消えない。理性の裏で燻っている。
「酒寄さん……って、うわ、大丈夫?」
「あ、す、すみません。どうしましたか?」
「彼氏さん、待ってるよ?」
「……え?」
全く見ていなかったスマホには、傘を持って迎えに行きますというメッセージが来ていた。教えてくれた店長にお礼を言って、私は急いで荷物をまとめて退勤する。雨の降る夜の下に、彼は静かに傘を持って立っていた。
「迎えに、来てくれたの?」
「だって、傘忘れてたから」
「……ありが、とう」
受け取って、開いて、歩き出す。会話は無かった。今更、何を言ったらいいのか分からない。雨の夜の街は人通りも少なかった。
「どうして……」
「当たり前でしょ。彩葉さんを濡れ鼠にするわけにはいかないから。」
「……」
「俺はさ、彩葉さん。もしかしたら彩葉さんを不安にさせちゃったのかもしれない。それでも、俺は可哀想だから彩葉さんに声をかけたわけでもないし、他の子でも同じ結果になったとは思わない。だって他の子は彩葉さんじゃないし。俺が好きなのは、結構意地っ張りで、真面目で、頑固で、クールだけど心は割と燃えていて、目標に向かって頑張ってて、ちょっと危ないところもあるけどそれでもとびきり美人で、可愛くて、いつも美味しいご飯を作ってくれる彩葉さんだから。俺はそんな彩葉さんだから好きになった。でも、付き合えるなんて思ってなかったけどね。だから告白してくれた時は嬉しかった。その気持ちは今でも変わらない。もっと強くなってる。頑張っている彩葉さんだから、助けたいって思った。放っておけないって思ったんだよ」
「あんな、わけわかんないこと言ったのに?」
「あれくらい、ツクヨミのマナーの悪いユーザーに比べれば全然。あっちは愛が無いけど、彩葉さんのは根本的なところに俺が好きっていうのがあるから。天と地、月とすっぽん」
「私は、そんな素晴らしい存在じゃない」
「彩葉さんが自分のダメなところを100個言うなら、俺は101個彩葉さんの良いところを言うよ」
何でもないかのように言っている。なんで、そんなに優しくしてくれるの。私を責めればいいのに。何も悪い事をしていないのに、あんな風に言うなんて信じられない。別れてくれと言われても仕方ないと、そう思っていたのに。
「ごめん、なさい」
「俺もごめん」
「え」
「彩葉さんが飛び出した時、すぐ追いかけてあげられなかった」
「なんで、そんな……!」
私は自分の小ささが嫌になる。思わず逃げ出そうとした私の手を、彼は掴まえた。その瞳に見つめられると、抵抗できなくなってしまう。濡れるのもお構いなしに、彼は私を抱きしめた。生温い雨が私と楓を濡らしていく。その下で一緒に私の涙も流れていた。
「君が好きだから」
雨音に負けない声で、彼は言う。
「彩葉さんを、愛しているから。彩葉さんの気持ちは聞かせてもらった。だから、俺もちゃんと言うよ。俺も彩葉さんのことが好きです。これからも一緒にいてください」
「――はいっ」
そう返事をする以外の選択肢が、私にあるはずも無かった。髪を、服を、靴を雨が染めていく。濡鴉色になっているのに、不思議と何も気にならなかった。そのまま家に帰る。全部びちょびちょの中なのに、私たちは不思議と心地よさすら感じている。
「全部、濡れちゃったね」
「靴の中までびちょびちょだ……」
「濡れちゃって、このままだと風邪ひくから、お風呂入らないと」
私の頬が熱を孕んでいる。何か言おうとした彼の手を、私は自分の家のお風呂場へと引いた。鏡に映っている自分の顔は、信じられないくらい色めいている。手を引き、彼を誘う。楓は抵抗しなかった。
あんまり広くないお風呂場だけど、詰めれば二人くらいは入れる。お湯は張ってあった。彼が家を出る前に入れてくれたのだろう。湯気の立ち上る中、私たちは濡れた服を脱ぐ。どちらからなのか分からないけれど唇が触れた。その先を阻むものはもう何もない。
理性は全て、雨と一緒に流されていた。
彩葉の根っ子に、楓が自分を恋愛的に好きでいてくれるのかという不安がありました。まぁ、それもこれも全部全方位に優しい楓が悪いんですが。