結局、全員で固まっているのは精神衛生上よくないというアキの判断で、メンバーは二手に分かれることになった。アキはパワーと、錯乱するコベニ、彼女を宥める荒井を連れて隣室へ。アザリは姫野、そして生贄候補であるデンジと共に、食料のある部屋に残った。
だが、物理的な距離を取ったところで、この密閉空間に充満する狂気が薄まるはずもない。姿が見えないことで疑心暗鬼はより黒く育ち、止まった時間の中を、ただじっとりと汗の匂いだけが過ぎていく。
「なあ姫野センパイ、センパイってアキと付き合ってんの?」
デンジが無遠慮に核心を突く。姫野は待っていましたとばかりに唇を吊り上げ、「さーて、どうだろうねえ?」と揶揄うようにはぐらかした。だが、その芝居がかった軽薄さも、今の状況では痛々しいまでの現実逃避にしか見えなかった。
不意に、隣の部屋から金切り声が響いた。コベニと荒井の言い争う声。その狂騒を嘲笑うかのように、廊下の奥からあの不気味な声が鼓膜を這い上がってくる。
『いいぞ』『もっと恐怖しろ』『私は恐怖で膨らみ、恐怖を糧とするもの』『すべてを怖がれ』『チェンソーを殺すのは、この私…』『私』『永遠の悪魔だ』
アザリは冷たい思考を回す。可燃性ガス、有毒ガス。どれを使おうと、心臓がない不死身の肉塊には決定打にならない。密閉空間でガスを充満させれば、自分たちが窒息するだけだ。手詰まり。思考が壁にぶつかった、その時。
ぐらり、と。
部屋が大きく傾斜した。
いや、違う。この8階のフロアそのものが、巨大な胃袋のようにうねり、傾き始めているのだ。アザリは咄嗟に壁に手をつき、滑り落ちる体を支える。隣の部屋から、鼓膜を裂くような絶叫が上がった。
「うわああっ! 口があ!」
荒井の声だ。アザリは床を這うようにして廊下に出る。隣の部屋の窓の外には、絶望的な光景があった。漆黒の虚空に、先ほどまで存在しなかった巨大な口が、あんぐりと開いている。肉塊はさらに膨張し、空間そのものを圧迫し始めていた。
人間の恐怖を喰らい、無限に肥大化する悪魔。
その声が、傾く世界に響き渡る。
『デンジを食わせろ。愚かな人間どもよ。もはや、お前たちに逃げ場はないぞ』
最終通告。
狂気と圧迫感で人間の精神をすり潰し、最も容易な解決策へと追い込む悪辣な手口。
自然と。ごく自然に、全員の視線が、部屋の中央で立ち尽くす一人の少年へと向かっていた。
恐怖、疑念、焦燥。そして、彼が死ねば助かるという、醜くも切実な希望。すべての感情が刃となって、デンジの体に突き刺さる。デンジ自身も、自分に向けられた視線の意味を痛いほど理解していた。顔を引きつらせ、乾いた喉をごくりと鳴らす。
閉鎖空間における、最も残酷な暴力。
『生贄への同調圧力』が、静かに彼を殺しにかかっていた。もはや、選択の余地はなかった。
傾き続ける床、じりじりと迫る肉の壁、そして脳髄を直接撫で回すような悪魔の嬌声。そのすべてが、この閉鎖空間にいる人間たちを、たった一つの最も容易い解決策へと追い込んでいく。
誰かの命を差し出せば、自分は助かる。
そのひりつくような絶望の空気の中、ついにアキが決断を下した。
「仕方ない。刀を使う。いいですよね、姫野先輩」
静かな声だった。それは、悪魔の理不尽に対する最後の抵抗の狼煙となるはずだった。しかし、アキが右手を背中の刀へ伸ばしかけた瞬間、不可視の暴力が音もなく彼の全身を縛り上げた。
「なっ…!?」
幽霊の悪魔の腕に拘束され、驚きに身を捩るアキ。彼を見下ろす姫野の瞳は、底なしの沼のように真っ黒に濁っていた。普段の飄々とした態度は微塵もない。絶対にその刀は抜かせないという、狂気すら孕んだ強烈なエゴイズムがそこにあった。
「刀は、使わせないよ。アキ君には、まだまだやらなきゃいけないことがたくさんあるんだから。…ごめんね、デンジ君」
その謝罪はデンジに向けた体裁をとりながら、実のところ自分自身に言い聞かせるための呪文だった。姫野の言葉が引き金となり、極限状態によって完全に理性を吹き飛ばされたコベニと荒井が、まるで糸の切れた操り人形のようにデンジへと詰め寄っていく。
荒井が背後からデンジの腕を羽交い締めにし、コベニが震える両手で包丁を高く振り上げた。狂乱のままに、凶刃がデンジの心臓めがけて振り下ろされる。
――その刹那だった。
ゴーストの強固な拘束を、気力と腕力だけで強引に引きちぎったアキが、デンジを庇うように立ちはだかった。
ズチュッ、と。
肉が裂け、内臓に冷たい鉄が到達する鈍い音が、密室に響き渡った。
「…ッ!」
アキの口から、血の混じった苦悶の息が漏れる。脇腹には、根元まで深く突き刺さった包丁。それを握りしめたまま、信じられないものを見るように目を見開くコベニの顔を、アキは交互に見下ろした。
脂汗を浮かべ、苦痛に顔を歪めながらも、アキは絞り出すように口を開く。
「確かにこいつは…刺されても仕方のない…胸糞悪い野郎だが…。銃の悪魔を、殺そうとしている。俺一人じゃ、銃の悪魔は殺せないんだ…。奴を殺すには、立ち向かう気概のあるデビルハンターが、一人でも多く欲しい」
その吐血交じりの言葉は、姫野の心を無惨に打ち砕いた。先程までの冷徹な底知れなさは嘘のように消え去り、彼女の顔から一瞬にして血のの気が引いていく。
「ああっ、どうしよう!? アキ君がっ、アキ君がああ!」
「ひ、ひィイイイイッ!!」
自分の手でアキを刺してしまった事実に耐えきれず、コベニは甲高い悲鳴を上げてその場にへたり込んだ。
カオス。
壁一面で蠢く肉塊の不気味な脈動。傷を負い膝を突くアキ、錯乱して髪を掻き毟る姫野とコベニ、事態を呑み込めず呆然と立ち尽くす荒井。誰かが傷つき、誰かが壊れていく。絶叫と嗚咽、胃液と鉄の匂い。全てが乱雑に混ざり合い、このホテルの一室は完全なる地獄と化していた。
そんな惨状の中、デンジは焦燥を滲ませながらも、血を流すアキの横にいるパワーに向かって血を止めるよう、即座に指示を飛ばした。
しかし、パニックの底に沈んだコベニは、自らの罪の重圧から逃れるため、震える指をデンジに突きつけてわめき散らす。
「わた、私のせいじゃない! アナタ! アナタのせいだから! アナタが大人しく食べられてたら、全部解決したのに!」
そのあまりに理不尽な非難に、デンジは一瞬ムッとした顔を作ったが、やがて呆れたように鼻で笑った。
「あ〜、ハイハイ! じゃあ、食われてやるよ!」
投げやりなその言葉に、コベニの顔に一瞬だけ安堵の色が浮かぶ。だが、デンジの言葉はそこで終わらなかった。
「でも、俺も抵抗するからよぉ。もし、あの悪魔を殺せたら…」
デンジは、傷ついたアキの傍らでパニックに陥っている姫野へと視線を向け、ニヤリと悪びれた笑みを浮かべた。
「チュー。まだ、忘れてねえからな〜?」
姫野はその言葉に反応すらできず、焦点の合わない目でデンジを見つめ返している。
「…何か、策があるの」
アザリが静かに問うと、デンジは「クソ痛えけどな」と前置きし、胸から生えたスターターロープに手をかけた。
「チェンソーになる。あの悪魔、俺のチェンソーにビビってやがる。だから、テメェらに俺を殺すよう言ってんだ」
デンジは、迫り来る無数の手や顔が浮かんだ肉の壁を、ひどく冷酷な目で見下ろした。
「それに、あの悪魔……さっき姫野センパイが攻撃した時、『痛い』って言ってやがった」
彼は振り返り、その場の全員に向けて、常軌を逸した確信に満ちた笑顔を向けた。
「だったらよぉ。アイツが『死にたい』って思うまで、ずーっと痛めつけて、自殺させりゃあいい!」
論理的だが、あまりにも狂っている。その発想に、アキの傷口を押さえていたパワーでさえ、感心したように声を漏らした。
「悪魔みたいな発想じゃな!」
それが、反撃の合図だった。
デンジはニッと口角を吊り上げると、胸のコードを引き抜く。けたたましいエンジン音の爆発と共に、彼の頭部と両腕からおぞましい刃が飛び出した。
迷うことなく、チェンソーの悪魔は傾いた床を蹴り、窓の外で待ち構えていた巨大な肉の口内へと自ら飛び込んでいく。