Obedience for You   作:壁達

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19話 再会

 

 アザリがその最悪の状況を脳内で処理しきるよりも早く、隣の空間が、文字通り爆ぜた。

 次の瞬間、隣の席に服従の悪魔の姿はなかった。あまりの衝撃に頭上から滑り落ちた変装用の帽子とサングラスだけが、虚しく残されている。

 彼女は思考ではなく、純粋な感情の爆発のままに新幹線の床を蹴ったのだ。その身体は一本の黒い、濃密な残像となり、数メートルの距離を一瞬で消滅させて襲撃者たちへと突進した。

 

「こちらC班、こちらC班、作戦――」

 

 無線機を口元に寄せ、淡々と状況を報告しようとした男の言葉は、そこで途切れた。

 

 服従の悪魔の、速度を乗せた蹴り。それが、報告していた男ともう一人の身体を捉えた。人間の肉体とはこれほど脆いものだったかと思わせるほど簡単に、二人の身体はへし折れ、車内の壁へと吹き飛ばされた。

 残された二人の襲撃者は、目の前で起きた超人的な光景に一瞬だけ思考を硬直させたが、即座に銃口を跳ね上げ、突進してくる服従の悪魔に向けて連続して引き金を引いた。

 

 だが、その弾丸が彼女の肉体に届くことはなかった。

 服従の悪魔は、先ほど蹴り飛ばした男のひとりの襟髪を軽々と掴み上げ、それを肉の盾として自分の前に掲げたのだ。

 人間の肉を硬い弾頭が穿つ、鈍く湿った音が連続する。すべての弾丸をその肉に吸わせたことを確認すると、彼女はその血塗れの肉塊を残る二人の襲撃者に向けて投げつけた。

 

 放たれた死体は正確に襲撃者たちの胸を叩き、二人はなぎ倒され、床に激しく叩きつけられた。

 一人が呻き声を上げ、衝撃で歪んだ顔を上げて起き上がろうとする。だが、服従の悪魔はその頭上から、一切の慈悲を排した速度で踵を垂直に振り下ろした。

 

 熟れきった果実を、頑丈なブーツで踏み潰した時のような嫌な音が車内に響き渡る。

 

 そして彼女は、もう一人の生き残りの首根っこを指先で鷲掴みにした。そのまま、新幹線の壁に向けて、何度も、何度もその頭部を叩きつけ始める。

 

 ガッ、ガッ、ガッ。

 鈍く、重い衝撃音が、車内の静寂を一定の脈拍で刻んでいく。

 

「よくも…! よくも姉様を…!!」

 

 その声は、怒りと激しい憎悪で激しく震えていた。

 首を掴まれ、頭部から血を流す襲撃者は、意識を失いかけながらも、信じられないものを見る目で視線を彷徨わせ、弱々しく呻いた。

 

「な、何で…! 俺たちは、確かに殺したはずなのに…! なぜ、お前が…!」

 

 男は、目の前で鬼の形相浮かべて自分をいたぶるこの女を、今しがた自分たちが蜂の巣にしたはずの標的――マキマ本人だと、完全に誤認しているようだった。

 

 アザリはその場から一歩も動けず、ただ指先まで凍りついていた。

 計画は、最悪の形で瓦解した。ターゲットのマキマは死に、その双子の妹は感情のままに暴走して、車内を地獄絵図に変えている。そして、その妹は、死んだはずの標的と全く同じ顔をしているがゆえに、襲撃者たちに混乱をもたらしている。

 あまりにも情報量が多すぎた。頭の中の回路が焼き切れ、真っ白になり、次に自分がどう動くべきなのか、その答えがどこを探しても見つからなかった。

 

 持ち主を失い、血の海に転がった無線機が、床の上で虚しくノイズを吐き出しながら叫び続けていた。

 

『おい、C班! どうした、応答しろ! 作戦開始か? おい!』

 

 その焦燥に満ちた男の声は、この死臭の漂い始めた静寂の車両の中で、異様なほど大きく響き渡る。

 

 服従の悪魔は、まだ首を掴んで壁に押し付けている襲撃者から、ゆっくりと視線を外した。そして、床に転がる無線機を静かに持ち上げた。

 

「お前たちの仲間は、今、全員死んだ。次はお前の番だ」

 

 彼女の声は、極低温の氷の刃のようだった。無線機の向こう側にいるであろう男の心臓を、電波越しに直接握りつぶすかのような冷徹さ。

 

『!? 誰だテメェ!』

 

 狼狽し、裏返る声。服従の悪魔は、その醜い反応を心底楽しむかのように、薄い口の端を微かに吊り上げた。

 

「お前だけではない。他にもまだ、仲間がいるのだろう? そいつらも、全員殺す。お前たちの親類縁者も、友人も、関わった人間を一人残らず、みんな殺してやる。覚悟しておけ」

 

 それは、安っぽい脅迫の類ではなかった。彼女という悪魔なら、本当にそれを実行する。その確信を抱かせるだけの意志が、その言葉には込められていた。

 言い放つと同時に、彼女は無線機を床に放り投げた。

 そして再び、首を掴んだままの、息も絶え絶えな襲撃者へと、その燃え盛るような瞳を向けた。

 

「お前たちの組織のすべての仲間を教えろ。情報を吐かなければ、5秒ごとにお前の皮を、一枚ずつ剥いでいく」

 

「ひっ…! か、勘弁してくれ! 俺は、指示されただけで、何も…!」

 

 男がその惨めな命乞いを言い終えるよりも早く、ブチリ、と、生々しく肉が引き裂かれる音がした。

 服従の悪魔の細い指先が、男の頬の肉に深く突き立てられ、躊躇なくその皮膚を剥ぎ取ったのだ。

 

「ぎゃあああああああああああっ!!」

 

 男の絶叫が、新幹線の車内に木霊する。

 幸いと言うべきか、アザリが事前に散布しておいたガスの効果によって、大半の乗客は昏睡状態にあり、この世のものとは思えない悲鳴にも反応しない。起きていた数名も、目の前の凄惨な光景と血の匂いに圧倒され、ショックで意識を失ったのか、あるいは恐怖で声も出せずに固まっているのか、大きなパニックには発展していなかった。

 しかし、このままでは本当に取り返しのつかないことになる。アザリは、目の前で繰り広げられる血生臭い拷問に、ようやく凍りついていた思考を無理やり叩き起こした。このまま彼女を放置すれば、この男を肉塊に変えた後、彼らの組織を根絶やしにするために、殺戮の嵐を起こしかねない。

 

 止めなければ、とアザリが足を前に踏み出そうとした、その時だった。

 

 拷問される男の、鼓膜を裂くような悲鳴と、それを行う悪魔の冷酷な息遣いだけが支配していたその空間に、凛とした、場違いなほど透き通った声が滑り込んできた。

 

「久しぶりだね、カイナ」

 

 アザリも、怒りと憎悪に身を焦がしていた服従の悪魔も、そして頬を血に染めて泣き叫んでいた襲撃者の男さえも、一斉に声のした方向へと首を向けた。

 

 マキマが、立っていた。

 

 アザリは、自分の眼球が捉えている現実を信じることができなかった。咄嗟に前の座席の影に身を隠しながら思考を回転させる。

 どういうことだ。わけがわからない。

 

 彼女は確かに、至近距離から四丁の拳銃による集中銃撃を浴び、脳や胸を撃ち抜かれ、血の海に沈んでいたはずだ。現に、彼女が身に纏っている黒いスーツの背中や胸には、無数の弾痕の穴が開き、そこから流れ出たおびただしい量の鮮血が、生地を不気味な赤黒さに染め上げている。

 しかし、マキマはふらつく様子も、苦痛の表情も一切見せず、ただ至って普通に、静かにそこに佇んでいた。いつもと変わらない穏やかな微笑みすら浮かべて。

 

「なあっ…!何なんだ! 何なんだお前は!」

 

 拘束されていた襲撃者の男が、ついに理性の限界を迎えてパニックを起こし、絶叫した。自分たちが確実に、命の灯火を消し去ったはずの標的が無傷で背後に立ち、そして、その標的と寸分違わぬ顔をした別の女が、仲間を薙ぎ倒した。常軌を逸したその不条理の連続に、彼の精神は完全に崩壊しかけていた。

 

 そして、それは服従の悪魔も同じだった。

 いや、彼女の胸を穿った衝撃は、襲撃者のそれよりも遥かに深く、重いものだったはずだ。あれほどまでに激しく燃え盛っていた襲撃者への殺意と怒りは綺麗に消え失せ、彼女はただ呆然とマキマを見つめていた。その薄い唇が、小刻みに震えている。

 アザリもまた、声を失っていた。死んだはずのマキマが、生きている。その光景を前に、計画の失敗という事実すら頭の中から吹き飛んでいた。

 

 マキマは、ゆっくりと歩みを進める。

 一歩、また一歩と、血に濡れた床を踏み鳴らしながら近づいてくるにつれて、彼女が放つ、目に見えない巨大な圧迫感が、車内の酸素を希薄にしていく。

 彼女の瞳は、転がる死体にも、叫ぶ襲撃者にも、一切の興味を示さなかった。

 服従の悪魔――カイナにだけ、その視線を真っ直ぐに注いでいた。

その瞳の奥底には、再会に対する、狂おしいほどの歓喜と、底の知れないドロドロとした執着が、渦を巻いて輝いていた。

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