Obedience for You   作:壁達

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11話 手詰まり

 

 眠りこけるパワーの体は、ひどく軽かった。アザリはその細い体を抱え上げると、音を殺して部屋を出る。向かう先は、デンジが熟睡している隣の客室。ドアを静かに押し開けると、キングサイズのベッドの中央で、デンジがひどく無防備な顔でいびきをかいていた。アザリは隣の空いたスペースに、魔人の体をただの荷物のようにそっと転がす。これで、しばらくは厄介事が一つ減った。

 

 食料の積まれた部屋に戻り、再び壁に背を預ける。さて、どうしたものか。パワーという暴発しがちな懸念材料は一時的に排除できたが、休まる気はしない。

 張り詰めた空気の中、廊下から間延びした足音が響き、姫野が部屋に入ってきた。その背中には、ぐったりと首を垂れたコベニが負ぶわれている。

 

 「どうしたんですか? コベニは」

 

 アザリが尋ねると、姫野は苦笑いを浮かべ、やれやれといった様子で首を振った。

 

 「それがさあ、急に錯乱しちゃって。便器の水を飲もうとするから、ちょっと悪いけど気絶させたんだよねえ」

 

 その乾いた報告に、アザリは内心でこの環境の過酷さを再認識する。閉鎖空間と終わらない時間は、精神的に脆い人間から確実に狂わせていく。姫野はコベニをベッドにそっと下ろしながら続けた。

 

 「部屋の探索も一通り終わったしさ、ちょっと休むついでにコベニちゃんを寝かせようと思って…。あれ、そういえば、あの魔人ちゃんは?」

 

  「ああ、パワーなら寝かしつけました。今はデンジの部屋で、ぐっすりです」

 

 「へえ。あんなに食べ物に執着してたのに。やるじゃん、アザリちゃん」

 

 姫野は感心したようにアザリの肩を軽く叩いた。そして、ベッドのそばの椅子に腰を下ろし、深く、ひどく重いため息をつく。部屋には再び淀んだ静寂が訪れた。

 姫野はポケットからタバコを取り出すと、火もつけずに唇に挟んだ。その横顔は気怠げで、どこか諦観の混じった色がへばりついている。この状況に、彼女なりに最悪の覚悟を決めているのかもしれない。アザリはそんな先輩の姿を静かに見つめながら、己の思考を冷たく研ぎ澄ましていた。

 

「アキ君、戻ってこないな〜。そろそろ休んで欲しいんだけどな」

 

 姫野が独り言のように零し、椅子から立ち上がって部屋を出ていく。廊下を巡回し続けているアキを説得しに行ったのだろう。その姿に、アザリはやはりあの二人の関係が、単なる同僚の域を超えていることを確信する。

 

 数秒後、まるで入れ替わるように、寝ていたはずのデンジが現れた。目はまだ半分閉じているが、腹の虫は正直らしい。

 

 「起きたの?」

 

 「おう。なんか腹減ってよ。それ、食べていいの?」

 

 デンジが食料の山を指差す。アザリは即座に首を横に振った。

 

 「今はダメ」

 

 「ちぇっ。じゃあ、もう一回寝るわ」

 

 不満そうに唇を尖らせ、踵を返す背中を、アザリは引き止める。

 

 「そろそろ起きてなよ。早川先輩たちが戻ってきたら、交代で探索するかもしれないんだから」

 

 どうにも緊張感の欠ける少年だ。だが、その間の抜けたやり取りが、逆にこの空間の異常性を際立たせていた。

 その時、空気を引き裂くように、早川アキが部屋に飛び込んできた。血相を変え、目は見開かれ、呼吸はひどく浅い。

 

「悪いニュースがある。俺たちが殺した悪魔がいただろ。さっき見に行ったら…そいつが、どんどん大きくなってる」

 

 その言葉に、部屋の空気が再び凍りついた。

 アキに案内され、一同が向かった先の部屋。そこには、網膜を焼くようなおぞましい光景が広がっていた。

 

 壁一面に、無数の人間の顔、口、目が蠢き、でたらめに融合し、一つの巨大な肉塊となってへばりついている。死体だったはずの悪魔が、吐き気を催すほどの生臭さを放ちながら、脈打ち、増殖していた。

 

 「今までいなかったのに、なんで今さら出てきたんだろ」

 

 先に来ていた姫野が眉を顰める。悪魔自身に出てくる理由ができた? 何か、状況に変化があったというのか。

 

 「まあ、いいや。アキ君、狐で飲み込んじゃえ」

 

 「コン」

 

 アキが印を結び、狐の悪魔を呼ぶ。しかし、何も起こらない。「コン」という乾いた声が、廊下に虚しく吸い込まれるだけだった。

 

 「…来ませんね。どうやら、この空間自体が外と完全に断絶されているらしい」

 

 「そっか、狐は京都にいるもんね。なら、私のゴーストで!」

 

 姫野が右腕を掲げると、背後から透明の巨大な腕が現れる。姫野の指示に従い、ゴーストの腕が壁の肉塊を無慈悲に粉砕する。べちゃり、と肉の潰れる音が響き、悪魔は口々に『痛い』と苦悶の叫びを上げた。しかし、破壊された断面から、まるで泡立つように次々と新しい顔が生え揃っていく。攻撃を受けるたびに、肉塊はさらに醜悪に膨れ上がっていった。

 

 その時、肉塊に浮かぶ無数の口の一つが、歪に歪み、言葉を吐き出した。

 

 『無駄だ、人間よ』

 

 男とも女ともつかない、不協和音のような不気味な響き。

 

 『私は永遠の悪魔。私の心臓はここにはない。私を倒すのは不可能だ』

 

 それは、純然たる死刑宣告だった。直後、肉塊が生き物のように大きく脈動し、急激に膨張を始める。壁がメキメキと悲鳴を上げ、無数の亀裂が走った。

 

「不味い! 2人とも、逃げるぞ!」

 

 アキの声に弾かれ、アザリは姫野と共に反射的に部屋から飛び出した。ほんの一瞬でも遅れれば、あの肉の波に飲み込まれる。轟音と共に部屋の壁が崩壊し、顔と手足が蠢く巨大な肉の塊が、廊下へと雪崩れ込んできた。そこで膨張はぴたりと止まったが、廊下全体を塞ぐその圧倒的な質量は、逃げ場のない絶望を全員の喉元に突きつけていた。

 

 騒ぎを聞きつけ、デンジ、パワー、そしてコベニと荒井が駆けつけてくる。目の前の狂気に対してどこか鈍感なデンジたちとは対照的に、コベニと荒井の顔は恐怖に歪み、今にも腰を抜かしそうだった。

 

 肉塊の無数の口が、一斉に開く。

 

 『人間たちよ。愚かな人間たちよ。私は契約を交渉する。そこのデンジという人間を私に食わせろ…。そいつの死体でもいい…。私に食わせろ…。そうすれば、他のデビルハンターは全員、無事に外に帰してやる』

 

 唐突な申し出。

 全員の視線が、まるで重力に引かれるようにデンジへと集中する。流石のデンジも冷や汗を流すが、負けじと声を荒げた。

 

 「はん! どーせ俺を殺しても、外には出さねえくせによ!」

 

 「それはないよ」

 

 姫野が静かに首を振り、冷徹な事実を口にする。

 

 「『契約』って、あの悪魔は言ったでしょ? 悪魔が使う『契約』って言葉には、強い力があるの。契約を片方が守れば、もう片方も絶対に守らなければいけない。もし守らずに破った方は、死ぬ。だから……デンジ君を殺せば、私たちが外に出られるのは、本当だよ」

 

 姫野の言葉は、鋭い刃となって全員の心を切り裂いた。

 アザリの脳裏に、あの女の顔が過る。マキマと瓜二つの『服従の悪魔』。日に日にエスカレートする要求、応えられなければ内臓を潰されるような苦痛。悪魔との『契約』がいかに絶対的で、いかに理不尽な強制力を持っているか、アザリは骨の髄まで理解していた。

 

 すると、毛布にくるまり恐怖に震えていた荒井が、泣き叫ぶような声で訴えた。

 

 「姫野先輩、そいつは…そいつは殺すべきです…! このままじゃ、みんな餓死ですよ…! デビルハンターが悪魔と契約することは、法律でも認められています! 俺たちは、契約を受けるべきです!」

 

 極限状態が生み出した、危うく歪んだ正義感。それに真っ向から冷や水を浴びせたのは、アキだった。

 

 「悪魔はデンジを殺したがっている。…デンジの死が、この悪魔にとっての利益になるんだろう。だから、この契約は受けない」

 

 デビルハンターとしての、いや、早川アキという人間の意地だった。姫野は、そんなアキの横顔を見て、ふっと口角を上げる。

 

 「じゃ、私もパス〜」

 

 どこまでも軽やかに、アキの意思に同調する。その即答は荒井をさらに追い詰め、彼の顔から完全に血の気を奪い去った。

 

 「…私も、殺したくはありません。でも、実際問題として、デンジを犠牲にする以外に、ここから出る方法はあるんですか?」

 

 アザリの現実的な問いに、アキは揺るがぬ視線で返す。

 

 「悪魔の言葉を信じるなら、ヤツを殺すことはできない。だが、デンジを殺すつもりもない」

 

 「しかし…」

 

 アザリが言葉を継ごうとした瞬間、アキは何かを振り払うように、強い決意を込めて言った。

 

 「…どうしようもなくなったら、俺が刀を使う」

 

 「ダメ」

 

 凛とした、しかし一切の反論を許さない響き。いつの間にかアキの目の前に立っていた姫野が、その顔を至近距離から覗き込んでいる。普段の気怠さは消え失せ、その瞳には狂気にも似た真剣さが宿っていた。

 

 「それは、絶対にダメ」

 

 他の誰も入り込めない、強固で異質な緊張感が二人の間に走る。アキが腰に差す日本刀。それが単なる武器ではなく、使用者の命を削るような致命的な代償を伴うものであることは、姫野の過剰な反応を見れば明らかだった。

 

 姫野は真顔から一転、口元に人差し指を当てると、まるで悪戯を思いついた子供のような顔で、この上なく残酷な提案を口にした。

 

 「もし、本当にどうしようもなくなったら……その時は、デンジ君が死んで?」

 

 「えへっ」と幻聴すら聞こえそうなあどけない仕草。だが、その本質は底なしに冷たい。生贄に指名されたデンジは「え〜」と情けない声を上げるのが精一杯だった。

 

 特異4課。このチームは、想像以上に歪で、複雑な感情の糸で絡み合っている。永遠の悪魔という絶対的な死の脅威を前にして、彼らの抱える執着や狂気が、じわじわと剥き出しになり始めていた。

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