Obedience for You   作:壁達

7 / 13
7話 服従の悪魔の力

 勝利を確信し、アスファルトにへたり込んだアザリの鼻腔を、不快な焦げ臭さと生臭い油の匂いが突いた。

 

「…嘘でしょ」

 

 崩れた瓦礫の向こう側から、黒焦げの肉塊がぬっとせり出してくる。チョウチンアンコウの悪魔だった。死んでいなかった。爆発の瞬間、地下深くに潜って直撃を避けたのだ。全身の皮膚は焼け爛れ、肉が爆ぜてドロドロに溶けているが、白濁した巨大な眼球だけが、ぎょろりとアザリを睨みつけている。殺意は、いささかも減衰していなかった。

 

 (もう一度、同じ手を)

 

 ガスの悪魔の能力を使おうと、アザリが構えた瞬間。

 

 ゴオオォッ!

 

 足元の地面が突如として爆ぜ、下水管から凄まじい勢いで水柱が噴き上がった。アンコウの悪魔が地下に潜った際に水道管を破壊していたのだ。冷たく濁った水がアザリの全身を打ち据え、あっという間にずぶ濡れになる。

 

 (終わった)

 

 火が使えない。ガスの悪魔の能力は、着火源があって初めて意味をなす。火がついたとしても、撒き散らされた油と大量の冷水が混ざり合えば、凄まじい水蒸気爆発が起きる。悪魔もろとも、自分自身がミンチになって吹き飛ぶだけだ。詰みだった。

 

 アンコウの悪魔が、大きく顎を開く。無数のノコギリのような牙が並ぶ、絶対的な暗闇。アザリは、ひどくあっさりと死を覚悟し、目を閉じた。

 

 刹那。

 

 ドゴォン! と、まるで大型トラックが正面衝突したような重低音が響いた。

 

 アザリが恐る恐る目を開けると、巨大なアンコウの悪魔が高架の太いコンクリート柱に激突してひしゃげている。何が起きたのか理解できないアザリの前に、一つの影が立っていた。厚手のコートにスカーフを巻いた、長身の女。

 

 「ご無事ですか、ご主人様」

 

 振り返ったその顔は、アザリが嫌というほど毎日見ている、服従の悪魔のものだった。同心円状の奇妙な虹彩が、ひどく冷徹な輝きを放ち、アザリを見下ろしている。

 

 いつ、どうやってここに。そう問う暇はなかった。

 

 黒焦げのアンコウの悪魔が巨体を震わせ、再びアスファルトを食い破って地中へ姿を消したからだ。

 

 「下! 避けて!」

 

 アザリの悲鳴は遅かった。服従の悪魔が立っていた地面が爆発するように隆起し、巨大な顎が彼女を足元から丸呑みにした。水飛沫と瓦礫の雨が降り注ぎ、長身の影があっけなく視界から消え失せる。

 

 「ああ……」

 

 助けに来てくれたのに、自分のせいで死んだ。ずぶ濡れの体に、後悔が重くのしかかる。

 

 しかし、絶望は一瞬で驚愕に上書きされた。

 

 地面から半身を乗り出したアンコウの悪魔が、突如として狂ったようにのたうち回り始めたのだ。巨体をよじり、聞いたこともないような甲高い悲鳴を上げる。まるで、内臓をミキサーでかき回されているかのように。

 

 ぐじゅり、と嫌な音がした。

 

 アンコウの巨大な腹部が内側から膨れ上がり、次の瞬間、血と脂の雨を降らせて弾け飛んだ。返り血と体液でドロドロになった服従の悪魔が、引きちぎった巨大な腸を握りしめたまま這い出してくる。

 

 彼女はそれをゴミのように捨てると、のたうち回るアンコウの悪魔へ歩み寄った。

 

 一閃。しなるような蹴りが、アンコウの側面を深くえぐる。

 二閃。無造作な拳が、白濁した眼球をスイカのように粉砕する。

 三閃。跳躍からの肘打ちが、巨大な頭部をアスファルトにめり込ませる。

 

 戦闘ではなく、ただの作業だった。的確に、最も効率よく命を刈り取るための蹂躙。全長10メートルはあろうかという巨体が、小気味良い打撃音とともにただの肉塊へと変わっていく。

 

 「…どうやら、もう地面に潜る元気も残ってはいないようですね」

 

 服従の悪魔は、虫の息となったアンコウの悪魔の頭頂部に立ち、ゆっくりと右手を掲げた。

 

 「ご主人様を脅かす害虫は、塵一つ残さず駆除いたします」

 

 振り下ろされた手刀が、アンコウの悪魔の眉間をバターのように貫いた。巨体がびくんと一度だけ大きく跳ね、そして、完全に沈黙した。

 

 静まり返った高架下に、血の雨の滴る音だけが響く。アザリは、震える膝を抱えたまま、その光景を見上げていた。

 

 出会った時、彼女は雨の中で震え、助けを求めるようにアザリを見上げていた。しかし、今目の前にあるのは、次元の違う暴力そのものだった。これが、自分が契約した悪魔の本当の力。恐怖と、それを所有しているという奇妙な安堵感が、アザリの胃の腑を冷たく撫でた。

 

 服従の悪魔が、死体から飛び降りてこちらへ歩いてくる。息一つ乱していない。彼女はアザリの前に跪くと、頬についた小さな擦り傷を見て、心底悲しそうに眉を歪めた。

 

 「…こんなに汚れてしまって…。おいたわしい、ご主人様…」

 

 ひんやりとした指先が、アザリの頬の血を拭う。ひどく優しい、愛おしむような手つきだった。

 

 「今日はもう帰りましょう。お風呂に入って、そのお身体を綺麗にいたしましょうね」

 

 その甘い声に、アザリはハッと我に返った。このまま彼女のペースに巻き込まれるわけにはいかない。先輩が死んだ。これだけの被害が出た。これは、公安に自分を売り込むための最高のチケットなのだ。

 

 「…悪いけど、先に帰ってて。事務所に報告しなくちゃいけないから」

 

 服従の悪魔の指が、ぴたりと止まった。

 その瞳から、すっと感情が抜け落ちる。無言の圧力が、刃物のようにアザリの肌をなぞった。怯んではいけない。主導権を渡せば、終わる。

 

 「大手柄なの。お願い。報告したらすぐに帰るから」

 

 アザリが言い募った時、遠くからパトカーのサイレンが聞こえ始めた。複数の足音も近づいてくる。服従の悪魔はわずかに首を傾げ、アザリから手を離した。

 

「…承知いたしました。では、お先に失礼します」

 

 深く一礼すると、彼女は音もなく瓦礫の影へと溶け込んだ。

 一人残されたアザリは、大きく息を吐き、近づいてくる赤色灯の群れへと向き直った。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 高架下での事情聴取は、執拗でうんざりするものだった。

 駆けつけた公安のデビルハンターたちは、ミンチになったアンコウの悪魔と、ずぶ濡れのアザリを交互に見比べ、疑り深い目を向けた。アザリは疲労を隠しながら、用意した嘘を並べた。先輩が死んだこと。きゅうりの悪魔が罠だったこと。そして、自分が契約しているガスの悪魔の能力と爆発を使って、単独で討伐したこと。

 

 服従の悪魔の存在は、完全に隠し通した。周囲の破壊痕と、撒き散らされたガスの匂いが状況証拠となり、最終的にアザリの供述はそのまま受理された。

 

(これでいい)

 

 この手柄は、必ず公安の上層部に届く。あの悪魔との契約から抜け出すための、確かな蜘蛛の糸だ。乾いた野心を胸に、アザリは深夜のアパートへ帰り着いた。

 鍵を開け、暗い玄関に足を踏み入れる。

 

 「…おかえりなさいませ、ご主人様。悪魔の討伐、ご苦労様でした」

 

 闇の中に、服従の悪魔が立っていた。コートは脱ぎ、いつもの従者の佇まい。しかし、声のトーンが死体のように平坦だった。

 

 「ですが」

 

 一歩、彼女が近づいてくる。

 

 「私の服従を受け入れてくださらなかったのは、非常に残念です」

 

 「受け入れなかったって…。あの時は断ったってだけでしょ。今からお風呂に入るから。それでいいでしょ?」

 

 靴を脱ごうとした瞬間、腕を掴まれ、凄まじい力で廊下のフローリングに叩きつけられた。

 

 「っ!?」

 

 肺から空気が漏れる。見上げると、馬乗りになった服従の悪魔が冷たく見下ろしていた。

 

 「ご主人様には、ご理解いただかなければなりません。私の忠誠を。この身の全てを懸けた、真なる服従を」

 

 「め、命令! 今すぐ私から離れな―」

 

 アザリの悲鳴は、押し付けられた冷たい手によって乱暴に塞がれた。抵抗しようと身をよじるが、万力のような力で手首を押さえつけられ、ピクリとも動けない。

 

 「ご主人様は、私の申し出を拒絶なされました。それは、私の存在意義を、この忠誠を、否定する行為に他なりません」

 

 塞がれた口で「んー!」と喚くアザリを無視し、彼女は淡々と、しかし熱を帯びた声で囁く。

 

 「私はご主人様のために、あの害虫を排除いたしました。しかし、貴女はその結果だけを掠め取り、私の『服従』という行為そのものは、現場で不要なものとして切り捨てられた」

 

 理不尽な論理だった。現場で悪魔の存在を隠すのは当然だ。しかし、この悪魔にとって、それは自身の存在を否定されるに等しい「裏切り」だったらしい。

 

 「私の服従が、どれほど深く、絶対的なものであるか。この身の全てを以て、貴女に刻み込んで差し上げます。二度と、私の忠誠を疑うことがないように。私の献身を、拒絶することがないように……」

 

 その渦巻いた瞳には、狂信的な愛と罰の光が宿っていた。

 

 これは、彼女なりの「存分に使う」という契約の解釈の行き着く果て。アザリの意思など関係ない。ただ一方的に与えられ、押し付けられる、暴力的な『奉仕』という名の支配。アザリは絶望に目を見開き、ただその波に呑み込まれることしかできなかった。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。