血と硝煙の匂いが混ざり合い、新幹線の狭い通路に重苦しく沈殿している。その異常な空間のただ中で、マキマは死の淵から平然と舞い戻り、その頬に温和な微笑みを浮かべていた。
「お姉ちゃんがピンチになったから、助けに来てくれたのかな? 嬉しい」
その声色は、何年も離れて暮らしていた妹を慈しむ、ありふれた姉のそれだった。マキマはゆっくりとカイナに向かって歩みを進め、その身体を迎え入れるべく、無防備に両腕を広げた。
目の前で繰り広げられた凄惨な殺戮も、自らの肉体が受けたはずの致命傷も、彼女にとっては爪先の汚れほどの内容でしかないことを、その仕草が雄弁に物語っている。
しかし、マキマの指先がカイナの衣服に触れる寸前、思考の泥から這い出したカイナが、鋭く片腕を突き出してその接近を拒んだ。カイナの瞳には、冷徹な決意と、深い悲しみが沈んでいた。同じ顔、同じ背丈の女が、鏡を挟むようにして対峙している。
「ご無事で何よりです、姉様。しかし私は、今の姉様とは共に行けません。チェンソーマンに傾倒している、今の姉様には…!」
拒絶の言葉は重く、確固たる意志を孕んで車内に響いた。姉への断ち切れない思慕と、その変節に対する絶望が混ざり合った、痛切な響き。座席の隙間で息を殺すアザリは、二人のやり取りをただ見守るしかなかった。
カイナはこの最悪の状況下で、明確にマキマへ反旗を翻す選択をしたのだ。
マキマは拒まれた腕を、滑らかな動作でゆっくりと下ろした。しかし、その顔には笑みが張り付いたままだ。
「…チェンソーマン。ああ、そうだったね。君は、それが理由で私から離れていったんだった。でもカイナ、それは誤解だよ。私はただ、より良い世界を作りたいだけなんだ。チェンソーマンの力は、そのために必要なものだから」
淡々と紡がれる言葉はどこまでも理路整然としており、一切の揺らぎがない。彼女の脳内においては、それが絶対的な真実として固定されているのだろう。
しかし、カイナは静かに、しかし断固として首を横に振った。
「その『より良い世界』に、私たちの居場所はない。姉様が夢中になっているのは、全ての悪魔を消し去る力を持つ化け物です。それは、私たち自身の存在をも否定するということ」
二人の視線が、見えない火花を散らして空間で交錯する。姉妹の間に横たわる、決して埋めることのできない断絶の溝。それはアザリが想像していたよりも、遥かに深く、暗い闇だった。
「実は私は、今日姉様を捕まえるために参りました」
カイナはそう宣言すると、掴んでいた襲撃者の男の襟首を、無造作に床へと投げ捨てた。男の身体は座席の角に激突して鈍い音を立て、壁際に打ち付けられてようやく動きを止める。カイナはそのしなやかな身体を深く沈め、マキマに向けて明確な敵意を示す構えを取った。
「姉様の心を取り戻すために…!」
それは彼女自身の恐怖の裏返しであり、歪んでしまった姉に対する、彼女なりの愛情表現だった。カイナは本気だ。本気でマキマと戦い、そして勝つつもりなのだ。その瞳には、悲壮なまでの覚悟が宿っていた。
対するマキマは、カイナの構えを前にしても、眉ひとつ動かさなかった。身構えるでもなく、ただ静かに、まっすぐにカイナを見据えている。
血塗れの姿が、彼女の異様な静けさを不気味に際立たせていた。
「そう。私を、捕まえる」
マキマは、ゆっくりとその言葉の輪郭をなぞった。
「できるの? カイナ。君に」
その問いに挑発のニュアンスは含まれていない。純粋な、平坦な事実の確認。絶対的な強者だからこそ持てる、揺るぎない確信に基づいた問いかけ。危機感を覚えるどころか、妹との対話を愉しんでいる節すらある。
「やってみせます。でなければ、姉様は永遠にあの化け物のものになってしまう…! それだけは、絶対に嫌だ!」
カイナが床を強く蹴り、マキマとの距離を一瞬でゼロにした。鋭い手刀がその喉元へと叩き込まれる。常人の動体視力では到底捉えきれない一撃。しかし、マキマはそれをほんの僅かに体勢を後ろに倒しただけで回避した。カイナの手刀が虚空を切り裂く。
一撃をかわされたカイナは即座に体勢を立て直し、流れるような軌道で回し蹴りを放つ。だが、それもまた、マキマが身を引くことで不発に終わった。
カイナの猛攻を、マキマは最小限の肉体移動だけで、全ていなしていく。アザリの目には、その光景が現実のものとは思えなかった。あまりにも次元の違う戦い。カイナの攻撃の一つ一つは、人間に当たれば即座に肉塊へと変わる必殺の威力を持っている。だが、そのすべてがマキマの皮膚にすら届かない。
「無駄だよ、カイナ。君の考えていることは、全部わかる。君が次にどこを狙うのか、どう動くのかも…全部。だって、私たちは、ずっと一緒にいたんだから」
マキマの静かな言葉は、カイナの冷静さをかき乱すには十分だった。
「ッ!」
カイナはその言葉を振り払うかのように、さらに速度を上げ、激しい猛攻を仕掛ける。手刀、貫手、回し蹴り、浴びせ蹴り。一切の躊躇なく繰り出されるそれらは、空気を切り裂き、鈍い音を響かせる。しかし、それでもマキマには届かない。
マキマはカイナの全ての攻撃を完璧に見切り、最小限の動きで受け流す。拳が顔面を捉える寸前に首を傾け、薙ぎ払うような蹴りを軽く跳んでかわし、時には腕を軽く添えるだけで、その凄まじい威力を別の方向へと逃がしてしまう。それはもはや格闘の域を超え、超然とした何事かだった。二人の間には、埋めようのない実力差が存在している。
どれほどの時間、猛攻が続いただろうか。カイナは一度大きく後方へ飛び退き、マキマとの距離を確保した。彼女の肩は激しく上下し、額にはじんわりと汗が滲んでいる。
対するマキマは、その血塗れの姿とは裏腹に、息一つ乱しておらず、ただ静かにカイナを見つめていた。掴みどころのない微笑み。
「もう終わりかな? じゃあ、今度はこっちの番だね」
その言葉が空気にとけた瞬間、マキマの姿がふっと掻き消えた。アザリの動体視力では移動の軌跡すら捉えられない。次の瞬間には、マキマはカイナの懐の内側に潜り込んでいた。
腹の底を揺らすような鈍い衝撃音が車内に響く。カイナの身体が折れ曲がり、その顔が苦悶に歪んだ。マキマの放った、ただの掌底。それが視認できない速度で、カイナの鳩尾に正確に叩き込まれたのだ。
「ぐっ…!?」
カイナは一瞬呼吸を奪われ、その場に膝をつきそうになる。しかし、彼女の誇りがそれを拒んだ。即座に後方へ飛び退こうとするが、マキマはそれを許さない。カイナの腕を掴み、そのまま自身のほうへと引き寄せると、再び鳩尾へ膝蹴りを突き刺した。ゴキリ、と肋骨が軋む嫌な音が明瞭に響く。
「かはっ…!」
カイナの口から、血の混じった霧が吐き出される。それでもなお、彼女の眼の光は消えていなかった。掴まれていない方の手で顔面目掛けてアッパーカットを繰り出す。だが、マキマはその拳を、もう片方の手でいとも容易く受け止めた。そして、カイナの両手首を掴んだまま、その瞳をじっと覗き込む。
「おかえり。カイナ」
姉妹の間に流れる空気は重く、そして、甘美であった。