夜は深海のように重く、部屋の明かりを消しても、アザリの脳裏のスクリーンは明滅を止めなかった。ベッドの縁に腰掛け、冷たい月光が床に描く四角い枠をじっと見つめる。眠気はどこか遠くへ消え去っていた。
窓の外を見つめながら、数時間前に服従の悪魔が口にした言葉を、何度も頭の中で噛み砕く。
正気ではない。どう考えても、その賭けに乗るべきではなかった。相手この国の最高権力に近い場所にいる存在だ。
表向きは物静かな人間に擬態しているが、その内側に潜むのは「支配の悪魔」。一個人が気まぐれに喧嘩を売っていい相手ではない。
だが、耳の奥で服従の悪魔の掠れた声がこびりついて離れない。
もしも。もし、あの悪魔の言葉がすべて事実なら。マキマが「チェンソーマン」の狂信的な追っかけで、弱り切った彼を自分の飼い犬にしようと画策しているのだとしたら。
その先にある目的は何だ。ただの歪んだファン心理で、憧れのアイドルを傍らに置いて愛でたいだけなのか。それならまあ、勝手にしてくれという話だ。
だが、もし彼女の狙いが、チェンソーマンを全盛期の姿に戻すことだとしたら。
背筋を冷たい指でなぞられたような悪寒が走った。地獄が恐れた無慈悲な屠殺者が、この人間界に解き放たれる。そしてその手綱を、万物を支配する悪魔が握る。それは世界の終わりを告げる舞台の幕開けだ。それだけは、何が何でも阻止しなくてはならない。
しかし、本当にデンジを殺すべきなのだろうか。
出会ってからの短い日々が脳裏をよぎる。永遠の悪魔の腹の中で、血を撒き散らしながら笑っていた少年の姿。単純で、食い気と色気だけで動く、手のつけられない獣。
だが、彼は悪人ではない。むしろ、あまりにも純粋だからこそ、誰にでも都合よく利用されてしまうのだろう。そんな少年を、自分たちの都合で殺めてしまっていいのか。
思考の迷路は堂々巡りを繰り返し、やがてアザリは、ひとつの妥協点に足を止めた。
(…ひとまず、デンジを殺すのは保留だ)
まずはマキマを無力化すること、それだけに思考を絞ればいい。デンジが本物のチェンソーマンなのか、その確証はまだない。だが、マキマが悪魔であることは、服従の悪魔の存在が何よりの証明だ。
公安のデビルハンターとして、社会を脅かす危険な悪魔を秘密裏に無力化する。それは至極全うな職務だ。これは私情ではない。正当な仕事の一環なのだ。
捕らえたマキマの口から直接すべてを聞き出せばいい。彼女が何を企み、デンジをどうするつもりなのか。すべての結び目は、そこで解けるはずだ。
そう結論づけると、胸の支えが少しだけ軽くなった。自分は服従の悪魔の狂った心中につきあうわけではない。己の目的のために、彼女の用意したレールを利用するだけだ。契約解除の糸口、デンジの正体、そして世界の破滅の回避。アザリは窓から差し込む青白い月光を浴びながら、静かに、奥歯を噛み締めた。
翌朝、容赦のない朝日がダイニングを照らしていた。アザリは湯気の立つコーヒーカップを両手で包み込み、テーブルの向かい側に座る服従の悪魔を見据えた。
彼女はすでに寸分の乱れもない身支度を整え、微動だにせず、主の唇が動くのを待っている。
「…マキマの捕獲には協力する。だけど、デンジを殺すのは待ってほしい。捕まえたマキマから話を聞いて、それからどうするか決めたい」
一晩かけて絞り出した言葉を、硬い声で告げる。服従の悪魔の、ガラス細工のように精緻な顔が、わずかに動いた。
「…かしこまりました。お受けいただけて、本当に嬉しいです」
彼女は深く頭を下げた。その声の底には、深い安堵と、かすかな、だが確かな悦びの色彩が混じっていた。アザリはその思いがけない生々しい反応に一瞬気圧されながらも、引き返せない一歩を踏み出した事実を噛み締めていた。
「では、作戦の確認を」
服従の悪魔は、細くしなやかな指先で、新幹線の座席表をテーブルに広げ、一点をトントンと叩いた。
「まず、姉様が座る車両の乗客を、姉様の席から離れた位置からガスで眠らせていきます。姉様が前方にいるなら後方から、というように。そうして車両と廊下の通行量を削り、実質的な密室を作り上げます。」
淡々とした口調が続く。
「最後に、姉様の座席近くで高濃度のガスを撒き、完全に眠らせる。拘束した後は、身体を用意したケースに収めます。他の乗客は眠らせているので、目撃される恐れはありません。…何か、ご質問はありますか」
「席が空いていなかったら? マキマたちが座るのは指定席でしょ。もし満席だったら、指定席の車両でずっと立っていることになる。不自然だよ」
「今は観光シーズンというわけでもないので、平日の朝の新幹線なら、空席はそれなりにあるはずです。…最悪の場合は、力ずくでどかします」
その言葉には、道端の邪魔な小石を蹴り飛ばすかのような感情の欠如があった。
「もうひとつ。ガスの悪魔のガスは無色透明だけど、わずかに特有の臭いがする。それで気づかれる可能性はないの?」
「それについても、対策は済んでいます。ご安心を」
服従の悪魔は衣服のポケットから、小さなガラス製のアトマイザーを数本、テーブルの上に並べた。中には、それぞれ異なる淡い色彩の液体が揺れている。
「香水です。これを事前に、車両のいくつかのポイントに散布しておきます。複数の強い香りを意図的に混ざり合わせることで、ガスの微かな異臭を完全にカモフラージュする。姉様は嗅覚が鋭いですが、ここまで臭いの情報を飽和させれば、ガスの存在を特定するのは不可能なはずです」
完璧な計画。彼女がこの瞬間のために、どれほどの時間を費やし、どれほどの怨念を煮詰めて脳内でシミュレーションを繰り返してきたのだろうか。
この計画は、すでに自分の手を離れている。服従の悪魔の執念そのものが、ひとつの生き物のように脈打ち、這い回り始めている。あとは、明日という日に、その引き金を引くだけだった。