何とかしないと、本当にまずい。
翌日の日中、アザリは先輩デビルハンターと共に管轄区の見回りをしながら、昨夜の羞恥の記憶を反芻していた。
結局、浴室では抵抗らしい抵抗もできず、されるがままだった。頭を洗われ、体を洗われ、アザリはただ、湯船の中で人形のように座っているだけ。このままでは、人間としての尊厳などあっという間に消え失せてしまう。
それだけではない。日に日にエスカレートする「奉仕」は、もはやアザリの生活の全てを飲み込もうとしている。今の状態ですら、あの悪魔はまだ満足していないかもしれない。もし、命令の範囲を職場にまで広げることを要求されたら?「ご主人様の安全のため、私が常に側でお守りします」などと言い出しかねない。そうなれば、社会的な死は免れない。
「おいアザリ。何考え事してるんだ? 仕事に集中しろよ」
隣を歩く先輩の声で、アザリはハッと我に返った。
「すみません…」
そうは言っても、思考を止めることはできない。この悪循環を断ち切るには、やはり一刻も早く手柄を立てて、公安に入るしかないのだ。
「まあ、大体の情報は集まったな。それにしても、きゅうりの悪魔、ねえ。大した被害も出てないみたいだし、こりゃ楽に終われそうだな」
先輩は集めた目撃証言のメモをポケットにしまいながら、楽観的な口調で言った。今回の討伐対象は、公園や路上で目撃されている、きゅうりのような細長い形状の悪魔だという。
目撃情報が最も多い高架下へ向かうと、薄暗いコンクリートの柱の影に、それはいた。長さ二メートルほど、緑色でぶつぶつとした表皮を持つ、まさに巨大なきゅうりのような悪魔。ゆらゆらと蠢いているが、特に明確な殺意や脅威は感じられない。
先輩は背中の鞘から愛用の日本刀を抜き放ち、慣れた様子で構えた。
「じゃあ、今日は俺一人でやるから。お前はそこで報告書の内容でも考えといてくれ」
自信に満ちた笑みを浮かべ、先輩は一直線にきゅうりの悪魔へと飛びかかった。袈裟懸けに刃が振り下ろされる。
しかし――。
ガキンッ、という甲高い金属音が鳴り響いた。先輩が全体重を乗せて振り下ろした刃は、きゅうりの悪魔の表皮に硬い岩のように弾かれ、半ばから無惨にへし折れてしまったのだ。
「へっ?」
呆然と、手元に残った柄と折れた刀身を見つめる先輩。その一瞬の硬直が、命取りだった。
きゅうりの悪魔の体が、まるで釣り糸に引かれたかのように、不自然な軌道で真上へと跳ね上がった。
直後、先輩が立っていた地面の分厚いアスファルトが、内側から『巨大な顎』によって食い破られた。
粉々になったコンクリートの破片と共に地面から現れたのは、白くぶよぶよとした、巨大なチョウチンアンコウのような化け物。その額からは太い触角が伸びており、その先端には、先ほどのきゅうりの悪魔が提灯のようにぶら下がっている。
あれは本体ではなく、獲物をおびき寄せるための擬似餌だったのだ。
そして、巨大な顎が先輩の胴体を噛み砕き、首がポンッと弾け飛んで宙を舞った。驚愕と恐怖に目を見開いたままの生首が、ごとりと音を立ててアザリの足元に転がる。千切れた首の断面から噴き出した夥しい血潮が、高架下のコンクリート壁をどす黒く染め上げた。
アザリは、完全に凍りついた。
恐怖で、声も出ない。目の前の非現実的な光景が、脳に焼き付いて離れない。先輩を咀嚼した巨大なアンコウの悪魔が、ゆっくりと、その白く濁った眼球をアザリに向けた。ぞわり、と全身の毛が粟立つ。濃密な死の気配。本能が、絶叫していた。
逃げろ。
その一言だけが、麻痺した思考に響き渡る。アザリは背を向け、なりふり構わずがむしゃらに走り出した。背後で、地響きと共にコンクリートが砕ける音がする。追ってきている。死にたくない。その一心で、アザリはアスファルトを蹴った。
心臓が破裂しそうだ。肺が悲鳴を上げ、足は鉛のように重い。だが、止まれば死ぬ。
不意に、背後で鳴り響いていた地響きと破壊音がぴたりと止んだ。
アザリは警戒しつつも、息を整えるために一瞬だけ足を止め、震える首で後ろを振り返った。そこには、ただめちゃくちゃに破壊された道路と静寂があるだけ。巨大なアンコウの悪魔の姿は、どこにも見えなかった。
逃げ切った……?
安堵が胸をよぎった、その瞬間。理屈ではない、デビルハンターとして培った第六感とも言うべき危険察知能力が、全身に警鐘を鳴らした。
「――ッ!」
考えるより先に、アザリは地面を蹴って横へ大きく飛び退いた。
直後、ついさっきまで自分が立っていた場所のアスファルトが、内側から爆ぜるように砕け散り、巨大な顎が空気を噛み砕く。ガチンッ、と巨大な牙と牙がぶつかり合う、耳障りな音が響き渡った。あと一瞬でも反応が遅れていれば、今頃はあの顎の中で肉塊になっていただろう。
背筋を冷たい汗が伝う。危なかった。どうやらあの悪魔は、固いアスファルトや土の中を、まるで水中のように潜行して泳ぐ能力を持っているらしい。これでは、どれだけ距離を取っても真下から奇襲される。逃げ切ることは不可能だ。
アザリは再び走り出した。だが今度は、ただ闇雲に逃げるのではない。必死に思考を巡らせる。
アンコウは空振りの直後、再び地中に潜った。音も気配もない。だが、必ず足元のどこかにいる。このままではいつか捕まる。
瓦礫を飛び越えながら、アザリは最初にアンコウが飛び出してきた巨大なクレーターのような穴に目を留めた。その穴の縁が、何か黒光りする液体でぬるぬると濡れていることに気づく。
なんだ、これ……。
走りながら、その液体に意識を向ける。鼻をつく、独特の機械的な匂い。これは……油? 奴は体表から大量の油を分泌しているのか。
その瞬間、アザリの脳内で、バラバラだった情報がピタリと一つに繋がった。
油。可燃性。そして、自分と契約しているガスの悪魔の能力。
アザリは走りながら、指先から赤みがかった可燃性ガスをシューッと周囲に散布し始めた。同時に、ポケットから愛用の金属製ライターを取り出し、しっかりと握りしめる。
高架下の薄暗い空間に、放出した可燃性ガスが霧のように立ち込めていく。空気の密度が変わっていくのが肌で感じられた。アザリは瓦礫の山の上に立ち、呼吸を極限まで浅くして、神経を足元に集中させる。あとは、奴が姿を現すのを待つだけだ。
静寂。風の音すら聞こえない。自分の心拍音だけが、やけに大きく耳に響く。一秒が、一分にも感じられるような濃密な時間。奴はどこから来る? 真下か、それとも壁を突き破ってか。
突如、アザリが立っていた瓦礫のすぐ横のコンクリートが、前触れもなく爆ぜた。
「――ッ!」
凄まじい勢いで突き上げてくる巨大な顎。アザリは反射的に地面を蹴り、後方へ大きく跳躍した。しかし、奇襲の勢いは凄まじく、飛び散った破片がアザリの頬を深く掠め、鋭い痛みが走る。
巨大なアンコウの悪魔が、ついに地中からその巨体を完全に現した。その全身は、アザリの推測通り、ぬらぬらと大量の油を滴らせていた。濁った眼が、獲物を逃した怒りで憎々しげにアザリを睨みつける。
今だ。
アザリは、跳躍して空中にいる体勢のまま、握りしめていたライターをアンコウの悪魔の頭上めがけて力一杯投げつけた。
着地と同時に、油のない安全な道へと全力でダッシュする。獲物が逃げたのを見たアンコウの悪魔が、咆哮を上げて地を這い、その後を追おうと巨大な体を動かす。
アザリは逃げる足を急停止させて振り返り、右手の人差し指を悪魔の頭上にあるライターに向ける。
指先から、極限まで圧縮された可燃性ガスが弾丸となって撃ち出され、ライターの金属部分に激突した。
強烈な衝撃を受けたライターから、バチッ!と大きな火花が散った。
その小さな火種が、アザリが高架下に充満させていた濃密な可燃性ガスに触れた瞬間――世界が、圧倒的な閃光で白く染まった。
空間そのものが爆ぜるような、凄まじい衝撃波と熱風がアザリの体を襲う。鼓膜が破れそうなほどの音圧に思わず顔をしかめ、吹き飛ばされまいと地面に伏せる。アザリの頭上を、灼熱の嵐が吹き荒れた。
そして、アンコウの悪魔が全身から撒き散らしていた油に瞬時に引火した。悪魔の巨体そのものが巨大な発火点となり、爆発は連鎖的に威力を増していく。
もうもうと立ち上る黒煙と粉塵。アザリはむせ返りながら、おそるおそる顔を上げた。
そこに広がっていたのは、地獄のような光景だった。爆心地と化した一帯は原形を留めず、灼熱の炎が全てのものを舐め尽くしている。その炎の中心に、アンコウの悪魔と思われる黒焦げの炭があった。
勝った。
全身の力が抜け、アザリはその場にへたり込んだ。頬を伝う生暖かい感触に触れると、指が赤く染まる。だが、そんなことはどうでもよかった。生き残った。ただその事実だけが、疲弊しきった心と体に、じわりと染み渡っていく。