『やはり生きていたか、チェンソー! 死ねえええええ!』
肉塊に埋め込まれた無数の顔が、恐怖と憎悪の入り混じった金切り声を上げる。壁から突き出た何十本もの腕が鞭のようにしなり、デンジの身体を打ち据え、引き裂く。だが、デンジは痛みに怯むどころか、さらにエンジンを甲高く唸らせ、回転する刃で肉の波を真っ向からミンチに変えていく。
『無駄だ、チェンソーオオオ!』『痛い!』『私の心臓はここにはない!』『殺すことはできな…ぎゃああああああ!!』
悪魔の悲鳴と、デンジの狂気に満ちた哄笑が狭い空間で反響し続ける。その圧倒的で暴力的な絵図に、アザリ、姫野、コベニ、荒井は言葉を失い、ただただ立ち尽くしていた。
しかし、パワーだけは冷静に戦況を分析し、舌打ちをする。
「マズイのお。デンジの血が、どんどん無くなり続けておる。このままでは、チェンソーは引っ込んでしまうぞ」
事実、デンジの動きは目に見えて鈍り始めていた。幾度も肉を削がれ、夥しい量の血を流し続けているのだ。
それを察知した永遠の悪魔が、醜悪な嘲笑を響かせる。
『昔より、ずっと弱くなったな!』『哀れ、チェンソー!』
やがて、パワーの懸念通り、空間を切り裂いていたエンジン音が不意に途切れ、デンジの頭部と腕のチェンソーが「しゅるり」と体内に収納されてしまった。
万事休すか。そう思われた瞬間だった。
デンジは剥き出しの牙を立て、眼前にあった永遠の悪魔の顔の一つに獣のように食らいついたのだ。
ブチィッ、と肉を噛みちぎり、溢れ出す悪魔の血を、彼は喉を鳴らして貪り飲んだ。
次の瞬間、再び彼の体内から爆音のエンジンが鳴り響き、刃が勢いよく飛び出す。
「ドブみてえにマズい血でもよぉ! テメェの苦しむ顔を見ながら飲みゃあ、いちごジャムみたいに美味えんだぜえええ!」
『ぎゃあああああ!』
自らの血を流し、敵の血肉を喰らい、再び刃を振るう。
果てしのない殺戮の螺旋。アザリは、その常軌を逸した執念の姿を、圧倒されつつも観察していた。ふと、隣に立つ姫野の様子がおかしいことに気がついた。
姫野の横顔は、恐怖に凍りついているわけでも、驚愕に目を見張っているわけでもなかった。
彼女は、恍惚としていた。
血の気を失っていたはずの頬は興奮に朱く染まり、その瞳は、狂乱の中で刃を振るうチェンソーマンの姿に、熱を帯びて釘付けになっている。
(…この人は、何を考えている)
アザリの眉が微かに動く。その表情に宿っているのは、純粋な戦果への期待ではない。もっとどろどろとした、個人的で、ひどく歪んだ感情の蠢き。表面を取り繕ってきた人間が、極限状態で剥き出しにした本性の匂いがした。
地獄の轟音と肉の潰れる音が響く中、姫野の脳裏には、かつて死別した師匠の言葉が鮮明に蘇っていた。
『悪魔が恐れるデビルハンターは…頭のネジがぶっ飛んでる奴だ』
紫煙を吐き出しながらそう告げる、乾いた声。
『アキの野郎はまともだろ? アイツはいずれ銃の悪魔に辿り着くだろうが、このままじゃ死ぬぞ』
その通りだと思った。アキ君は優しくて、真面目で、普通すぎた。復讐の炎を燃やしてはいるが、根底にあるのは人間らしい情だ。だからこそ、この狂った世界では絶対に長生きできない。アキ君を死なせたくない。姫野はその一心で、彼を何度も民間に誘い続けたが、彼は決して首を縦に振らなかった。
(でも、銃の悪魔と戦ったら、アキ君は確実に殺される…)
どうすればいいのか分からなかった。アキを救う術が見つからなかった。
だが、今、目の前で血みどろになって笑う男はどうだ。
「テメェが斬られて血ィ流して! 俺がそれ飲んで回復! 永久機関が完成しちまったなあアア〜! これでノーベル賞は俺んもんだぜええ〜!」
痛みを喜びに変え、狂気を燃料にして悪魔を凌駕する存在。
これこそが、師匠の言っていた「頭のネジがぶっ飛んでる奴」の完成形。
(デンジ君なら…この、最高にネジがぶっ飛んでる男なら、銃の悪魔を殺せるかもしれない)
もし、デンジが銃の悪魔を殺してくれれば。アキ君の復讐が終われば。
そうすれば…。
姫野の心に、仄暗く、ひどく湿度を帯びた希望の火が灯った。それは、愛する者を生かすためなら、他者がどうなろうと構わないという、身勝手で歪んだ狂気だった。乾いた唇が微かに開き、吐息が漏れる。姫野の瞳は、デンジという名の「便利な弾丸」に、ねっとりとした期待を寄せていた。
アザリは、横に立つ女の内に渦巻くその重苦しい情念を、ただ無言で嗅ぎ取っていた。人間という生き物は、かくも容易く壊れ、己の欲望の形に都合よく世界を歪める。
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一体、どれほどの時間が流れたのだろうか。
数時間か、数日か。狂った時計の針はとうに意味を成していなかった。
アキも、パワーも、姫野も、やがて疲労と出血に耐えきれず、隣の部屋で泥のように眠りに落ちていた。崩壊した空間の中で、意識を保ったままこの果てしない殺し合いを見届けたのは、アザリただ一人。
そして、終わりは唐突に訪れた。
あれほど狂暴に暴れ回っていた永遠の悪魔の腕が、ぴたりと動きを止めたのだ。
ぐじゅぐじゅと肉の蠢く音が止み、静寂が降りる。やがて、巨大な肉の壁の中央がゆっくりと割れ、その奥から、どくどくと脈打つ心臓らしき肉塊が、まるで供物のようにそっと差し出された。
『これが、私の心臓です…』『すみませんでした』『もう、痛いの、無理い』『早く、殺してください…』
それは、ただの命乞いだった。無限の力を持っていたはずの悪魔が、永遠とも思える苦痛の反復によって完全に精神を破壊され、すすり泣きながら自らの死を懇願しているのだ。
「ははっ! もう終わりかよ! プール入ってるみてえで、気持ちよかったのによお〜!」
デンジは、哀れな悪魔の降伏をゲラゲラとせせら笑うと、差し出された心臓に向かって、何の躊躇いもなくその轟く刃を振り下ろした。
肉が両断される湿った音。
その瞬間、永遠の悪魔の鼓動が完全に停止した。
歪んでいたホテルの空間が、一気に重力を取り戻す。壁や床を埋め尽くしていた醜悪な肉塊は、どろどろとした塵へと変わり、跡形もなく崩れ去っていった。
後に残されたのは、元の静けさを取り戻した廊下と、全身を赤黒い血と臓物の破片で染め上げたチェンソーマンの姿だけだった。
不意に、けたたましく鳴り響いていたエンジン音が、プスリと途絶えた。
「あり?」
間の抜けた声と共に、デンジの頭部と腕のチェンソーが体内に引き込まれ、元の少年の姿へと戻る。
いくら悪魔の力とはいえ、三日間不眠不休で血を流し続けた体はすでに限界を通り越していた。デンジの体から唐突に力が抜け、前方へと崩れ落ちる。
その倒れゆく体を、アザリは無意識に抱き止めていた。
押し付けられた少年は、ひどく血生臭く、そして重かった。アザリは体温を胸に感じながら、気絶したデンジの寝顔を、ただ静かに見下ろしていた。