服従の悪魔との奇妙な同居生活が始まって、数日が過ぎた。
アザリは掃除、洗濯、料理、ゴミ出しといったありとあらゆる家事をこの悪魔に押し付け、自分はバイト以外の時間をすべて自堕落に消費するという、ある意味で究極の理想郷を手に入れていた。
しかし、その生活はあまりにも平坦だった。絶対に逆らわない便利な召使いは手に入ったものの、当初期待していたような非日常のスリルや刺激は皆無だ。こんなものか、という微かな失望が、灰色の日常に再び靄をかけ始めていた。
その日も、アザリは床に寝転がっていた。バイトは休み。部屋は隅々まで磨き上げられ、静かな時間が流れている。そこに、水回りの掃除を終えたカイナが音もなくやってきた。
「ご主人様、お皿の片付け、終わりました」
「あー、ありがと。じゃあテキトーにくつろいどいて」
アザリは気怠げに相槌を打つ。だが、いつもならすぐに「畏まりました」と恭しい返事が来るはずなのに、今日に限って奇妙な沈黙が落ちた。
不審に思って顔を上げると、服従の悪魔がじっとこちらを見下ろして立ち尽くしていた。その整った顔立ちはどこか物憂げで、まるで主人の愛情を疑うような不満を微かに滲ませている。
「……ご主人様は」
「ん? 何」
「ご主人様は、私の働きに、ご不満ですか……?」
「別に」と素っ気なく答える。完璧に家事をこなすこの悪魔に、不満などあろうはずもなかった。
「ですが、最近、新しいご命令をいただいておりません……。私が最後に受けたご命令は、数日前の『家事をしろ』というもののみでございます」
「えー? 別に頼みたいこともないしさあ」
面倒くさそうに吐き捨てた言葉が、引き金だった。
服従の悪魔は深く、深く俯き、ひどく冷たい声で呟いた。
「そう、ですか……。……残念です」
直後、ズキン、と頭蓋骨の奥を鋭い杭で打ち抜かれたような痛みがアザリを貫いた。
「……ッ!?」
思わず顔をしかめると、鼻の奥から生温かい液体が垂れる感覚があった。指で拭うと、べっとりと赤黒い血が付着している。鼻血か、と軽く考えたのも束の間、痛みは急速に膨れ上がった。まるで頭蓋骨の内側から、見えない万力でギリギリと締め上げられているようだ。
鼻から流れ出る血は、もはや「垂れる」という生易しいものではなく、壊れた蛇口のようにドボドボとシーツへ溢れ出してくる。
「いッ……、何、これ……!」
汚れるのも構わず、溢れ続ける血を手で押さえながら、割れるような激痛に呻き声を上げる。視界がぐにゃりと歪み、意識の縁が白く明滅し始めた。
その凄惨な光景を、いつの間にかベッドの傍らに膝をついた服従の悪魔が、ひどく冷ややかな目で見下ろしていた。その表情には、いつもの卑屈さも怯えもない。ただ、契約を履行しない相手に対する、無機質な「失望」だけが浮かんでいた。
「おっしゃいましたよね、ご主人様? 私を『存分に』使う、と……。ですが、今のご主人様は、主人としての務めを果たしておられません。これは、明確な契約違反です」
「ちょっ……、ちょっと待ってよ。何を言って……。これ、止めてよ!」
「それは無理です。悪魔との契約を破った者は死ぬ……。これは、どうしようもない世界の摂理ですから」
痛みと恐怖で頭がぐちゃぐちゃに沸騰する。死ぬ。その冷徹な宣告が、鈍器のように脳を殴りつけた。人生に大した希望はないが、こんなアパートの片隅で、自分の血に溺れるようにして死ぬのはごめんだ。
悲鳴を上げながら、破裂しそうな頭で必死に思考を巡らせる。悪魔は使わないことが問題だと言った。命令がないことが契約違反だと。ならば――!
「肩……揉んで! 早く!」
血泡を吹きながらの、ほとんど絶叫に近い命令だった。
その言葉が放たれた瞬間、服従の悪魔の無機質な表情が、ぱっと花が咲き乱れるように明るく弾けた。同心円状の奇妙な瞳に歓喜の色が宿り、満面の笑みで嬉しそうに声を張り上げる。
「はいっ! 喜んで!」
服従の悪魔が素早くアザリの背後に回り、その肩に冷たい手を置く。そして、ひどく的確で心地よい力加減で揉み始めた途端――嘘のように鼻血が止まり、頭を締め付けていた激痛がすうっと潮が引くように消え去っていった。
肩にかかる心地よい圧力が、先ほどまでの死の恐怖を少しずつ薄れさせていく。しかし、安堵は一瞬だった。すぐに別の種類の、氷のように冷たい恐怖が背筋を這い上がってくる。
アザリは、自分がとんでもない化け物を日常に招き入れたのだと、今更ながらに思い知らされていた。便利な召使いなどではない。これは、常に「命令」という餌を与え続けなければ、即座に主の喉笛を噛み千切る猛獣だ。自分の安易な選択が、絶対に逃れられない枷となって足首に深く食い込んでいる。
肩を揉む服従の悪魔の手つきは、心からの奉仕の喜びに満ちていた。その異常な温度差が、余計にアザリの精神を削り取る。かろうじて平静を装い、アザリは震える声を胃の奥に抑えつけながら問いかけた。
「……あのさ、この契約、解除したい時はどうすればいいの?」
それは、微かな希望を託した問いだった。しかし、悪魔はあっさりと、そして残酷にその希望を踏みにじる。
「無理ですよ? 一度結んだ契約は、どちらかが死ぬまで解除は出来ません」
悪びれる様子もなく、むしろこれから続く主従関係を楽しんでいるかのような声色だった。
アザリの額に、じっとりと冷や汗が浮かぶ。死ぬまで、この悪魔に命令し続けなければならない。少しでも命令を怠れば、契約違反として頭蓋が弾け飛ぶ。どちらに転んでも、もう安息はないのだ。
「これからずーっと、よろしくお願いしますね、ご主人様?」
服従の悪魔は楽しげに、耳元で甘く囁いた。それは永遠の忠誠を誓う愛の告白のようでありながら、決して逃がさないという絶対の宣告だった。
アザリはもう何も言えず、ただ血の染みが広がった万年床から、薄汚れた天井を見つめることしかできなかった。退屈だった灰色の日常は、確かに終わりを告げた。しかし、その先に待っていたのは、刺激的な非日常などではなく、死の恐怖と隣り合わせの、命令という名の強制労働の毎日だった。