分厚く、ひんやりとした無機質な鉄の扉。そこには『公安対魔特異4課』と印字された安っぽいプレートが掲げられている。
ここが、自分の新しい職場。そして、呪いのような契約から逃れるための足がかり。
アザリは小さく深呼吸を一つ落とし、冷たいノブに手をかけた。重い扉を開いた、その瞬間。
「今日、民間から新しい仲間が来るらしいぞ」
「へぇー。女?男?」
「女性だそうだ」
「よっし!ツラのいい女来い!」
「つまりワシの奴隷ということじゃな!早速こき使ってやるわ!まずはジュースを買わせる!もちろん金はソイツ持ちじゃ!」
「騒ぐな」
アザリは無言で扉を閉めた。
…間違えたか?
国の治安を守る公安、その中でも『特異課』と呼ばれるエリート部署だと聞いていた。だが、わずかに開いた隙間から溢れ出たのは、おおよそ公務員とは思えない、知性の欠片も感じられない若者たちの痴話喧嘩だった。金髪の少年と、頭に角を生やした少女。
アザリはもう一度、プレートを見上げた。
『公安対魔特異4課』。
間違いない。合っている。
アザリは乾いた唇を舐め、意を決して、再びノブを回した。
「おいそれ俺のだって。食うなよ」
「はあ~?コレはワシが買ったんだが?嘘つきは良くないのおデンジ、嘘つきは泥棒の始まりじゃ」
「嘘ついてんのも物盗ってんのもお前じゃねえか」
「いい加減にしろ2人とも。新人がいつ来てもおかしくないんだから、大人しく待ってろ」
状況は悪化していた。どうやら食べ物で揉めているらしい。
本気で帰ろうかと思った。自分の前途が、一瞬にして暗闇に沈んでいくのを感じる。
その時、黒髪の男がふと視線を上げ、ドアの隙間に立ち尽くすアザリの存在に気づいた。
「あ。来たみたいだぞ」
その静かな声に、騒いでいた二人がピタリと動きを止める。
三つの視線が一斉にアザリを射抜いた。犬のように好奇心を剥き出しにした金髪の目。獲物を値踏みするような角の少女の目。そして、気まずさを隠しきれない黒髪の男の目。
アザリはドアノブを握ったまま、石像のように固まることしかできなかった。
(今更こんなことで嫌がってどうする。覚悟を決めたじゃないか)
胸の内で自分を殴りつけ、乱れかけた呼吸を無理やり整える。そうだ、家に帰れば「アレ」が待っているのだ。姉と瓜二つの顔で、異常な要求を繰り返す悪魔。あの底なしの沼に比べれば、少々行儀の悪いガキなど可愛いものだ。角だって、きっと奇抜なファッションか何かだろう。
アザリは背筋を伸ばし、部屋に足を踏み入れると、三人の前で深く頭を下げた。
「本日付で、こちらの特異4課に配属になりました、アザリです。民間からの移籍で、至らない点も多いかと思いますが、ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いいたします」
「俺は早川アキ。先輩になる。よろしく」
短く頭を下げるアキを押しのけるように、金髪の少年が前に出た。
「俺はデンジ!よろしくな!敬語とかいらねーから!なんかあったら俺に言えよ!」
ニカッと笑う顔は、先ほどの品のなさが嘘のように無邪気だ。続いて、角の少女がふんぞり返りながら鼻を鳴らした。
「ワシはパワー様じゃ!ワシには敬語を使え!」
その尊大な態度に、アザリの眉間が微かに引きつる。一通りの自己紹介が終わり、アキが溜め息混じりに、致命的な補足を付け加えた。
「ちなみにパワーは『魔人』で、デンジは人間だが、悪魔に変身できる」
その言葉は、アザリの鼓膜を抜け、脳の奥底に冷たい杭を打ち込んだ。
(…やっぱり、帰ろうかな)
アザリの中で、辛うじて形を保っていた覚悟が、音を立てて砂のように崩れ去った。コスプレという淡い期待は木っ端微塵だ。
ここは、悪魔と、それに類するバケモノたちが集う、文字通りの『特異』な吹き溜まりだったのだ。マキマという、底知れない悪魔が率いる部署なのだから当然かもしれない。だが、あまりにも現実が、自分の許容範囲を軽々と飛び越えていく。
呆然と立ち尽くすアザリの顔色を見て、アキが同情するように目を伏せた。
「…大丈夫か? まぁ、驚くのも無理はない。俺も最初はそうだった。とりあえず、マキマさんから、お前には色々説明するよう言われている。分からないことがあったら何でも聞け」
アキの言葉に、アザリは首の皮一枚で繋がっているような頷きを返した。もう思考が泥のように鈍い。
その後、アキから特異4課の成り立ちについて淡々と説明を受けた。この課は公安の中でも実験的な部隊であり、デンジやパワーのような「人ならざる者」を兵器として運用し、従来の枠を超えた戦果を挙げることを目的としているらしい。あの破天荒な光景にも、嫌な納得がいった。
アキによれば、課のメンバーはまだ他にもいるという。アキのバディである姫野。そして、もう一組の新人である東山コベニと荒井ヒロカズ。基本はバディで動くが、現在は人数が奇数のため、アザリは当面の間、単独で行動することになる。
「マキマさんが他の部署から人員を異動させられないか掛け合っているらしい。ずっと一人ということはないだろう。それまでは、俺がサポートする」
その一言だけが、この異様な空間における唯一の救いだった。バケモノたちの中で、この早川アキという男だけは、少なくとも常識が通じる。
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
アザリが返すと、アキは表情を引き締めた。
「早速だが、これから仕事だ。もうすぐ他のメンバーが来るから、合流次第、詳細を説明する」
仕事。その単語に、アザリの背筋に冷たい緊張が走った。公安のデビルハンターとしての、初陣。
思考を巡らせていると、不意にオフィスのドアが開いた。
煙草の匂いと共に、三人の男女が入ってくる。右目に眼帯をした、どこか気怠げな女。その後ろで、今にも泣き出しそうな顔で縮こまっている小柄な少女。そして、無駄に胸を張った真面目そうな青年。彼らが残りのメンバーなのだろう。
「お、いたいた。新人の子だよね?姫野でーす、よろしくね」
眼帯の女、姫野がひらひらと手を振りながら近づいてくる。その隣で、少女がビクッと肩を跳ねさせ、90度近いお辞儀をした。
「ひ、東山コベニです。よろしくお願いしますっ」
裏返った声は、死刑宣告でも受けたかのように震えている。最後に、青年がガチガチに緊張した面持ちで大声を張り上げた。
「荒井ヒロカズです!よろしくお願いします!」
三者三様の異質な空気を前に、アザリはもう一度、自らの心を氷のように冷たく固めた。
先ほどと同じように挨拶を返すと、姫野は「へぇ~、民間から。根性ありそう」と、面白そうに片目を細めた。
こうして、公安対魔特異4課のメンバーが勢揃いした。
血と臓物と、理不尽な暴力が日常となる日々。アザリは、目の前に並ぶ酷く歪で、どこか壊れた同僚たちを静かに見渡し、肺の奥に溜まった息をゆっくりと吐き出した。