Obedience for You   作:壁達

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マキマ襲撃編
16話 決意


 

 公安特異4課の執務室。アザリがデスクで書類の山を整理していると、不意に上から影が落ちた。

 

 「今週の水曜、4課メンバーで飲み会があるらしい。出るか?」

 

 見上げると、早川アキが立っていた。いつも通りのぶっきらぼうな声。だが、その声のトーンは、どこか浮ついた、妙に軽い響きを孕んでいるようにアザリの耳には届いた。

 

 「飲み会、ですか」

 

 「ああ。仲間も増えたことだし、新歓みたいなもんだ」

 

 「行きます」

 

 アザリは二つ返事で頷いた。断る理由がない。公安の内部、それも特異4課という異常者の集まりの人間関係を観察するには、酒の席はこれ以上ない舞台だ。特に、底の知れないマキマと、チェンソーの心臓を持つというデンジ。アルコールが入れば、どんなに繕っていても何かしらのボロが出るはずだ。

 

 「日付は水曜日なんですね。華金じゃなくて」

 

 ペンを止め、ふと浮かんだ疑問を口にする。アキは視線をアザリから外し、部屋の窓の向こう、遠くの空を見つめた。

 

 「マキマさんが木曜から京都出張なんだ。飲むなら、是非マキマさんと飲みたい」

 

 アキははっきりとそう言った。その目は、ただの上司に対する敬意や憧れで説明できるものではなかった。もっと個人的で、熱を帯びた、盲目的な何かが瞳の奥で揺れている。

 

 (早川先輩はてっきり、姫野先輩と何かあるのかと思ってたけど…)

 

 アザリは手元の書類に目を落とす。この課の人間関係のベクトルは、外から見ている以上に複雑で、そして歪んでいる。しかし、よりによってマキマか。デンジもあの女に骨抜きにされていた。あのマキマという女は、男を狂わせる特殊なフェロモンでも分泌しているのだろうか。

 

 (…あの女が『悪魔』だって知ったら、この人たちはどんな顔をするんだろうな)

 

 アザリは心の中で冷ややかに呟き、カサカサと音を立てる書類の整理に戻った。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 その夜。帰宅したアザリは、キッチンで夕食のスープをかき混ぜている服従の悪魔の背中に、予定を告げた。

 

 「今週の水曜、職場の飲み会になったから。帰りは遅くなる」

 

 トントン、と小気味よく響いていた包丁の音が、ピタリと止まった。服従の悪魔が、ゆっくりとこちらを振り返る。

 

 「…その飲み会には、姉様も?」

 

 「ああ。ちなみに、マキマのために水曜になったらしい。木曜から京都に出張なんだってさ」

 

 その言葉がリビングに落ちた瞬間、服従の悪魔の顔から一切の表情が消えた。

 あの日以来、彼女は少しずつ普段の冷静さを取り戻しつつあるように見えたが、それはただの張子の虎に過ぎなかった。マキマ、そしてチェンソーマン。その二つの単語は、彼女の精神の根底を今なお鋭く抉り続けている。

 

 「…そう、ですか。姉様が、京都へ…」

 

 服従の悪魔は、何かを計算するように視線を落とし、そのまま彫刻のように黙り込んでしまった。

 食卓に料理が並んでも、その沈黙は破られない。彼女は目の前の皿にほとんど手を付けず、ただ箸を握ったまま、虚空の一点を見つめて深い思考の底に沈んでいた。

 

 部屋の中に、重苦しい静寂が堆積していく。

 服従の悪魔の瞳に、冷たく鋭い光が宿る。やがて、彼女は滑らかな声で、ぽつりと言った。

 

 「京都ということは、おそらく新幹線での移動ですよね? では、長い時間、ほとんど密閉された車内に居続けることになる」

 

 その声は驚くほど落ち着いており、冷徹なトーンを帯びていた。アザリは嫌な予感を覚えながらも、スープを飲み干して相槌を打つ。

 

 「まあ、普通はそうなんじゃない?」

 

 アザリの返事を聞くと、服従の悪魔は再び数秒の沈黙を挟んだ。そして、何か大きな決断を下したかのように、まっすぐにアザリの目を射抜いた。その瞳には、かつて地獄でマキマの影として君臨していた頃の、冷徹な悪魔の光が完全に蘇っていた。

 

 「ご主人様。私と一緒に、その新幹線に乗っていただけませんか」

 

 「 何、急に」

 

 唐突すぎる提案に、アザリは眉をひそめる。

 

 「私もその日は仕事があるし、第一、乗ってどうするの」

 

 「姉様を捕まえます」

 

 淡々とした、しかし寸分の揺らぎもない確信に満ちた声だった。アザリは一瞬、自分の耳がバグったのかと思った。

 

 「はっ!?」

 

 思わず椅子を蹴立てて立ち上がりそうになるのを、テーブルの縁を掴んで強引に抑え込む。

 

 「待って、話が全然見えてこない。何を言ってるの?」

 

 「このままチェンソーマンを野放しにはできません。しかし姉様が健在である限り、チェンソーマンに何か仕掛けようものなら、即座に姉様の力で防がれるでしょう。ですから、まずは姉様から無力化する必要があります」

 

 彼女は、なんてことはない平坦さで、常軌を逸した作戦計画を口にし続ける。

 

 「だから待ってってば! チェンソーマンに何か仕掛けようものならって…デンジに何かするつもり?」

 

 混乱する脳味噌を必死に駆動させ、アザリは言葉を絞り出す。服従の悪魔は、その問いに対して、呼吸を乱すこともなく答えた。

 

 「最終目標は、そうです。チェンソーマンを殺します」

 

 部屋の空気が、一瞬で凍結した。

 アザリは、目の前に座る女が、数日前まで怯えていた悪魔と同一の存在だとは信じられなかった。その名を耳にしただけでパニックを起こしていた怪物を、今、彼女は「殺す」と断言している。

 その瞳に、もう恐怖の破片は残っていない。そこにあるのは、絶対的な覚悟と、氷の下で静かに燃える殺意だけだ。

 この悪魔は本気だ。本気でマキマの裏をかき、チェンソーマンの首を獲るつもりだ。

 

 服従の悪魔はアザリの混乱を置き去りにしたまま、淡々と、しかし確かな熱量を持って持論を展開していく。その姿は、すでにただの従者ではない。明確な目的を持った一匹の「悪魔」のソレだった。

 

 「姉様の支配の力は強力です。しかしそれは、強力な手下を周囲に配置できる環境があってこその話。同行者が限られる出張中の新幹線であれば、話は変わってきます。そこを突くのです」

 

 「ちょっと待って。まだあんたの話に乗るとは言ってないよ。 大体、デンジが本当にチェンソーマンかどうかも、確定したわけじゃない」

 

 アザリは必死に反論の糸口を手繰り寄せる。この狂気じみた計画の濁流に、そのまま押し流されるわけにはいかない。

 

 「いいえ。あの日以降、私も考えましたが、同じ名を冠する悪魔は二つとして存在しません。頭と手からチェンソーを生やし、身体能力を爆発的に引き上げる。そんな芸当、チェンソーマン以外にできるはずがありません。経緯は不明ですが、何らかの理由で弱体化しているのでしょう」

 

 彼女の言葉は、恐ろしいほどに辻褄が合っていた。

 弱体化。その発想はアザリにはなかった。もしそれが事実なら、あの地獄を恐怖で支配した怪物が、今はただの無防備な少年の皮を被っているということになる。そして、だからこそマキマは彼を公安という檻に入れ、手元で管理しているのではないか。

 

 アザリは返す言葉を失った。

 服従の悪魔の計画は、あまりにも大胆で、無謀で、狂っている。だが、その根底にある理論には、無視できない説得力が刺さっていた。マキマを捕らえる。チェンソーマンを殺す。それはこの悪魔にとって、恐怖からの永続的な解放であり、同時に、狂ってしまった大好きな姉を元の形に修復するための、唯一の手段なのかもしれない。彼女はただ怯えていただけではなかった。暗闇の底で、虎視眈々と反撃の刃を研いでいたのだ。

 

 「本気なんだね」

 

 乾いた声が、アザリの喉から漏れる。

 

 「ええ。私は、本気です」

 

 服従の悪魔は静かに、しかし深く頷いた。その瞳には、もう一片の迷いもない。これは彼女の戦いだ。かつて心酔し、今は道を違えた姉との。そして、地獄を蹂躙した怪物との。

 

 

 「ご主人様にも、是非ご参加いただきたいのです。姉様を確実に無力化するためには、ご主人様が契約している『ガスの悪魔』の力が必要不可欠ですから。新幹線という密閉空間なら、なおさら効果的です」

 

 彼女の視線が、アザリの皮膚をじりじりと灼く。そこには協力を求める色と、断らせないという強固な意志が混ざり合っていた。

しかし、次の瞬間、彼女はふっと表情の険を抜き、視線をわずかに伏せた。

 

 「…ただ、今回のことは、完全に私の私情によるものです。ご主人様の目的やご都合を無視した提案であることは、理解しております。もし、参加しないとおっしゃるのであれば、私はそのご意志を全面的に尊重いたします」

 

 その言葉は、奇妙なほど誠実で、そして歪んでいた。

 狂気に満ちたテロ計画を口にする悪魔と、主の意志を至上とする忠実な僕。二つの矛盾した顔が、彼女の中で激しくせめぎ合っている。

 アザリは、目の前の女の真意を測りかねて、ただ呆然とするしかなかった。

 

 この提案に乗れば、公安を、マキマを、そして下手すればこの国そのものを敵に回すことになるかもしれない。だが、断れば、彼女は一人で、マキマに刃向かうだろう。ただ失敗に終わってくれるならまだしも、捕まって、自分との繋がりを暴露される恐れがある。

 

 (どうする…どうすればいい…)

 

 脳内で、最大光量の赤信号が点滅している。断れ、と。こんな馬鹿げた自殺志願者の片棒を担ぐな、と。

 しかし、その警報の裏側で、冷え切っていた自分の心が、トクトクと嫌な高鳴りを上げているのをアザリは自覚していた。

 

 アザリは、肺の中の空気をすべて吐き出すように、長く、深い息をついた。今この場で、サイコロを振ることはできない。

 

 「…一晩、考えさせて」

 

 それが、アザリの絞り出せる限界の猶予だった。服従の悪魔は、その答えを静かに噛み締めるように受け止める。

 

 「…かしこまりました」

 

 彼女は小さく一礼すると、何事もなかったかのように、カチャカチャと音を立てて皿の片付けを始めた。その背中からは、もう何の感情も読み取ることはできない。

 夜のリビングには、陶器と金属が擦れ合う、乾いた音だけが規則的に響いていた。

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