超かぐや姫! ~ツクヨミの守り人~   作:tanuu

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Extra・IF√:楓がもっと早く越してきたら・16 【彩葉視点】

『なんという番狂わせ! なんという大金星! 奇跡か必然か、令和の竹取合戦はかぐや姫の大勝利!! 勝者、かぐや・いろPーーーーッ!』

「勝ったぞぉぉぉ!」 

 

 かぐやが暴れまわる勢いで飛び跳ねている。大金星以外の何物でもない結果だった。ギリギリのところだったし、最後の最後まで分からなかったけど、それでも勝利は勝利だ。かぐやだけではなく喜びに悶えている。隣の楓の部屋から壁を突き破る勢いでバンザーイとい声が聞こえた。

 

『彩葉、かぐや、お疲れ様! ヤッチョもめっちゃ楽しかったー☆ そしてお二人さん、今からお待ちかねの発表タイムでーす』

 

 ……発表? あぁ、発表。そういえばそうだった。かぐやへの求婚のせいで忘れかかっていたけど、それが本来の目的で、そのために配信も始めたんだった。ヤチヨがウインドウを開いている。楓からのメッセージが来ていた。多分、大歓喜の中でもちゃんと集計結果を確認していたのだろう。

 

『いと大儀~~~!』 

 

 ヤチヨは空中に浮かび上がり、全ユーザーに向けて話し始めた。出現した幾つものスポットライトが彼女を照らす。その姿は空中を泳ぐ優雅なエイのよう。スポットライトもきっと楓が動かしているのだろう。試合自体は勝利できたけど、こっちで勝てているかは分からない。登録者数を確認している余裕なんて無かった。試合に勝って勝負に負けた、って言うのもあり得る。その場合は――残念会でもするか。ケーキを買ってこよう。

 

『とーっても楽しいKASSENでした。そして! ヤチヨカップの投票を締め切ったよ~。FUSHI、お願い!』

 

 FUSHIの口からにょきっと巻物が吐き出される。絵面がちょっと悪かった。

 

『それでは、ヤッチョとコラボる人を、発表ー!』

 

 スクリーンにグラフが映し出される。棒グラフが凄い勢いで上下していた。上位層が安定して伸びを見せ続ける中、かぐやが時折顔を出す。娘の勝利を願っている。でも、現実的に考えれば最強王者が勝つだろう。それでも、結果が出るまでは諦めない。それをかぐやから学んだ。

 

 親っていうのは、完成された存在じゃない。きっと、子供から学び続けるのだろう。自分の知らない考えを、自分だけでは抱けなかった想いを。

 

『ヤチヨカップの優勝者は~~☆』

 

 スクリーンに名前が刻まれる。

 

 ――第二位 ブラックオニキス 新規獲得ファン数102万4563人

 

 第二位。ド本命が第二位だ。一本だけ残った棒グラフは伸び続けている。それと同時に大量のコメントが流れて来た。ヤチヨも多分知らなかった演出なのだろう、驚いた顔をして、空中に浮かぶミラーボールの月を見上げている。そこの主がどや顔をしているのが目に浮かぶ。ホントに、私たちのことが大好きなんだから。知ってたけど。

 

『なんかいいね、あの二人!』

『私、推しちゃおうかな~』

『可愛い!』

『歌やべー』

『この子見てると幸せな気分になる』

『ヤバい新人出てきたな』

『32:01 いろPおもろ!』

『インカメッ』

『42:21 ファンになった瞬間』

『天才的な死に方するやん』

『かぐやのどや顔好き』

『笑顔に惚れたのでかぐや推すわ』

『子供っていいなと思いました』

『激辛でもごちそうさまが言えるのが良き』

『二人の絆が見えた回』

『守護神がこんな娘に激アマな親父みたいになってる時点で俺らが勝てないんだな、登録します』

『家族みんなで幸せになーー!』

『二人の何とも言えない可愛さ』

『二人が並んでるだけで幸せ』

『上から!』

『いけー、かぐや!』

『職場に布教しました。優勝に貢献したい!』

『決めろ、いろP』

『ナイス外道作戦!』

『最後まで油断しないいろP流石ママっす!』

『涙出てきた』

『ごめん、帝様。今日だけこっち』

『最高!』

 

 幾つもの応援コメントが流星群として流れていく。私たちを応援してくれた多くのファンの声。熱心なファンが沢山いて、みんながかぐやを一位にしようと押し上げてくれた。そのおかげで、ここにいる。一番になれないと思っていた。わたしはずっと、中途半端だと。それでも、娘のおかげの部分が大きいとしても。

 

 第一位 かぐや・いろP 新規獲得ファン数105万8931人

 

 私はもしかしたら、初めてなりたいもので一番になれたのかもしれない。かぐやの大ジャンプを見上げる。ありがとう、私の大好きな娘。あなたのおかげで、私は救われている。ワイプ画像では感涙を流しながら拍手している楓の映像が流された。ありがとう、楓。あなたがいたから、私はこの子を愛せている。

 

「おめでとう、かぐやちゃん、彩葉」

 

 どれくらい茫然としてたのだろう。すぐ目の前で帝アキラに言われるまで、私の意識は飛んでいた。雷を引き連れてこちらまで来たようだ。通って来た道がモーゼみたいになっている。あと本名言うな。

 

 逆方向から列車がやって来る。あの銀河鉄道に乗っているのは、ただ一人。多くのユーザーが道を開ける。歓待されるように迎えられながら、今回は優雅に列車から降りてくる楓。二人が視線を交錯させている。

 

「二人は最強でしょう?」

「まったく……あんな負け方するとは思わなかったぜ」

「まだ求婚しますか?」

「いいや、無理にやってもしょうがねぇし。それに、こわーい管理人が雷落としてきそうだからな」

「雷じゃ済まないですよ。通販の履歴、全部ファンにバラします」

 

 全然冗談に聞こえないのが怖い。でも、もう本気じゃないって分かっているのか、その目はちゃんと笑っていた。

 

「まぁそれは冗談としても。俺と彩葉さんの方はどうです?」

「仕方ない。元々いい具合に楽しそうなのは知ってたから、この目で確認したかっただけだからな」

「それはどうもありがとうございます」

「ちゃんと幸せにしろよ」

「言われずとも」

「頑固で面倒くさい妹かもしれないけど、頼んだ。あと、かぐやちゃんを推してるのは変わんないから。ま、これからもよろしくな、お義父さん」

「あなたにお義父さんと言われる筋合いはないですよ」

 

 私の顔を見て安心したような表情を浮かべた帝は、雷を連れてログアウトする。ヤチヨカップは新しく獲得したファンの数によって競われる。向こうは総勢1900万弱、こちらはゼロからスタート。どっちが楽なのかは言うまでもない。既存のファンが既にいる状態から新規に大量獲得するのは大変なのだ。

 

 それでも不平を述べずトップとギリギリの二位を掻っ攫うブラックオニキスは、王者としてのありようを行動で示しているように見える。去っていく背中に楓も静かに礼をしている。その顔は父親の顔ではなく、ツクヨミの統括管理補佐としての顔だった。

 

「二人とも、おめでとう」

「パパ~~やったよ~~」

「うんうん、よくやってくれたよ。諌山さんがケーキ奢ってくれるってさ。役に立てなくてごめーんだそうだよ」

 

 あ、真実も復活したんだ。

 

「パパが色々最初に教えてくれなかったら、優勝できなかったかも!」

「そんな事ないよ。これまでかぐやが頑張って来た成果だから。みんな、ちゃんと見てくれてるんだよ。それに、帰れる場所を用意してくれる人がいたから、ってのも大きいんじゃないのかな?」

 

 私がそういう帰る場所だった、と言いたいみたい。そういう風になれたのなら、母親冥利に尽きるというモノだけど。かぐやが傷ついたら嫌だと思っていた。でも、それは心配し過ぎの過保護だったのかもしれない。この子はちゃんと前に進める子なのだから。この突っ走った末の結果を見ればそれは明らかだ。その助けになれていたのかな。

 

 突っ走れ。そう言った楓のお父さんの教えに従って背中を押した。その末に優勝できたので、やっぱり楓の両親は偉大だ。

 

『ふったりとも~。よ~きかな~~☆』

 

 感慨にふける私のところへ、ヤチヨが公式の表情を脱いで降りて来た。どんな顔をしていてもヤチヨはヤチヨだけど、それでもこうして目の前にいるのは信じられない。ここ一年くらい、信じられない事ばかりだ。身が燃えるような恋をして、愛を育てて、娘が出来て、推しと個人的に話している。 

 

 まるで、私に都合がいい夢小説みたいだ。

 

『カエデも来たんだねぇ』

「妻と娘の優勝祝いですから。ちゃんと手は動かしてますよ、ずっと」

『それでこそ、私の優秀な相方~』

 

 憎まれ口を言ったFUSHIがかぐやによってサッカーボールになっている。

 

「まだまだ頑張らないとなぁ。どうしたらヤチヨみたいにもっとしゅばばーって動けるの?」

『おぉ、勝利してもなお探究。いい心がけだねぇ。ヤッチョの強さというのはそれはもう、日々の努力の玉藻の前というか~~、気まぐれアメンボロードというか~~』

「はぁ? ヤチヨって、いっつもテキトーじゃない?」

『んっんー。ヤチヨは優柔不断で悪いやつなのです~~。この期に及んで色々迷ってるし~~。でも、かぐやは、かぐやだから強いんだなって、ヤチヨは思ったよ』

「なんにも言ってないなー」

「多分、そのまま自分らしくいろってコトだと思うよ」

『そゆこと~、分かってるぅ』

 

 楓のフォローにナイス、と親指を立てている。この二人の関係性はやっぱりちょっと特別だ。相棒のようであり、姉弟のようでもあり、師弟関係にも見えるし、時折親子に見える時もある。お互いへの理解度が高いっていうのがそれを加速させているのだろう。

 

「まぁ、練習したいなら、今度やってみる? SENGOKUのストーリーモードの公式デバックプレイヤー」

『アレ出しちゃって大丈夫?』

「開発状況を伝えるのも大事な宣伝ですから。まぁ改善点がボロボロ出てくるでしょうけど、やっぱりユーザーの意見を聞かないと」

 

 じゃあ、またあとで。そう言って楓はミラーボールに戻っていく。多分まだまだ仕事があるんだ。ヤチヨカップは終わったけど、公式からのアナウンスとか色々あるので。ヤチヨはそれを目を細めて見送った後、私たちの方に向き直る。一瞬だけ見せた切なそうな表情は既に消えて、いつも通りの綺麗で陽気な表情に戻っている。

 

『さーて、ここからはクライマックスに向けてハードな展開が待っているかも。このお話を最後まで見届けてね? 運命の荒波に揉まれる覚悟はいいかー?』

「「おー!」」

 

 かぐやと二人でこぶしを突き上げる。確かにこれで終わりじゃない。むしろ、ここから始まるんだ。ヤチヨとのコラボライブに向けてやらなきゃいけないことはたくさんある。ダンスの練習とか、歌の練習とか、衣装や演出の打ち合わせもあるだろう。楽しい事ばっかりじゃないけど、きっと星が輝くように美しいものが待っているはず。

 

 なにより、太陽のように笑うかぐやの姿が見られればそれで良いのだ。取り敢えずまずは――引っ越しをしよう。

 

 

 

 

 

 

 早速引っ越しということで、かぐやと目星をつけた物件のある不動産屋さんを訪ねる。元々楓が家族で住んでいた部屋がその場所だった。駅前のタワマンの最上階。本来なら、私には縁もゆかりもないはずの場所だったのだけど、何の因果だろうか、こうして住むことになりそうだった。

 

 高校生二人と年齢不詳の娘一人なんて門前払いされるかと思ったけど、楓がいるせいかすんなりと案内された。元々住んでいたって言うのもあるだろうけど、社会的信用があるのだと思う。主に職業と年収面で。

 

 もし彼が嫌がるなら別のところにしようと思っていたけど、特段そういう感じでなかったので、私としてもあの場所で異存はない。内見した時のかぐやのはしゃぎっぷりからしても、あそこで正解だろう。セキュリティー面も比較にならないほど向上しているし。

 

「では、あちらの物件ということでよろしいでしょうか」

「はい、お願いします」

 

 かぐやは先に帰って片付けをしてもらっている。引っ越しの準備をしないと、あの子の大量の荷物が収納できない。引っ越し屋さんが来るまでに終わらせること、と言っておいたので今頃せっせこ段ボールに押し込んでいるのだろう。あとで手伝ってあげないと。

 

 ということで、今は楓と私が契約段階に入っていた。不動産屋さんには成人後に結婚する予定という風に伝えてある。学生結婚には少し驚かれたけど、流石プロというべきか、そっちに切り替えた話をしてくれていた。ちゃんと親にも話を通しているので、おかしなことは言っていない。

 

「それでは、賃貸とご購入、どちらになさいますか?」

「購入でお願いします」

「かしこまりました」

「楓……?」

「お義兄さんにも言われたけど、こういうのは持っておいた方が良いよ。トータルでも、そっちの方が出ていくお金は少ないし。しばらく引っ越すつもりもないでしょ?」

「そうだけど、元手が」

「そこは俺が出すから。問題ないよ、ヤチヨはいけるって言ってるから」

 

 ヤチヨが言うのなら間違いはない。仮に間違っていたとしてもそれは数字が間違っているのであって、ヤチヨが間違えたわけではない。

 

 それはともかく、なんだか楓におんぶ抱っこになってしまう気がした。資金面で片方に依存している夫婦はどうなのかなと思ってしまう。将来的にどうなるにしても、こういうのはしっかりと妻側も負担するべきもののはずだ。収入自体はバイトもあるし、かぐや・いろPの連名で活動しているので、その収入もある。正確にはかぐやの取り分の方が圧倒的に多いけど。三割くらいしか貰っていないが、その三割でもマンションの負担くらいは出来る額だった。

 

「私も、半分は出すから」

「いいよ、俺がそのまま現金即決で出せるし」

「ダメ。こういうのはちゃんとしておきたい。私の気持ちの問題なの。楓に甘えるのは好きだけどお金のことまで頼り切りなのは違うと思う。そういうのは、世帯収入が一緒になるまでは分けたい」

「分かったよ、彩葉さんがそう言うのなら」

 

 納得してくれてよかった。そう、私たちはまだ夫婦じゃない。世間的にはただの同棲しているカップルだ。結納とかもしていない以上、なんの契約関係にもない。だからこそそれを縛る何かが欲しいのだけれど、それも中々難しい。そういう関係の中で、どちらかに負担を押し付けるのは避けたかった。

 

 これまで何度も楓の優しさに甘えてきた私が言うのも違う気はするけど。それでも、信条として譲れないものはある。

 

「ではですね、こちらの書類の方と、あとは身元保証人の方にお書きいただく書類の方をお渡しいたします」

「ありがとうございます」

 

 てきぱきと事務作業を進めていく楓はお仕事モードのキリっとした顔だ。書類系はツクヨミ作成時に死ぬほどやったらしく、得意と言っていた。この横顔が普段とのギャップも相まって凄く好きだったりする。普段の顔は普段の顔で好きなのだけど、それはそれこれはこれ。ある意味では別腹みたいなものかもしれない。一粒で二度美味しいのだ。

 

 保証人は既に見つけてある。一棟丸ごと買うのかと思ったという成金発言にはちょっとショックを受けたけど。でも多分楓も買おうと思えば買えるのだろう。それくらいのお給料は貰っているはずだ。じゃないと流石にツクヨミに夢がなさすぎる。

 

「ありがとうございました。では、手続きの方を進めさせていただきます。本日はこれで終わりになります。お暑い中、ありがとうございました」

「こちらこそ、どうもありがとうございました」

「よろしくお願いします」

 

 夫婦で挨拶して不動産屋さんを後にする。娘さんがかぐやのファンらしく、サインを頼まれてしまったのでそれだけ次回渡すことになった。自動ドアが開くと真夏の灼熱が一気に肌を刺す。

 

「相当暑いね、これは……」

「なんかあの子に買って帰らない? アイスとか」

「いいね、喜びそう」

 

 こうして二人で歩くのはいつぶりだろう。三人でいるのも大好きだし、かぐやと二人なのも勿論楽しい時間だ。でも、それとは別種の喜びや楽しみが楓と二人だと湧き上がってくる。娘が出来ても、親になっても、二人きりになれば恋人に戻れるのかもしれない。だとしたら、どんなに素敵な事だろうか。いつまでも夫婦仲良く。それがきっと、子育てにもいいはずだ。

 

「でも、まさか楓の前の家に戻ることになるなんてね」

「人生、何が起こるか分からないなぁ」

「……ホントにあそこでよかったの?」

 

 私やかぐやに遠慮しているんじゃないか。そういう不安が存在してた。それを見抜いたのか、楓は微笑む。

 

「思い出すものはたくさんあるけど、悪い思い出じゃないし。一人なのが寂しかっただけで、きっともう一人にはならないと思えたからね。思い出はもう変えられないけど、積み重ねていくことは出来る」

 

 これから先、どんな思い出が増えていくのだろう。あの家が楓にとってもかぐやにとってもいい思い出に満ちた場所になることを願っている。家って言うのは帰る場所だし、安心できる場所であって欲しいのだ。

 

「ただいま」

「お帰り~」

 

 かぐやののんびりとしたお帰りの声が響く。暑くて融けそうだった身体にスーッと届く清涼感みたいなものがあった。お帰りのある生活は、やはりいいものだ。この一年それを実感する毎日だった。

 

 そこからあっという間に日は過ぎて、なんとかかぐやの大荷物をまとめ、楓の精密機器を梱包し、引っ越しの日になった。引っ越し屋さんが手慣れた様子でドンドンと荷物を搬送していく。狭い部屋だと思っていたけど、全部の荷物が無くなってしまうと凄く広く感じた。何故だか分からないけど、凄く寂寥感がある。

 

 何もなくなってしまった部屋を、意味もなく歩く。この一年、ここで過ごしてきた。色んな経験を、想いを積み重ねてきた。初めて楓と話した玄関。ここを何度も通ってお互いの部屋を行き来したっけ。小さいキッチンで、美味しいと言って欲しくてご飯を作ったりした。かぐやがご飯を作ってくれたのもここだ。

 

 ここら辺に机を置いていた。ここでずっと勉強していた。ここに布団を敷いて寝た。最初は自由を噛み締め、そのあとは一緒に寝たりして。最近はかぐやに引っ付かれて暑い時もあったけど、それでもその狭いなりの温もりは愛おしかった。このお風呂では――まぁ、うん。大事な過去ではある。

 

 色んな愛を積み重ねて、色んな感情を募らせて、一年間ここで過ごしてきた。もうここに戻って来ることは無いのだろう。壁は薄いし、キッチンは小さいし、お風呂も小さい。家賃が安いのと保証人が要らない事以外にはあまり良いところのある家じゃなかったけど、でも思い出深かった。

 

 壁を撫でると、過ごした記憶が、音が、聞こえてくるみたいだった。楓と沢山話した。かぐやと一緒に歌った。楓と二人で食卓を囲んだ。若い夫婦みたいだねなんて、笑ったりして。かぐやに抱き着かれながら配信した。ママ~と情けない声で甘えてくるのを受け止めたりして。沢山の思い出がよみがえる。どうしてか、涙が零れそうだった。

 

「ママ~~! 行くよ~~」

「彩葉さん、大丈夫?」

 

 外からかぐやと楓が呼んでいる。感傷に浸る時間はこれでおしまい。ここからは新しい生活がまた始まる。それでも、例えどれだけ時間が経とうとも、ここで過ごした思い出を忘れることは無いだろう。私たちの物語はここから始まった。どこにいるかより、誰といるかの方が大事だと教えてくれた。

 

 もう行かないと。愛すべき夫と娘が待っている。

 

「お世話になりました」

 

 夏の午後、蝉の声以外に何も聞こえないくらいには静寂が満ちる部屋に、私は一礼をして戸を閉めた。未来へと歩き出すために。

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