勝利を確信し、アスファルトにへたり込んだアザリの鼻腔を、不快な焦げ臭さと生臭い油の匂いが突いた。
「…嘘でしょ」
崩れた瓦礫の向こう側から、黒焦げの肉塊がぬっとせり出してくる。チョウチンアンコウの悪魔だった。死んでいなかった。爆発の瞬間、地下深くに潜って直撃を避けたのだ。全身の皮膚は焼け爛れ、肉が爆ぜてドロドロに溶けているが、白濁した巨大な眼球だけが、ぎょろりとアザリを睨みつけている。殺意は、いささかも減衰していなかった。
(もう一度、同じ手を)
ガスの悪魔の能力を使おうと、アザリが構えた瞬間。
ゴオオォッ!
足元の地面が突如として爆ぜ、下水管から凄まじい勢いで水柱が噴き上がった。アンコウの悪魔が地下に潜った際に水道管を破壊していたのだ。冷たく濁った水がアザリの全身を打ち据え、あっという間にずぶ濡れになる。
(終わった)
火が使えない。ガスの悪魔の能力は、着火源があって初めて意味をなす。火がついたとしても、撒き散らされた油と大量の冷水が混ざり合えば、凄まじい水蒸気爆発が起きる。悪魔もろとも、自分自身がミンチになって吹き飛ぶだけだ。詰みだった。
アンコウの悪魔が、大きく顎を開く。無数のノコギリのような牙が並ぶ、絶対的な暗闇。アザリは、ひどくあっさりと死を覚悟し、目を閉じた。
刹那。
ドゴォン! と、まるで大型トラックが正面衝突したような重低音が響いた。
アザリが恐る恐る目を開けると、巨大なアンコウの悪魔が高架の太いコンクリート柱に激突してひしゃげている。何が起きたのか理解できないアザリの前に、一つの影が立っていた。厚手のコートにスカーフを巻いた、長身の女。
「ご無事ですか、ご主人様」
振り返ったその顔は、アザリが嫌というほど毎日見ている、服従の悪魔のものだった。同心円状の奇妙な虹彩が、ひどく冷徹な輝きを放ち、アザリを見下ろしている。
いつ、どうやってここに。そう問う暇はなかった。
黒焦げのアンコウの悪魔が巨体を震わせ、再びアスファルトを食い破って地中へ姿を消したからだ。
「下! 避けて!」
アザリの悲鳴は遅かった。服従の悪魔が立っていた地面が爆発するように隆起し、巨大な顎が彼女を足元から丸呑みにした。水飛沫と瓦礫の雨が降り注ぎ、長身の影があっけなく視界から消え失せる。
「ああ……」
助けに来てくれたのに、自分のせいで死んだ。ずぶ濡れの体に、後悔が重くのしかかる。
しかし、絶望は一瞬で驚愕に上書きされた。
地面から半身を乗り出したアンコウの悪魔が、突如として狂ったようにのたうち回り始めたのだ。巨体をよじり、聞いたこともないような甲高い悲鳴を上げる。まるで、内臓をミキサーでかき回されているかのように。
ぐじゅり、と嫌な音がした。
アンコウの巨大な腹部が内側から膨れ上がり、次の瞬間、血と脂の雨を降らせて弾け飛んだ。返り血と体液でドロドロになった服従の悪魔が、引きちぎった巨大な腸を握りしめたまま這い出してくる。
彼女はそれをゴミのように捨てると、のたうち回るアンコウの悪魔へ歩み寄った。
一閃。しなるような蹴りが、アンコウの側面を深くえぐる。
二閃。無造作な拳が、白濁した眼球をスイカのように粉砕する。
三閃。跳躍からの肘打ちが、巨大な頭部をアスファルトにめり込ませる。
戦闘ではなく、ただの作業だった。的確に、最も効率よく命を刈り取るための蹂躙。全長10メートルはあろうかという巨体が、小気味良い打撃音とともにただの肉塊へと変わっていく。
「…どうやら、もう地面に潜る元気も残ってはいないようですね」
服従の悪魔は、虫の息となったアンコウの悪魔の頭頂部に立ち、ゆっくりと右手を掲げた。
「ご主人様を脅かす害虫は、塵一つ残さず駆除いたします」
振り下ろされた手刀が、アンコウの悪魔の眉間をバターのように貫いた。巨体がびくんと一度だけ大きく跳ね、そして、完全に沈黙した。
静まり返った高架下に、血の雨の滴る音だけが響く。アザリは、震える膝を抱えたまま、その光景を見上げていた。
出会った時、彼女は雨の中で震え、助けを求めるようにアザリを見上げていた。しかし、今目の前にあるのは、次元の違う暴力そのものだった。これが、自分が契約した悪魔の本当の力。恐怖と、それを所有しているという奇妙な安堵感が、アザリの胃の腑を冷たく撫でた。
服従の悪魔が、死体から飛び降りてこちらへ歩いてくる。息一つ乱していない。彼女はアザリの前に跪くと、頬についた小さな擦り傷を見て、心底悲しそうに眉を歪めた。
「…こんなに汚れてしまって…。おいたわしい、ご主人様…」
ひんやりとした指先が、アザリの頬の血を拭う。ひどく優しい、愛おしむような手つきだった。
「今日はもう帰りましょう。お風呂に入って、そのお身体を綺麗にいたしましょうね」
その甘い声に、アザリはハッと我に返った。このまま彼女のペースに巻き込まれるわけにはいかない。先輩が死んだ。これだけの被害が出た。これは、公安に自分を売り込むための最高のチケットなのだ。
「…悪いけど、先に帰ってて。事務所に報告しなくちゃいけないから」
服従の悪魔の指が、ぴたりと止まった。
その瞳から、すっと感情が抜け落ちる。無言の圧力が、刃物のようにアザリの肌をなぞった。怯んではいけない。主導権を渡せば、終わる。
「大手柄なの。お願い。報告したらすぐに帰るから」
アザリが言い募った時、遠くからパトカーのサイレンが聞こえ始めた。複数の足音も近づいてくる。服従の悪魔はわずかに首を傾げ、アザリから手を離した。
「…承知いたしました。では、お先に失礼します」
深く一礼すると、彼女は音もなく瓦礫の影へと溶け込んだ。
一人残されたアザリは、大きく息を吐き、近づいてくる赤色灯の群れへと向き直った。
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高架下での事情聴取は、執拗でうんざりするものだった。
駆けつけた公安のデビルハンターたちは、ミンチになったアンコウの悪魔と、ずぶ濡れのアザリを交互に見比べ、疑り深い目を向けた。アザリは疲労を隠しながら、用意した嘘を並べた。先輩が死んだこと。きゅうりの悪魔が罠だったこと。そして、自分が契約しているガスの悪魔の能力と爆発を使って、単独で討伐したこと。
服従の悪魔の存在は、完全に隠し通した。周囲の破壊痕と、撒き散らされたガスの匂いが状況証拠となり、最終的にアザリの供述はそのまま受理された。
(これでいい)
この手柄は、必ず公安の上層部に届く。あの悪魔との契約から抜け出すための、確かな蜘蛛の糸だ。乾いた野心を胸に、アザリは深夜のアパートへ帰り着いた。
鍵を開け、暗い玄関に足を踏み入れる。
「…おかえりなさいませ、ご主人様。悪魔の討伐、ご苦労様でした」
闇の中に、服従の悪魔が立っていた。コートは脱ぎ、いつもの従者の佇まい。しかし、声のトーンが死体のように平坦だった。
「ですが」
一歩、彼女が近づいてくる。
「私の服従を受け入れてくださらなかったのは、非常に残念です」
「受け入れなかったって…。あの時は断ったってだけでしょ。今からお風呂に入るから。それでいいでしょ?」
靴を脱ごうとした瞬間、腕を掴まれ、凄まじい力で廊下のフローリングに叩きつけられた。
「っ!?」
肺から空気が漏れる。見上げると、馬乗りになった服従の悪魔が冷たく見下ろしていた。
「ご主人様には、ご理解いただかなければなりません。私の忠誠を。この身の全てを懸けた、真なる服従を」
「め、命令! 今すぐ私から離れな―」
アザリの悲鳴は、押し付けられた冷たい手によって乱暴に塞がれた。抵抗しようと身をよじるが、万力のような力で手首を押さえつけられ、ピクリとも動けない。
「ご主人様は、私の申し出を拒絶なされました。それは、私の存在意義を、この忠誠を、否定する行為に他なりません」
塞がれた口で「んー!」と喚くアザリを無視し、彼女は淡々と、しかし熱を帯びた声で囁く。
「私はご主人様のために、あの害虫を排除いたしました。しかし、貴女はその結果だけを掠め取り、私の『服従』という行為そのものは、現場で不要なものとして切り捨てられた」
理不尽な論理だった。現場で悪魔の存在を隠すのは当然だ。しかし、この悪魔にとって、それは自身の存在を否定されるに等しい「裏切り」だったらしい。
「私の服従が、どれほど深く、絶対的なものであるか。この身の全てを以て、貴女に刻み込んで差し上げます。二度と、私の忠誠を疑うことがないように。私の献身を、拒絶することがないように……」
その渦巻いた瞳には、狂信的な愛と罰の光が宿っていた。
これは、彼女なりの「存分に使う」という契約の解釈の行き着く果て。アザリの意思など関係ない。ただ一方的に与えられ、押し付けられる、暴力的な『奉仕』という名の支配。アザリは絶望に目を見開き、ただその波に呑み込まれることしかできなかった。