Obedience for You   作:壁達

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1話 出会い

 アスファルトを叩く雨音が、夜勤明けの気怠い身体にじっとりとまとわりつく。羽織った安物のパーカーを深く被っても、冷たい雨粒が容赦なく頬を伝った。早朝の住宅街はひっそりと静まり返り、家々の窓はどれも暗く閉ざされている。誰もがまだ、温かいシーツの中で夢を見ている時間帯だ。アザリは舌打ち一つする気力すら湧かず、ただ雨に打たれるままに歩みを進めていた。

 

 その時、視界の端に、まるでそこだけ時間が止まったかのような古い木造家屋が映り込んだ。壁の半分は黒ずんだ蔦に覆われ、窓ガラスは無残に割れている。見るからに長く放置された廃屋だった。

 雨脚はさらに強まり、遠くで重い雷鳴が腹の底を震わせる。アザリは雨を凌ぐため、軋む玄関の引き戸に手をかけ、躊躇いがちにその暗がりへと滑り込んだ。

 

 内部は、外観から想像する以上に荒れ果てていた。埃と深く根を張った黴の匂いが鼻を突く。床には瓦礫や正体不明のゴミが散乱し、崩落した天井の穴からは、雨水が止めどなく滴り落ちていた。

 雨が弱まる気配はない。手持ち無沙汰になったアザリは、廃屋の奥へと無意識に足を進めた。きし、きしと、湿った床板が悲鳴を上げる。一番奥にあった、かろうじて原型を留めている部屋の襖を、アザリは無造作に開け放った。

 

そこに、それはいた。

 

 薄暗い部屋の隅で、泥に汚れた簡素なワンピースを纏ったその女は、ひどく怯えた様子でこちらを見上げていた。ひどく整った顔出しをしており、赤みがかった前髪の隙間からは、奇妙な瞳が覗いている。複数の輪が重なったような、同心円状の不気味な環を持つ瞳だ。

 

 だが、その類稀な美貌に反して、女の瞳に宿る光はあまりにも弱々しかった。自信の欠片もなく、全身を小刻みに震わせている姿は、捨てられた仔犬のようだ。

 天井からの雫が女のすぐそばに落ち、ぽつり、ぽつりと単調な音を立てる。ただそれだけの音にすら、女はびくりと肩を跳ねさせた。

 

「…あ、あの…わ、私は…その、なにも、危害は…加えませんので…」

 

 弱々しく震える声が、部屋の静寂を破った。驚くほど澄んでいて、脳の髄を撫でるような響き。しかし、言葉の端々からは底知れない恐怖が痛いほどに滲み出ている。

 

 女は必死に頭を下げ、アザリから視線を逸らそうと身を縮めた。

 

「お、お許しを…どうか、見逃して、いただけないでしょうか…?」

 

 アザリは無感動な瞳で、目の前の女を見下ろした。雨宿りのつもりで入った廃屋で、ひどく面倒なものに絡まれた。それが偽らざる率直な感想だった。

 

「行くあてがなくて…ここで、その、暮らしてるんです」

 

雨音にかき消されそうなほどか細い声に、アザリは僅かに眉をひそめる。

 

「廃屋とはいえ、持ち主はいるでしょ。怒られるんじゃない?」

 

「…そう、ですよね。でも、ダメなんです。外に出たら…見つかってしまうんです…!」

 

 女はぶるぶると震え、とうとう両手で顔を覆ってしまった。「ああ、どうしたら…」と、指の隙間から嗚咽混じりの声が漏れる。

 

 

 その常軌を逸した怯えように、アザリは街中で稀に見かける「ある種の人間」を思い浮かべた。見えない何かに追われているかのように周囲を警戒し、虚空に向かって独り言を呟く人々。関わるとろくなことにならない、一番面倒なタイプだ。

 ただでさえ無気力な日常に、これ以上の波風は立てたくない。アザリはそっと、音を立てないように後ずさった。このまま気付かれずに立ち去ろう。そう判断し、踵を返そうとした瞬間だった。

 

「そうだ!」

 

 不意に顔を上げた女が、何かを閃いたように大きな声を上げた。その瞳は僅かに潤み、藁にもすがるような必死の形相に変わっている。

 

「わ、私と契約しませんか!? あの、寿命とか、そういうのは頂きません! 目や手を失うことも、絶対にありませんから! お願いです、ただ…ただ、あなたの家に、居させてください…!」

 

 突拍子もない提案に、アザリは思わず足を止めた。

 

「は? 契約って…あんた、悪魔なの?」

 

 目の前で蹲る女は、どう見てもか弱く、ただ美しいだけの人間にしか見えない。

 

「はい。私は、服従の悪魔、です…。望みは、ただ一つ。あなたを…ご主人様として、お仕えさせてほしいのです。…ああっ、待ってください、行かないで!」

 

 鬱陶しくなって再び立ち去ろうとしたアザリの腕に、冷たい手が絡みついた。見れば、女が床に這いつくばるような姿勢で必死にしがみついている。その力は、見た目通りひどく弱々しい。

 

「ノーリスクで悪魔と契約ですよ! こんなチャンス、滅多にないです! お願いします!」

 

「何がノーリスクよ。家に泊めろって言ってるじゃない」

 

 アザリは呆れ果て、その腕を振り払おうとしたが、女はしつこく食い下がる。

 

「うちみたいな狭いアパートに、あんたを入れるスペースなんてないの。大体、どういう能力なの?私が誰かを服従させられるとか?」

 

「…逆、です」

 

 女はふるふると首を横に振ると、信じがたい言葉を口にした。

 

「あなたが誰かに服従する、という能力です…」

 

「はああっ!? クソ役立たずの能力じゃない。何の役に立つって言うのよ」

 

 あまりに馬鹿げた能力に、アザリは怒りを通り越して全身から力が抜けるのを感じた。夜勤明けの疲労も相まって、眩暈すら覚える。

 

 しかし、アザリの痛烈な罵倒にも、女は怯まず、グッと身を乗り出してくる。その必死な様子は、激流の中で掴んだ細い枝を絶対に手放すまいとするかのようだ。

 

「で、でも!私があなたの僕になるのは、お得だと思いませんか?な、何でもします。何を言われても、絶対に断りません。そういう契約ですから!」

 

 その言葉に、アザリは思わず沈黙した。

 

 心の中で、冷徹な天秤が揺れる。片方には、面倒な同居人が増えることへの億劫さと、ただでさえ狭いアパートがさらに手狭になるという現実的な問題。

 

 もう片方には、「何でもする」という言葉の甘美な響き。

 

 誰にも頼らず、ただ息をするだけの無気力な日々をやり過ごしてきた。この灰色に塗り潰された毎日に、この奇妙な悪魔は、もしかしたら何か違う色を落としてくれるかもしれない。タダで手に入る、絶対に服従する悪魔の召使い。退屈で腐りきった日常を破壊してくれる起爆剤になるのなら、悪くない賭けだ。

 

 食い扶持が増えることに関しても、夜勤明けに廃棄される弁当をごまかして持ち帰れば、なんとかなる。疲弊しきった頭の中で、そんな打算的な計算が素早く弾かれた。

 

「…契約しても、いいよ」

 

 ぽつりとこぼれ落ちた承諾の言葉に、女の顔がぱあっと輝いた。それは、何日も続いた土砂降りの空に、一瞬だけ差した強烈な陽光のようだった。

 

「ほ、本当ですか!? ありがとうございます、ご主人様!」

 

 早くも「ご主人様」と呼び始める女に若干の気味の悪さを感じつつも、アザリは黙って先を促す。女は興奮冷めやらぬ様子で、しかしどこか儀式的な厳粛さをもって言葉を紡いだ。

 

 

「では、契約内容の確認を。私は、あなたに服従し、この身と能力のすべてを捧げます。その対価として、あなたは、この私をあなたの家に住まわせ、そして、私を『存分に』使うこと。…以上が条件です」

 

 そう言い終えると、女――服従の悪魔は、アザリの目の前ですっと片膝をついた。そして、震える右手を自身の左胸の前に恭しく掲げる。それは、騎士が絶対の主に忠誠を誓うかのような、「服従」を示すポーズだった。

 俯いた拍子に長い前髪がさらりと流れ、その下にある環状の瞳が、期待と僅かな不安に濡れてアザリを見上げている。

 

「さあ…ご主人様。私の頭に手を置いてください。それで契約は成立します」

 

 促されるまま、アザリはゆっくりと手を伸ばした。雨で芯まで冷え切った指先が、その柔らかな赤髪に触れた瞬間――廃屋の淀んだ空気が、びりりと微かに震えたような気がした。

 それは、確かな契約の成立だった。しかし、派手な閃光が迸るわけでも、衝撃波が走るわけでもない。ただ、目の前の悪魔の瞳に、深い安堵の色がとろけるように広がっただけだ。

 

 そのせいか、自分が悪魔と契約したという実感は、まるで湧いてこない。こんなにもあっけないものなのか。道端でポケットティッシュを受け取るくらいの気軽さで、アザリの死んだような日常に「悪魔」という異物が入り込んできた。

 

「これで私はあなた様のものです。ご主人様」

 

 そう言って顔を上げた悪魔は、心なしか先ほどより生気を取り戻しているように見えた。自らを縛り付ける絶対的な「主」を得たという安堵感が、その全身から溢れ出ている。

 

「とりあえず家に帰るよ。あんたも来るんでしょ」

 

「はい! 喜んでお供します!」

 

 立ち上がり、ぱんぱんとワンピースの埃を払う悪魔に、アザリは廃屋の出口を顎で示した。雨は幾分か弱まり、細かい霧雨に変わっている。とにかく早く帰って、この重く濡れた服を脱ぎ、泥のように眠ってしまいたい。疲労感はとうに限界を超えていた。

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