8話 栄転
「おはようございます、ご主人様」
意識が浮上すると、すぐ真横に服従の悪魔の顔があった。その瞳は静謐で、昨夜の狂気は微塵も残っていない。
「…おはよう」
枯れた声で返事をすると、彼女は満足げに微笑み、すっとベッドを抜け出した。手際よくシーツを整え、朝食の準備に取り掛かる。完璧なメイドとしての振る舞い。その落差が、アザリの神経をひどく逆撫でした。
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ズキズキと痛む頭と体を抱え、事務所へ向かう。昨夜の屈辱的な恐怖を振り払うには、今日、何か進展があることを祈るしかなかった。
事務所のドアを開けるなり、所長が血相を変えて飛んできた。
「アザリ、やったぞ!公安からお客様だ!昨日の悪魔の一件を聞いて、お前をスカウトしたいそうだ!ほら、応接室!」
その言葉に、アザリの脳内にパッと光が射した。
公安からのスカウト。すべてはこのためだった。自分はチャンスを掴んだのだ。公安に入れば、あの悪魔と縁を切る方法も必ず見つかる。
「ありがとうございます、所長」
アザリは息を整え、応接室のドアノブを回した。
中にいたのは、黒いスーツを着た二人の男。そして、その中央のソファに優雅に腰掛ける、一人の女。
その顔を見た瞬間、アザリの全身から血の気が引いた。
「…え?」
服従の悪魔と、瓜二つだった。
髪の色、顔の造形、そして何より、あの全てを見透かすような同心円状の瞳。昨夜自分を蹂躙し、今朝甲斐甲斐しく朝食を作ったあの悪魔と、寸分違わぬ女がそこに座っていた。
女は、入り口で凍りついたアザリを見て、不思議そうに小首を傾げた。その仕草すらも同じだった。
「あなたが、アザリさん? 初めまして。内閣官房長官直属デビルハンター、マキマです。どうぞ、お座りください」
穏やかで、ひどく耳障りの良い声。
促されるまま、アザリは対面のソファに腰を下ろした。ぎしり、と安っぽいスプリングが鳴る。心臓が肋骨を突き破りそうなほど跳ねているが、マキマが語る公安の組織体系や待遇の話は、何一つ頭に入ってこない。
(姉がいる、とか言ってたな、アイツ…)
そうだ。姉から逃げてきたのだと、契約の時に言っていた。
(あれ、じゃあこの人も悪魔…?)
日本の中枢に、悪魔が入り込んでいる。世界の根本的な仕組みが、音を立てて崩れ落ちていくような眩暈を覚えた。
「――さん、アザリさん。聞いていますか?」
隣の黒服が、苛立ったように声をかけた。ハッと顔を上げると、マキマが静かな笑みを浮かべ、アザリを観察している。
「はっ、はい。もちろんです」
「よかった。では、単刀直入にお伺いします。アザリさんには、今後、公安対魔特異4課という部署で働いて欲しいのですが、いかがでしょう」
特異4課。それが何を意味するのか分からない。この女が仕切る部署なら、悪魔の巣窟なのだろう。だが、断ればどうなる? 家に帰れば、あの狂った「服従」が待っている。命令を与え続けなければ殺される日々。
それなら、前に進むしかない。毒を喰らわば皿までだ。
「…よろしくお願いします」
アザリが震える声で答えると、マキマは満足そうに目を細めた。
その夜、事務所で開かれたささやかな送別会。安いビールと煙草の匂い。所長や仲間たちは、アザリの出世を自分のことのように喜び、先輩の死を悼んでグラスを空けた。
彼らの明るさが、アザリの抱え込んだ異常な現実とひどく乖離していて、おかしかった。それでも、この温かい場所を出て行かなければならない。地獄から抜け出すために、別の地獄へ足を踏み入れる。
アザリはぬるいビールを一気に飲み干し、乾いた笑いを漏らした。