アザリが数歩踏み出したところで、背後からおずおずとした声がかけられた。
「あ、あのう…ご主人様。大変申し訳ないのですが…わ、私の姿を隠せるような、大きな布みたいなものは、ございませんでしょうか…?」
振り返ると、悪魔は自分の身体を抱きしめるようにして、不安げな表情で立ち尽くしていた。その言葉に、アザリは思わず眉間を揉む。
「ど、どうしても、見られるわけには…いかないので…」
まただ。さっきから繰り返している「見つかる」という言葉。一体、何にそこまで怯えているのか。悪魔のくせに、ずいぶんと肝の小さいやつだ。
内心で毒づきはしたものの、契約した手前、完全に無視するわけにもいかない。主として「存分に使う」ことが条件なのだから、この程度の我儘は聞いてやらねばならないのだろう。面倒くさい、と出かかった舌打ちをなんとか飲み込み、仕方なく廃屋内を見回した。
視線の先に、ビリビリに破れてはいるが、かろうじて窓枠に引っ掛かっている薄汚れたカーテンが目に入った。あれなら、身体をすっぽりと覆い隠せるだろう。アザリは無言でそれに歩み寄り、乱暴に引きちぎって悪魔の前に突き出した。長年のカビと埃の匂いが、むわりと立ち上る。
案の定、悪魔は顔をしかめ、小さな悲鳴を上げた。
「ひっ…!き、汚いですぅ…」
そのあからさまな拒絶反応に、アザリの我慢の緒がぷつりと音を立てて切れそうになる。
「文句言うな。これくらい我慢してよ」
低く、底冷えのする声で言い放つと、悪魔はびくりと肩を震わせ、慌ててひったくるように汚れたカーテンを受け取った。そして、まるで汚物でも扱うかのように指先でつまみ、恐る恐る頭から被る。
その姿は、出来の悪いお化けの仮装のようでひどく滑稽だった。これで満足か、と問いかけると、布の下からくぐもった声で「は、はい…ありがとうございます…」と返事があった。
この先、本当にこいつとやっていけるのだろうか。アザリの心に、早くもどす黒い後悔がよぎり始めていた。
廃屋からアザリの住む安アパートまでの道のりは、物理的な距離の何倍にも長く感じられた。
幸い、早朝の住宅街はまだ深い眠りの中にあるようで、すれ違う人影はまばらだった。汚れたカーテンを頭から被った不審極まりない同行者を誰にも見咎められることなく、アザリは内心で安堵の息を吐く。
しかし、その安堵も束の間、隣を歩く悪魔の奇妙な挙動が、いちいちアザリの神経を逆撫でした。
電線に止まるカラスの群れがバサリと羽ばたいただけで、悪魔は「ひぃっ」と短い悲鳴を上げてアザリの腕にしがみつく。路地裏から野良猫がのそりと姿を現しただけで、布の下で全身を硬直させ、息を殺して怯える。
それなのに、時折すれ違う新聞配達のバイクや、早朝の散歩をしている老人には全くの無反応を貫くのだ。「見られる」ことに怯えているのではなかったのか。その恐怖の対象の基準が、あまりにも支離滅裂で理解に苦しむ。
ようやく、赤錆の浮いたアパートの鉄階段を上り、自室のドアの前にたどり着いた。
鍵を開けて中に入るなり、悪魔は心底ほっとしたように被っていたカーテンを下ろした。死地を脱したかのような解放感からか、肩を上下させて大きく息を吐いている。
アザリはそんな悪魔の様子を尻目に、濡れて重くなったパーカーを部屋に干し、床に倒れ込んだ。夜勤明けの疲労と、悪魔との契約という突発的な非日常による精神的摩耗により、意識は泥の底へと沈むように一瞬で途切れた。
どれくらい眠っただろうか。
重い瞼を開けると、窓の外はすでに白く明るくなっていた。昼過ぎといったところか。軋む身体を起こしたアザリは、淀んだ部屋の空気を入れ替えようと、窓のカーテンに手をかけた。
「な、何をしてるんですか! ご主人様!」
背後から、悲鳴に近い声が飛んできた。
振り返ると、部屋の隅で膝を抱えていた悪魔が、血相を変えてこちらを睨みつけている。
「み、見られるって言っているでしょう! すぐに閉めてください! お願いします!」
その異常な剣幕に、アザリの眉間に深い皺が刻まれる。
「いつまでも閉め切ってるわけにはいかないでしょ。大体、さっきから何に怯えてんのよ」
いい加減、この不可解な恐怖の正体をはっきりさせる必要があった。アザリの苛立ちを含んだ冷たい声に、悪魔はびくりと体を震わせ、気まずそうに視線を泳がせる。
しばらくの逡巡の後、意を決したように、しかし蚊の鳴くような震える声で呟いた。
「そ、それは…」
言葉が途切れ、重苦しい沈黙が六畳間に落ちる。悪魔は唇を強く噛み締め、見えない巨大な影に怯えるように深く俯いた。
そして、喉の奥から絞り出すように、その元凶を口にする。
「…姉、です…」
姉。そのありふれた単語は、アザリの混乱をさらに深めるだけだった。
意味がわからない。仮に、その姉とやらがよほど恐ろしい、凶暴な悪魔なのだとしても、辻褄が合わない。
「姉が怖いとして、じゃあ何でさっき、通りすがりの人間には無反応で、鳥とか猫にビビってたの?」
その鋭い問いに、悪魔はさらに顔を青ざめさせ、自らの身体を抱きしめるようにして震える声で答えた。
「あ、姉は…その、下等な生き物の、目と耳を借りて…すべてを掌握するんです…」
「…へえ、なんか凄そうな能力じゃん。あんたのとはえらい違いね」
アザリの何気ない一言は、的確に悪魔のプライドを抉ったらしい。悪魔は目に見えてしゅんと落ち込み、その美しい肩をガクリと落とした。
「言わないでくださいよ…。わかってますよ、それくらい…」
わかりやすく落ち込む姿に、アザリはそれ以上追撃する気をなくした。代わりに、本題へと話を戻す。
「で? そんなに怯えるってことは、よっぽど怖い姉なんだよね」
「ええ…。姉は、他者を支配するために生まれてきたような存在で…。まあ、それだけなら、服従の悪魔たる私としても、本望だったんですけれど…」
そこまで言って、悪魔は言葉を切った。その環状の瞳に、単なる恐怖とは違う、もっと複雑でドロドロとした感情が揺らめく。
「少し前から…その、ヤバいやつの“追っかけ”みたいなのを、始めまして…。そんな姉を見ているうちに、だんだん怖くなったんです。ずっと一緒だった家族のはずなのに、まるで知らない人みたいに見えてきて…。だから、逃げたんです。姉は…きっと、すごく怒ってます」
いまいち要領を得ない話だった。要するに、姉の趣味の変化についていけず、気味悪くなって家出してきた、というようなものだろうか。
確かに、身近な人間が突然、理解不能なカルトや何かに心酔し始めたら気味悪く感じるかもしれない。だが、そこまで怯えきって家出するほどのことだろうか。怒っていたとしても、謝ってやり過ごせば済むのでは、と考える。
もっとも、悪魔の家族関係など、人間の常識や倫理で測れるものではないのだろうが。
「んで、その“ヤバいやつ”ってのは? 裏で黒い噂があるアイドルみたいな?」
アザリが半分揶揄するように尋ねると、悪魔はサッと顔の血の気を引き、首がちぎれんばかりの勢いで激しく横に振った。
「…そ、それは言えません。口に出すことすら、恐ろしい…」
その怯え方は尋常ではなかった。本当に、その存在の名前を空気に乗せることさえ禁忌であるかのように、ガチガチと歯の根を鳴らして震えている。
しかし、悪魔はふと顔を上げ、恐る恐るアザリの目を見つめ返した。
「…ご主人様が命令してくださるのなら、言いますが…」
主の命令は絶対。いかなる恐怖があろうとも、逆らうことはできない。それが、この悪魔との契約の根幹だ。
だが、アザリにはそこまでの野次馬根性はなかった。何かに追われる悪魔の、さらにそのヤバい身内が追っかけている謎の存在。これ以上、関わって面倒なことに首を突っ込むのはごめんだ。
「いーよ。そんなに興味ないし」
吐き捨てるように言うと、悪魔は心底安堵したように、長く震える息を吐き出した。
アザリはそれ以上何も言わず、再び無気力にベッドへ寝転がると、薄汚れた天井の染みをぼんやりと眺め始めた。
面倒な同居人が増えた。ただ、それだけのことだ。彼女の灰色の日常は、まだ変わらない。