Obedience for You   作:壁達

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15話 チェンソーマン

 

 「今日はお戻りにならないとのことでしたが、帰られたのですね」

 

 マキマと全く同じ声帯から発せられるそれは、ひどく平板で、温度がない。振り返ると、眠りから覚めたはずの服従の悪魔が、まるで最初からそこで待機していたかのように立っていた。主人が予定を覆したことに対する不満も疑問も、そこにはない。ただ「主人が帰還した」という事実のデータ処理が終わっただけだ。

 

 「ああ、まあね。ちょっと予定が変わってさ」

 

 「お夜食をお作りしましょうか?」

 

 まるでアザリの胃袋の空き具合まで可視化されているかのような、完璧なタイミングでの提案。単に命令を待つだけの存在なら、まだ楽だった。彼女は常に主人の挙動をスキャンし、先回りして究極の奉仕を提供しようとする。その息の詰まるような完璧さが、アザリの神経をじわじわと削っていた。

 

 「…お願い。そんなに食欲ないから、腹にたまらないやつで」

 

 脱力感とともにそう答えると、悪魔は静かに頷き、冷蔵庫を開けた。やがて、トントン、トントンと、包丁がまな板を叩く小気味良い音が部屋に響き始める。

 

 アザリはキッチンカウンターの向こうで動く、マキマに瓜二つの背中を見つめた。

 

 今日、職場で本物のマキマと対峙した時の肌寒さが、まだ背中にこびりついている。やはり、早く言ってしまった方がマシだ。

 

 「あのさあ」

 

 トントン、という音が続く中、アザリは意を決して口を開いた。

 

 「前から言おうと思ってて、別に隠してたわけじゃないんだけど…。私の職場に、あんたの姉がいるんだよね」

 

 リズミカルに響いていた包丁の音が止まった。

 

 服従の悪魔の背中が強張る。1、2秒の静寂の後、彼女はゆっくりと、錆びついた機械のように首だけでこちらを振り返った。

 その顔には、先ほどまでの無機質な能面は貼り付いていない。驚愕、不信、そしてわずかな期待が鈍く揺らめいていた。

 

「姉様が…」

 

 その声は、湿気を帯びて微かに震えていた。地獄で彼女の存在のすべてを支配していた、絶対的で唯一無二の存在。

 恐怖と渇望がないまぜになったような濁った瞳を見つめ返しながら、アザリは淡々と続けた。

 

 「それも、ただの職員じゃない。権力の中枢にいる。…ねえ、これってやっぱりヤバいことになりそう?」

 

 不安を隠さずに尋ねると、服従の悪魔は一度視線を床に落とし、長い瞬きの後に顔を上げた。表情は、いつもの冷ややかな服従者のそれに再セットされている。

 

 「…人間社会にとってどのような影響があるか、というご質問ですね。申し上げた通り、姉様は支配する存在です。人間に特別な恨みがあるわけではなく、ただ支配したいだけだと思われます。必ずしも悪い方向に行くとは限りませんが…」

 

 そこで言葉が詰まった。彼女の瞳の奥に、再び暗く、冷たい影が落ちる。

 

 「…世にも恐ろしい存在に傾倒している姉様のことですから、その可能性も否定はできません」

 

 「ああ、そういえば前に言ってたよね。そのせいでマキマのことが分からなくなって逃げ出したって。結局、そいつは何者なの?」

 

 服従の悪魔の唇が、小さく震えた。口を開きかけては閉じ、視線が宙を泳ぐ。それは、思い出すことすら本能が拒絶するような、根源的な恐怖の表れだった。

 やがて、肺に残った空気をすべて絞り出すような、ひどく掠れた声が漏れた。

 

 「最悪の存在です。悪魔を喰らい、その存在をこの世から消してしまう。その名は、チェンソーマン」

 

 チェンソー。

 その単語を聞いた瞬間、アザリの脳裏に、ホテルで狂ったように笑いながら永遠の悪魔の肉を切り刻んでいた、あの血塗れの少年の姿がフラッシュバックした。

 

 「チェンソーって、あのチェンソーだよね? 木を切ったりする…。ウチの職場にも一人、似たようなのがいるけど、関係あるのかな」

 

 カシャンッ!

 

 硬質な音が空気を切り裂いた。

 服従の悪魔の指から滑り落ちた包丁が、床のフローリングを跳ねている。

 

 アザリが見た時、彼女の体は、マキマの存在を聞かされた時とは比べ物にならないほど激しく痙攣していた。顔からは血の気が完全に引き、青ざめている。大きく見開かれた瞳の孔は限界まで収縮し、アザリを凝視していた。

 

 「ご、ご主人様。今、なんと…?」

 

 声の体をなしていない、ひび割れた息の漏れる音。

 アザリは、悪魔の反応に呆然としながらも、見たままの事実を重ねた。

 

 「いやだから、ウチにも一人、チェンソーを使うデンジってのがいるの。普段は人の姿なんだけど、胸の紐を引っ張ると変身して、顔と腕にチェンソーが生えるんだよね」

 

 その言葉が引き金だった。

 服従の悪魔は、まるで糸の切れた操り人形のようにその場に崩れ落ちた。ガタガタと歯の根を鳴らしながら、自らの両腕で頭をきつく抱え込む。

 

「普段は人間…? 地獄での姿とは違う…。別モノ…? でも、姉様がいる。偶然であるはずがない。姉様は、チェンソーマンを追って人間界に…。やはり、姉様は…っ」

 

 もはやアザリへの応答ではなく、パニックに陥った脳内から溢れ出したバグのようなうわ言だった。

 尋常ではない異常事態。さすがのアザリも戸惑い、しゃがみ込んでその震える背中にそっと手を置いた。

 

 「どうしたっての。落ち着いて」

 

 自分でも驚くほど、声のトーンが下がっていた。同情ではない。ただ、得体の知れない何かを覗き込んでしまったような、生理的な不気味さがそうさせた。

 

 「何に怯えてるのか知らないけど、デンジは悪い奴じゃないよ。変身後の姿はちょっと怖いけど、普段はただの純粋なバカって感じだから。あなたの言う『チェンソーマン』とは違うと思う」

 

 しかし、慰めの言葉は、恐怖の底に沈む悪魔の鼓膜には届かない。彼女は頭を抱えたまま顔を上げ、涙と脂汗に濡れた双眸でアザリを見つめ返した。

 

 「…ご主人様は、ご存じないのです。あの存在が、どれほど恐ろしいものか…! 地獄で、私たちがどれだけ…っ!」

 

 (こいつが、ここまで怯えるなんて)

 

 アザリは、収まる気配のない激しい震えを見下ろした。

 仕方なく、正面から彼女の体を抱きしめる。マキマと同じ顔立ちをした、人間よりも遥かに強靭なはずの悪魔の体は、ひどく冷たく、そして華奢だった。

 

 どれくらいの時間が経っただろうか。

 腕の中で震えていた体が、次第に重力を取り戻し、強張りが解けていった。やがて、アザリの肩口に顔を埋めたまま、くぐもった声が聞こえた。

 

 「…申し訳、ございません。私としたことが、取り乱してしまい…ご主人様のお手を、煩わせるようなことを…」

 

 その様子は、出会ったばかりの廃屋で見せた、あの死にかけの小動物のような弱々しい頃にそっくりだった。

 普段、隙あらば完璧な服従をしてくるあの息苦しさはどこへ行ったのか。こうも脆い姿を見せられると、不思議と世話を焼きたくなる衝動が湧いてくる。

 

 (甘いな、私)

 

 内心で小さく自嘲しながら、アザリは腕を解いた。体を離した服従の悪魔の顔には、まだ恐怖の残滓がべったりと張り付いている。

 

 「今日は…休ませていただけないでしょうか。このままでは、お役に立てそうもありませんので…」

 

 「いいよ。寝な」

 

 短く答えると、悪魔はふらつく足取りでリビングのソファへ向かい、そのまま力なく横たわった。ブランケットを引き寄せ、胎児のように体を丸める。少し前までエプロン姿で夜食の提案をしてきた冷徹な従者の面影は、どこにもなかった。

 

 アザリは立ち上がり、キッチンの床に落ちたままの包丁を拾い上げた。まな板の上に放置された野菜を無造作にタッパーに詰め、冷蔵庫に放り込む。

 静まり返った部屋には、ソファから聞こえる、か細く不規則な寝息だけが落ちていた。

 

 (チェンソーマン…)

 

 キッチンのシンクに寄りかかりながら、アザリは天井を見上げた。

デンジ。あの少年が、地獄の悪魔たちを恐怖の底に叩き落とした「最悪の存在」だとは思えない。

 だが、服従の悪魔のあの怯え方は本物だ。そして、マキマ。

 

 公安。マキマ。デンジ。そして、自宅のソファで震えて眠る服従の悪魔。

 別々に転がっていたはずの点と点が、赤黒い血の糸で縫い合わされていくような感覚。

 

 小さく息を吐き出し、アザリはリビングの電気を消した。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 意識がゆっくりと浮上する。アザリはベッドの上で、重い瞼を開いた。

 

 窓から差し込む朝の光が、剥き出しのフローリングを白く、寒々しく照らしている。昨夜は、脳内で複雑にもつれ合った思考の渦に引きずり込まれ、いつの間にか意識を失っていた。まともな記憶はないが、服従の悪魔が自分をここまで運んでくれたのだろう。

 体を起こすと、首筋がピキリと凝り固まった音を立てた。アザリはそれを無造作にさすりながら、ベッドから足を下ろし、リビングへ向かう。そこには、網膜に焼き付いたいつもの光景があった。

 

 キッチンに佇む服従の悪魔が、流れるような動作で朝食の準備を進めている。トーストの焼ける香ばしい匂いが、狭い部屋の空気を満たしていた。一晩が経ち、昨夜アザリの口から「チェンソー」の名を聞いた時の狂乱は、一応の収束を見せたらしい。

 

 しかし、その背中をじっと見つめていると、明らかな違和感があった。バターを塗る手元、皿を並べる足取り。かつて彼女が持っていた、マキマそっくりの完璧で流麗な模倣は影を潜め、どこか歯車が噛み合わない機械を思わせるぎこちなさが滲み出ている。

 

 「おはよう」

 

 アザリが声をかけると、服従の悪魔の肩がびくりと跳ね上がった。振り返ったその顔には、隠しきれない疲労の影と、皮膚の裏側に張り付いた微かな怯えが残っている。

 

 「…おはようございます、ご主人様」

 

 食卓に着く。差し出されたプレートは、いつも通り見事な焼き加減のトーストと目玉焼きだった。

 しかし、二人の間に漂う空気は、ひどく重く、粘り気がある。食事中、フォークが皿に当たる金属音だけが響いた。

 

 食事を終え、スーツに袖を通す。身支度を整えて出勤しようと玄関のドアノブに手をかけた時、背後から声をかけられた。

 

 「ご主人様」

 

 振り返ると、服従の悪魔が直立不動で立っていた。その表情には、奇妙なまでの真剣味が宿っている。

 

 「姉様と、その…デンジという者には、くれぐれもお気をつけください」

 

 それは彼女の腹の底から湧き上がった、純粋な恐怖による切実な忠告であった。マキマと同じ瞳が、今はただ、目の前の主人の身を案じる色だけで満たされている。

 

 「…うん」

 

 アザリは短く応え、その言葉を脳の隅に留めた。扉を押し開け、朝の生ぬるい喧騒の中へと足を踏み出した。

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