今回の討伐対象は、森野ホテル内部に潜む悪魔。すでに複数の民間デビルハンターが犠牲となっており、宿泊客の安否も絶望的とされていた。
薄暗いエントランスの前で、姫野がまるでピクニックの引率者であるかのように手を叩いた。
「はーい、みんな注目! 今回の悪魔を倒した人にはなんと! 私がほっぺにキスしてあげまーす!」
凍りついていた現場の空気が、その一言で間抜けに弛緩した。
「マジかよ! よっしゃあああああ!」
欲望のままに雄叫びを上げ、デンジが一人でガラス扉を蹴破り、ホテルの暗がりへと突っ込んでいく。
「おい、デンジ! 勝手に行くな!」
生真面目な顔をした荒井が慌ててその背中を追う。しかし、彼の口から漏れ出たのは「いや、俺が倒して姫野先輩のキスをもらうんだ!」という、およそデビルハンターらしからぬ台詞だった。結局のところ、彼もまた俗物的な欲望には抗えないらしい。
すると、一行が足を踏み入れた薄暗い廊下の先で、軋む音を立てて客室のドアがゆっくりと開いた。
隙間から這い出てきたのは、中年男性の生首に直接、毛根のような細い足が何本も生えた不気味な生物だった。それはカサカサと不快な音を立てて絨毯を這い回り、一番近くにいたコベニめがけて跳躍した。
「ひっ!」
短い悲鳴。だが、その悪魔の牙が彼女の喉笛に届くことはなかった。悪魔の体は、まるで無重力空間に放り出されたかのようにふわりと浮き上がり、空中でピタリと停止した。
「捕まえた」
呟く姫野。彼女が契約している悪魔の能力だろうか。
「死ねい! 悪魔め! 」
どこからともなく取り出した血のハンマーを振り被り、パワーが宙に浮いた悪魔を容赦なく両断した。
ぐちゃり、という湿った音と共に肉片が弾け飛び、古い絨毯にどす黒い染みを作る。生臭い血の匂いが廊下に充満した。
「ワシにビビって浮きおったわ!」
「ちょっとパワーちゃん、違う違う!それ私の力!私のゴーストが捕まえたの!」
手柄を横取りされた姫野の抗議を、パワーはせせら笑って聞き流す。アザリは、その一連の狂騒をただ黙って見ていた。民間では考えられない、あまりにも手際の良い、そしてあまりにも日常的な命のやり取り。これが公安の、特異4課のやり方。アザリは改めて、自分がとんでもない場所に足を踏み入れてしまった事実を、死臭と共に噛み締めていた。
(にしても、あの二人……)
前を歩くアキと姫野の距離が、妙に近い。アキは常に敬語を使っているが、姫野からアキへ向ける視線や態度には、単なる先輩後輩という枠に収まらない湿度が纏わりついている。アキの肩に軽くもたれかかったり、耳元で何かを囁いたり。隠しきれない好意が滲む仕草を、アキは特に気にする素振りもなく受け入れている。その無反応さが、逆に関係の深さを物語っているようだった。
不意に、先頭を歩いていた荒井がピタリと足を止めた。
その顔には、困惑と焦りの色がべったりと張り付いている。
「どうした」
いち早く異変に気づいたアキが問う。荒井は、信じられないといった様子で、周囲の壁を見回しながら言った。
「早川先輩……俺たち今、9階に行くための階段を登りましたよね? でも、ここ……8階ですよ?」
全員の足が止まる。アザリも、壁の案内板に目を向けた。掠れた金色のプレートには、はっきりと『8』と刻まれている。先ほどまでいたフロアも8階だった。階段を登ったはずなのに、同じ階層に戻ってきている。
「すみません、俺、もう一度確認してきます!」
荒井が今登ってきたはずの階段を、乱暴な足取りで駆け下りていく。しかし数秒後、階段を下りていったはずの荒井が、上の階の階段から息を切らして姿を現した。
まるで、フィルムが乱雑に繋ぎ合わされたかのように。
「…あれ? 荒井くん、今…階段、降りていったよね?」
その後の検証の結果、この8階から脱出することが不可能であることが証明された。
窓ガラスを叩き割って外に出ようとすれば、隣の客室の窓から室内へと転げ落ちる。非常階段を駆け上がっても、駆け下りても、辿り着くのは見慣れた8階の廊下。防火シャッターをこじ開け、埃まみれの天井裏に侵入しても、別の通気口から8階へと吐き出される。エレベーターのボタンは、何度押しても沈黙したままだ。
出口のない、完璧な閉鎖空間。
「うわああぁぁん…もういやだぁ…おうちに帰りたいよぉ…」
最も早く心が折れたのはコベニだった。廊下の隅で膝を抱え、しゃくりあげて泣き始める。荒井が慌てて寄り添い慰めるが、彼自身の顔も死人のように青ざめていた。
そんな中、アキだけが壁に背を預け、じっと左腕の腕時計を見つめ続けている。
「アキ君、どうしたの? そんなに時計ばっか見て」
「…時間が、止まってます」
静かに告げられた言葉に、泣き声がピタリと止んだ。
時間が止まっている。それはすなわち、外部からの救援が未来永劫訪れないことを意味する。「悪魔の腹の中」。アキが淡々と状況の絶望さを説明すると、コベニはさらに激しく泣き崩れ、荒井はとうとう言葉を失ってうなだれた。
ただ一人、デンジだけが全く別の角度からこの絶望を解釈していた。
「え、マジ? じゃあ寝放題ってことじゃん!」
心底嬉しそうにそう叫ぶと、デンジは一番近くにあった客室のふかふかなベッドにダイブし、一瞬で高いびきをかき始めた。そのあまりにも呑気な姿に、周囲の空気が少しだけ死に絶えた。
絶望的な状況下で、アザリは自身の肉体が発する最も原始的なサインに気がついた。
腹が減っている。
時間の流れが停止していても、そこに囚われた生物の生命活動は通常通りに進むらしい。脱出のためにホテル中を探し回ったことで、体力の消耗は確実なものとなっていた。
このままでは、悪魔に殺される前に餓死する。
危機感を共有したメンバーは、ホテル内に残された食料を一箇所に集約した。手分けして客室や従業員用のバックヤードを漁り、備蓄されていた非常食やスナック菓子などを一つの部屋に集める。決して多くはないが、数日は持ちこたえられる量だ。
その後、熟睡するデンジを除く全員で役割分担が決まった。
アキと荒井は悪魔本体の気配を探しに巡回へ。姫野とコベニは脱出の糸口を探すための再探索へ。
そしてアザリに与えられた役割は、集めた食料の「見張り」だった。目的は明確だ。探索を拒否してこの部屋に陣取るパワーから、食料を死守すること。
アザリがマスクを着けたまま部屋の隅で壁に寄りかかっていると、ソファに寝そべっていたパワーが、ちらちらとこちらを窺い始めた。
「なあ、アザリ。さっきの探索で疲れたじゃろ? 少し寝てもいいぞ! このワシが、代わりに見張っておいてやるからの!」
(…あんたからこの食料を守るために、私はここにいるんだけどね)
内心で毒づきながら、アザリは冷たい一瞥を返した。その圧力を感じ取ったのか、パワーは「ちっ」と舌打ちをして不貞腐れたようにそっぽを向いた。
外からは足音一つ聞こえない。
世界から切り離されたような、耳鳴りのする静寂。
だが、その静けさは長くは続かなかった。
空腹に耐えかねたパワーが、ついに痺れを切らし、声を上げた。
「なあ、アザリ! ちょっとくらい良いじゃろ!? そこのチョコを、ほんのひと齧りするだけじゃあ!」
「ダメ。これは全員の生命線なの。計画的に、公平に分配しないといけない」
アザリの冷静な拒絶に、パワーの堪忍袋の緒が完全に切れた。がばりと身を起こし、金切り声を上げる。
「ワシはもう腹ペコなんじゃあ! 今食わんと死ぬんじゃあ! ウヌはワシを殺す気かァ!?」
「そんなに大きな声が出せるなら、まだ元気みたいだね。ほら、あっち行ってて」
子供をあやすような冷ややかな口調が、パワーの最後の理性を焼き切った。彼女はソファから立ち上がり、食料の山に向かってずんずんと歩き始める。
「邪魔をするなよ人間!もし邪魔をしたら、ウヌのその細い腕を食いちぎってやるからな!」
威嚇しながら手を伸ばすパワーを、アザリは壁に寄りかかったまま黙って見つめていた。パワーは無抵抗のアザリを嘲笑うかのようにチョコの袋を掴み取ると、勝ち誇った顔で振り返った。
「残念じゃったのお!ウヌは何も守れん無能じゃ! 後でちょんまげには、ウヌが食べたと伝えてやるわ!」
高らかに勝利を宣言し、袋を破り、中身を口へと運ぼうとする。
その、瞬間だった。
パワーの体が、ぐらり、と大きく傾いた。
「んええ…? なんじゃあ、これは…眠い…」
呂律の回らない言葉をこぼしながら、力が抜けていく。手から袋が滑り落ち、彼女自身も糸の切れた操り人形のようにその場に崩れ落ちた。数秒後、カーペットに顔を押し付けたまま、穏やかな寝息を立て始める。
(やっぱり、我慢できなかったか)
アザリは静かに息を吐き出した。
パワーの単純な性格なら、いずれ力づくで奪いに来ることは明白だった。だから、先手を打った。アザリは契約している『ガスの悪魔』の力で、ごく微量の睡眠ガスを、この部屋の低い位置にだけ滞留させておいたのだ。長時間留まれば、自然と意識が刈り取られる濃度で。
あらかじめマスクを着け、壁際の高い位置に立っていたアザリだけが、その影響から逃れていた。
これで少しの間は静かになるだろう。
アザリは眠りこける魔人の横を通り過ぎ、床に落ちた菓子袋を拾い上げると、何事もなかったかのように元の山へと戻した。
閉鎖された8階の客室に、再び不気味な静寂が舞い戻った。