「ほら、みんなを起こすの手伝って。とっととここから出よう」
アザリは静かに告げた。その腕の中には、先ほどまで狂ったように悪魔を切り刻み続け、今はもたれかかっているデンジがいる。彼と二人で、眠りこけているメンバーを一人ずつ、揺り起こしていく。
そして、全員で7階の床を踏みしめた時、ようやく元の世界に戻ってこれたと実感できた。頭では永遠の悪魔が死んだと理解していても、その事実が脳の髄まで浸透させるには、この物理的な階層の移動が必要だったのだ。
ホテルを出て外の空気に触れた瞬間だった。張り詰めていた糸が切れたように、デンジの全身から力が抜け、地面へと崩れ落ちる。すかさず、姫野がその体を抱え込んだ。
「ずっと悪魔を殺し続けてたからね…」
姫野の呟きは、先ほどまでの陶酔したような熱っぽさが嘘のように、いつもの先輩としての静けさを取り戻していた。
「アキ君とデンジ君は、私とパワーちゃんで病院に連れてくから。三人は今回の件、本部に報告しておいて」
「わかりました」
アザリは即座に頷き、踵を返す。コベニと荒井もそれに続いたが、二人の足取りは水を含んだ綿のように重かった。俯いたまま、一言も発しない。顔に張り付いているのは疲労だけではない。同僚を殺して自分だけが助かろうとしたという、強烈な罪悪感。それが彼らの足枷となっていた。
公安の本部、特異4課のオフィス。
無機質なスチールデスクが等間隔に並ぶその空間は、今はただひどく冷え切っていた。アザリは自分のデスクの前に立ち、背後で立ち尽くす二人に振り返る。
「報告書は私が書くよ。二人とも、それどころじゃないでしょ?」
「しかし…」
だが、荒井の言葉は続かなかった。ぐっと唇を噛み締め、何かに耐えるように震えた後、深く頭を下げた。
「…すみません。お願いします」
隣のコベニは無言のままだったが、痙攣するように震える小さな肩が、雄弁に彼女の限界を物語っていた。
「今日はもう、帰りなよ。有休、あるでしょ?」
アザリはそれだけ言い捨てると、パイプ椅子を引き、デスクに向かった。背後で二人が逃げるようにオフィスを去っていく気配を感じながらも、視線は手元の用紙に向けたままだった。それぞれが、この地獄のような一夜と己の醜さとの間で折り合いをつけなければならない。
壁掛け時計の秒針が、無遠慮な音を立てて時を刻んでいる。
誰もいなくなった4課のオフィスは、不気味なほど静かだった。アザリは一人、デスクの蛍光灯の下で報告書の作成に没頭していた。永遠の悪魔による空間の切断、仲間たちの精神の摩耗、そしてデンジという規格外のエンジンの始動。記すべき事柄は山のようにあった。
ふと視線を上げると、窓の外はすでに暗くなっており、時計の針はとうに定時を過ぎていた。
「やばっ」
思わず呟いた声は、静かな部屋にむなしく吸い込まれた。すっかり忘れていた。いや、無意識のうちに思考から締め出していたのかもしれない。
「アイツに連絡しないと」
舌打ちを一つして、デスクの上の電話を引き寄せる。ダイヤルを回し、自宅の番号にかける。数回の無機質なコールの後、ガチャリと受話器が上がり――あの聞き慣れた、そして今最もアザリの胃を痛めつける声が鼓膜を打った。
『ご主人様ですか?』
「なぜ名乗る前に分かるんだ」という言葉をアザリは唾液と共に飲み込む。この悪魔には、人間の常識など何一つ通用しない。
「…今日は残業する。もしかしたら帰らないかもしれない」
極力感情を交えず、用件だけを簡潔に告げる。電話の向こうで、悪魔は静かに、しかし流れるような滑らかさで即答した。
『かしこまりました。お夜食などはお持ちしましょうか?』
「いや、それはいい。だって……」
言いかけて、言葉を詰まらせる。そうだ、この悪魔にはまだ、姉である『マキマ』がこの職場にいることを伝えていなかった。もし、夜食などという名目で本部まで来させて、鉢合わせにでもなったら…。考えるだけで吐き気がする。
(…やっぱり、話さないでおくのは面倒臭いな。帰ってから、ちゃんと話すか)
今はとにかく、目の前の報告書を片付けたい。思考を切り替えようとした矢先、電話口から流れる沈黙の質が、わずかに変わったのを感じた。
『…ご主人様?』
静かだが、有無を言わせぬ圧力を伴った声。
アザリの脳裏に、昨夜――永遠の悪魔のせいで体感的には数日前だが――の、あの屈辱がフラッシュバックする。この悪魔を刺激してはならない。
「…理由は、あとで説明する。とにかく…その、別にあなたの忠誠を無碍にしようとしてるわけじゃなくて…。ちゃんと、帰ったら説明するから。ね? お願い」
焦りからか、声が微かに上ずる。主であるはずの自分が、なぜ配下であるはずの悪魔の機嫌を損ねまいと許しを乞うているのか。この歪みきった主従関係の現実に、アザリは内心で自分を罵倒した。
数分にも感じられるやり取りの末、どうにか悪魔をなだめ、通話を切ることに成功した。
ふぅ、と肺の底に溜まっていた空気を全て吐き出し、受話器をガチャンと置いた、その直後だった。
「お疲れ様、アザリちゃん」
背後から、不意にかけられた声。
心臓が肋骨を突き破るかと思うほど跳ね上がった。足音など一切なかった。気配すら、微塵も感じなかった。勢いよく振り返ったアザリの視線の先――そこに、マキマが立っていた。
遅くまで残業する部下を労う、上司としての微笑み。しかし、アザリを見下ろすその瞳には、光を反射するハイライトが一切存在しない。底知れない深淵だけが、そこには口を開けていた。
(いつの間に)
全身の毛穴が一気に開き、嫌な汗が噴き出す。国の中枢に潜り込んでいる悪魔。自分がその正体に気づいていること、そしてその双子の妹である『服従の悪魔』と契約し、同じ屋根の下に囲っていること。どちらか一つでも悟られれば、厄介なことなるのは間違いない。
「荒井君とコベニちゃんは、先に帰したんだって? 優しいんだね」
マキマは、アザリの机の上に置かれた書きかけの報告書に視線を落としながら、静かな声で言った。
「ええ、まあ…。民間にいた頃にある程度はやってたので。私一人でもできるかと思いまして」
アザリは事務的なトーンを崩さず、淡々と答える。そして、この空気を断ち切るため、意図的に話題を逸らした。
「そういえば、デンジのことですが…。彼の力は何なのですか? 普段は人の姿なのに、突然悪魔のような姿に…。あんなの、民間にいた時でも見たことがないです」
その問いに、マキマは初めて、報告書から視線を外した。何かを思考するように、ほんの一瞬だけ伏せられたまつ毛。そして再びアザリを見据えると、その薄い唇がゆっくりと弧を描いた。
「彼については、まだ分かっていないことが多いんだ。でも、君も見たでしょう?」
マキマはアザリのデスクの端に、音もなく軽く腰を掛けた。
「彼の力は、私たちの切り札になり得る」
それ以上は語るつもりはない、という明確な線引き。マキマは立ち上がると、再び微笑みを浮かべた。
「もう遅いからここまでにしよう。続きは明日で大丈夫。無理は禁物だからね」
足音一つ立てず、マキマの姿が廊下の暗がりへと溶けて消えた。
「っ…はぁ…」
椅子の背もたれに深く体重を預け、天井を仰ぐ。心臓が痛いほど脈打っている。ただでさえ、あの顔と声を持つ『服従の悪魔』のせいで、安息の地であったはずの自宅は息の詰まる契約の場に成り果てているのだ。それなのに、職場には支配者がいる。これでは、心が休まる場所がどこにもない。
ただ、提案自体は有り難かった。自分1人で作業していると、なかなか辞めどきが見つからないものだ。荷物を乱暴に鞄に詰め込み、逃げるようにオフィスを後にする。
外の夜風の冷たさが、火照った脳を少しだけ冷やしてくれた。
重い足取りで自宅への道を辿り、見慣れたアパートの扉の前に立つ。鍵穴に鍵を差し込み、極力音を立てないようにゆっくりと回して、中へと滑り込んだ。
室内は真っ暗だった。
その事実に、アザリは小さく安堵の息を漏らした。どうやら、悪魔はもう眠っているらしい。靴を脱ぎ、息を殺しながらリビングへと向かう。
ソファの上。ブランケットにくるまって丸くなる悪魔の輪郭が、窓から差し込む青白い月明かりにぼんやりと浮かび上がっていた。
アザリは、音を立てないように近づき、そっとその寝顔を見下ろす。マキマと完全に瓜二つのその顔は、こうして目を閉じて呼吸をしている時だけは、何の害もないただの美女に見えた。
(家で落ち着けたのは、いつぶりだろうな……)
この無音の空間が、ひどく愛おしく思えた。悪魔を起こさないよう、抜き足差し足でキッチンへと向かう。冷蔵庫を開け、冷たいペットボトルの水を取り出す。この束の間の平穏を、喉の渇きを潤す数秒間だけでも味わっていたかった。
――カチッ。
無機質なスイッチ音が、その静寂を唐突に殺した。
部屋の蛍光灯が一斉に点灯し、白い光が容赦なく網膜を刺す。眩しさに目を細めたアザリの耳に、静かな声が届いた。
「おかえりなさいませ、ご主人様」
振り返った先。
ソファの前に、完璧な姿勢で片膝をつき、右手を胸の前に添えた『服従の悪魔』がいた。
見上げてくるその瞳に、眠気はとうに消え失せ、ただひたすらに、己への新たな命令を渇望する、冷徹で狂気的な光だけが凪いでいた。
平穏終了のお知らせである。
アザリは手にしていた冷たいペットボトルを握りしめ、溜息をついた。