怪しまれないように新歓の場をやり過ごし、そして、計画の当日がやってきた。
まだ薄暗い早朝。アザリは湿った手で電話を握り、早川アキの番号を発信した。数回の無機質なコール音の後、ひどく掠れた、不機嫌そうな声が繋がる。二日酔いの頭痛が受話器越しに伝わってくるような声だった。
「アザリです! 急に申し訳ないんですけど、田舎の祖父が危篤だって連絡が入って!なので、今日急遽お休みをもらいます! すみません、失礼します!」
アキが何かを言い返す隙など微塵も与えず、嵐のように言葉を叩きつけて、通話を強制終了した。胸の奥に苦い罪悪感が広がるが、それを味わっている余裕はない。
すぐ隣には、すでに完璧に変装を終えた服従の悪魔が佇んでいた。ロングコートの襟を立て、大きな帽子を深く被り、サングラスとマスクで顔のパーツを完全に埋めている。アザリも同じように気配を消す衣服に着替え、二人は音もなくアパートの扉を閉めた。
東京駅の喧騒は、朝だというのに押しつぶされそうなほど巨大だった。行き交う無数の人間の波、その靴音が床を叩く不協和音。その雑音に紛れながら、二人は指定された新幹線のホームへと滑り込む。
やがて、マキマが現れた。その後ろには、仕立ての良いスーツを着た、公安の職員らしき男が一人、従っている。二人は短い言葉を交わしながら、静かに乗車口へと吸い込まれていった。
その背中を網膜に焼き付けたアザリと服従の悪魔は、数分間の呼吸を置き、別の車両から音もなく乗り込んだ。
計画通り、マキマたちが座る指定席車両から数列離れた、死角となる座席に深く腰を下ろす。服従の悪魔が、香水のアトマイザーを忍ばせた手で、何食わぬ顔をして通路を歩き、トイレへと向かった。数分後、彼女が戻り、アザリの隣に座る。それが作戦開始の合図だった。
アザリは浅い息を吐き、目を閉じて意識を鋭らせ、ガスの悪魔の力を使う。
まずは車両の後方から。ごく微量の、睡眠ガスを、車内の空調システムに優しく乗せて拡散させていく。それは刃物のような即効性はない。じわじわと、乗客たちの意識の境界線を曖昧にしていく。
「なんだか…香水キツくないですか、この車両」
マキマの同行者が、不快そうに鼻をすすりながら眉をひそめている。計画通りだ。複数の香料が複雑に絡み合い、ガスの特有の臭いを完全に覆い隠している。
「どうします? 自由席の方に移動しましょうか」
おい余計なことを言うな。今動かれれば、ガスの濃度計算も、密室の構築もすべてが瓦解する。
「鉄道会社の規則で、自分が購入した座席以外に座ることは禁じられていますから。我慢しましょう」
マキマの声だった。
知らなかった。そんな厳格なルールがあったとは。流石はマキマさんだ。支配を司る悪魔だけあって、人間が作った細かい規則にまで、よく通じていらっしゃる。
だがその良識が自分の首を絞めることなるとは、夢にも思っていないだろう。
チラリと視線を巡らせると、作戦は目に見えて成果を上げていた。周囲の座席の乗客たちが、一人、また一人と頭を垂れ、こくりこくりと船を漕ぎ始めている。次第に、車内には規則正しい、深い寝息が満ちていく。
よし。このままいけばいい。人間の出入りが途絶えれば、デッキの自動ドアが開閉する回数も激減し、ガスの濃度はより効率的に、濃密に高まっていく。
(あれ? これ、上手くいったのでは…?)
作戦を開始する前は、心臓が肋骨を突き破って飛び出しそうなほどの恐怖と緊張に、全身の毛穴が開ききっていた。だが、目の前でパズルのピースが完璧に嵌まっていく光景は、アザリの胸の奥に、じわりと熱い高揚感をもたらし始めていた。
そんな、アザリの意識がほんの一瞬だけ緩んだ、その直後だった。
轟音。
新幹線が巨大なトンネルへと突入し、車窓の景色が一瞬で、底のない闇に塗りつぶされる。
その闇の到来と同時に、マキマの座席の方向から、乾いた破裂音が車内に響き渡った。それは、ひどく不自然でくぐもった音だった。
さらに数発の、連続した硬い音が鼓膜を叩く。アザリは、何が起きたのかを理解する前に、反射的に首をそちらへ巡らせた。
そして、網膜に映った光景に、息が止まった。
いつの間にそこに現れたのか、地味な私服に身を包んだ男たちが四人、立っていた。彼らは拳銃を保持し、マキマと同行者の座席を取り囲んでいる。
その銃口からは、細く、白い硝煙が蛇のように立ち上っていた。
一瞬の出来事だった。銃声が響いてから、わずか数秒。彼らの四肢の動きには、一切の躊躇も、無駄な揺らぎもなかった。すでに「それ」は終わっていた。
ガスによって深い眠りに落ちていた周囲の乗客たちは、その至近距離の銃声にすら意識を覚まされることなく、安らかな寝息を立て続けている。
アザリは喉の奥で息を呑んだ。隣の座席に座る服従の悪魔を見れば、彼女もまた、サングラスの奥にある瞳を限界まで見開いているのが分かった。
これは、自分たちのシナリオには存在しない、完全に計算外の乱入者たちだった。彼らは一体何者だ。なぜマキマを狙った?
全身の血液が、足元から一気に引いていくような感覚。順調に、完璧に進んでいたはずの計画の歯車は、突如として割り込んできた第三者の暴力によって、根底から粉砕された。