アザリは座席の影で、このままではカイナが精神的に完全に屈服し、再びマキマの支配下に戻ってしまうかもしれないと直感した。その時だった。
「この、化け物どもが!」
床に転がっていた襲撃者の男が、最後の力を振り振るように叫びながら、震える手で拳銃を構え直した。彼は目の前で繰り広げられる人間離れしたやり取りに対し、恐怖よりも理不尽への憎悪を選んだのだ。
引き金が引かれ、乾いた銃声が連続して車内に鳴り響く。放たれた弾丸は、カイナに覆いかぶさるようにしていたマキマの背中に、全弾が吸い込まれていった。
マキマの身体が大きく揺れ、その勢いのまま崩れ落ちる。カイナはマキマの身体を蹴り飛ばして退けると、一瞬の躊躇もなく走り出した。
「待ちやがれっ…」
襲撃者の男は、憎悪に満ちた声で叫びながら、ふらつく足でカイナを追いかけようとする。だが、その口に向けて、座席の影から一筋の不可視の圧力が放たれた。アザリが放った、高密度に圧縮された睡眠ガスの弾丸だ。
口内に入った瞬間、男の瞼は下がり、その場に倒れた。
気づけば、新幹線の車窓を流れる景色は、急速にその速度を落とし始めていた。高速で流れ去っていた風景が、徐々にその輪郭を現し始める。京都駅が、もうすぐそこまで近づいていた。
カイナはすでにデッキへと姿を消している。アザリは床に転がったマキマの死体、そして今しがた眠らせた男の姿を一瞥すると、すぐに立ち上がり、カイナの後を追って走り出した。計画は失敗した。しかし、今は脱出しなければならない。この地獄のような車両から、一刻も早く。
アザリがデッキにたどり着くと、そこは軽いパニック状態に陥っていた。隣の車両から来た乗客たちが、何が起きたのか理解できずにざわめいている。その中心に、変装を解いたままのカイナが立っていた。
彼女の放つ異様な存在感と、周囲に漂う微かな血の匂いが、乗客たちの不安を煽っている。彼らはカイナを遠巻きにしながら、恐怖と好奇の入り混じった視線を向けていた。
カイナはアザリの姿を横目で認めると、こちらに顔を向けることなく、小声で囁いた。
「私といると目立ちます。別々に降りましょう。集合場所は同じで」
その声には、先ほどまでの激昂や絶望の色はなく、ただ任務を遂行する冷静さだけがあった。アザリは無言で頷くと、人々の流れに逆らうようにしてさらに先の出口へと足を向けた。今は感情を押し殺し、この場を切り抜けることだけを考える。
やがて新幹線は完全に停止し、排気音とともにドアが開かれた。京都の、夏の湿気を帯びたねっとりとした空気が車内に流れ込んでくる。アザリは人波に紛れ、ホームへと降り立った。しかし、その視線の先で、予期せぬ光景が広がっていた。
ホームの柱の陰に、二人の男女がいた。二人とも、顔にくっきりと残る生々しい傷跡が特徴的だ。彼らは、血塗れのスーツ姿で現れたカイナを見て、緊迫した表情を浮かべた。
「マキマさん、ご無事でしたか」
「その血は…どこか撃たれましたか」
特有の訛りのある口調。京都でマキマと合流する予定だった公安のデビルハンターだろうか。彼らはカイナをマキマ本人だと信じ切っている。女の方が、さらに言葉を続けた。
「お怪我はありませんか。一度、確認を…」
その言葉を言い終わらないうちに、アザリが出てきたのとは別のドアから、凛とした声が響いた。
「その人は偽物だよ、黒瀬くん、天童ちゃん」
マキマだった。やはり、生きていた。二度の、常人ならば即死しているはずの銃撃を受けてなお、彼女は平然とそこに立っている。黒瀬と呼ばれた男と、天童と呼ばれた女が、信じられないといった表情で本物のマキマの方を見る。二人のマキマ。彼らの思考が完全に停止した。
その一瞬の隙を突いて、カイナが動いた。彼女は人混みを激しくかき分け、駅の出口へと向かって走り出す。
「黒瀬君、捕まえて」
マキマの命令を受け、黒瀬と呼ばれた男が我に返り、即座にカイナの後を追い始めた。天童と呼ばれた女は恐る恐るマキマに近づいていく。
「貴方が…本物のマキマさん…で、いいんですよね?」
「そうだよ。私が本物」
マキマは穏やかに微笑み、視線をカイナが逃げ込んだ雑踏の先へと向けた。黒瀬が、必死の形相でその背中を追っているのが見える。
「天童ちゃんは駅の全出口を封鎖するよう指令を出して。ネズミ一匹、外に出さないように」
「は、はい。かしこまりました」
アザリはそのやり取りを視界の端に収めながら、静かにその場を離れた。駅の出口が完全に封鎖される前に逃げよう。カイナとの合流地点は、駅から少し離れた場所にある。彼女が黒瀬を振り切れるかどうかは分からないが、自分は自分の役割を果たすだけだ。
アザリは、大きな荷物を持った旅行客の群れに紛れ込み、最も警戒が手薄になりそうな出口へと向かう。警官や駅員が配置され始めている。もう時間がない。焦りを皮膚の内側に押し殺し、あくまで自然な歩みを装いながら、改札口を目指した。