霧の悪魔   作:甘党派

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1話

 

『悪いな、親友。後は頼む』

 

雨がその身を濡らす。

 

少年はそれでも空を見上げた。

 

その身に宿ったモノを掻き消すように。

 

周囲は赤に染まっている。

 

それは彼の原点であり、目的であり、後悔であり、○○○○だった。

 

 

 

 

湿った空気が、肺に絡みつく。

 

「……妙だな」

 

先頭を進む忍が足を止めた。

 

任務は単純だった。霧隠れの里の動きを探る。それだけのはずだった。

 

だが、違和感が拭えない。

 

「霧、こんなに濃かったか?」

 

誰かが低く呟く。

 

視界が白く濁っている。木々の輪郭も、仲間の背中も、すべてが曖昧だ。

さっきまでは、こんなじゃなかった。

 

「気をつけろ。散開――」

 

言葉が最後まで続くことはなかった。

 

音が、消えた。

 

風も、足音も、呼吸すらも。

世界から“響き”というものが消え去った。

 

「……おい?」

 

返事がない。

 

すぐ隣にいたはずの仲間が、いない。

 

「どこ行った!」

 

声を張る。だがその声は、やけに遠く、実感がない。

 

――ちゃぷん

 

水音。

 

足元を見ると、地面が薄く濡れていた。

いつの間にか、水が張っている。

 

「……なんだ、これ」

 

「動かない方がいいっスよ」

 

耳元で、声がした。

 

反射的に振り向く。

誰もいない。

 

だが確かに、“そこにいた”。

 

「誰だ!」

 

クナイを構える。

霧の向こうに、ぼんやりと白い影が揺れた。

 

仮面。

 

それだけが、やけにくっきりと浮かび上がっている。

 

「こんなところで会うとは思わなかったっス」

 

軽い口調。場違いなほどに穏やかだ。

 

その直後、一人の忍の身体が崩れ落ちた。

 

「っ……!?」

 

誰も、何も見ていない。

 

血が、水面に滲む。

 

「今の……」

 

「何が起きた……」

 

ざわめきが広がる。

 

白い仮面の男は、そこに立っているだけだ。

 

「まあ、見えないっスよね」

 

次の瞬間、その姿が消えた。

 

「後ろだ!」

 

振り向く。

だが間に合わない。

 

喉元に冷たい感触。

 

――ザッ

 

音は、ほとんどしない。

 

また一人、倒れる。

 

「囲め!」

 

残った者たちが一斉に動く。

クナイが飛び、術が放たれる。

 

だが、それらはすべて空を切る。

 

「遅いっス」

 

声だけが、すぐ近くから聞こえる。

 

姿はない。

 

霧の中、何かが滑るように動いている。

足音はない。気配もない。

 

ただ、結果だけが積み重なっていく。

 

「くそ……!」

 

印を結ぶ。火遁で焼き払う。

 

そのはずだった。

 

「それ、無駄っスよ」

 

背後。

 

振り向く。いない。

 

「どこだ……!」

 

焦りが滲む。

 

たった一人の忍びに、部隊が圧倒されている。

 

「……多くて面倒っスね」

 

声が、霧の中に溶ける。

 

空気が変わった。

 

霧が、さらに濃くなる。

 

白が、すべてを塗り潰す。

 

視界は完全に消え、音も完全に失われる。

 

何も、分からない。

 

「……あと三人っスね」

 

すぐ近くで、声。

 

振り向く。何もない。

 

首筋に、水滴が触れた。

 

それが終わりの合図だった。

 

一人。

 

また一人。

 

そして最後の一人が、膝をつく。

 

何も見えない。何も聞こえない。

 

ただ、“いる”と分かる。

 

すぐ近くに。

 

「なんなんだ……お前は……」

 

震える声。

 

返ってきたのは、変わらない調子だった。

 

「ただの忍っスよ」

 

その直後、意識が途切れた。

 

霧が、ゆっくりと晴れていく。

 

残るのは、倒れた忍たちと、水面に立つ一人の影。

 

白い仮面。血はほとんど付いていない。

 

 

 

 

 

 

湿った風が、低く流れている。

 

霧は薄い。

だが消えきらず、地面すれすれに残っていた。

 

その中を、一人の男が歩いている。

 

足取りは重い。

だが焦りはない。

 

「……もう追ってこねぇよな」

 

独り言。

 

振り返ることはない。

振り返ったところで、何もできないと分かっているからだ。

 

霧隠れを抜けた忍。

名も捨て、任務も捨て、ただ生きることだけを選んだ男。

 

小さな川沿いに出る。

 

水は静かに流れていた。

 

「……ここまで来りゃ、さすがに――」

 

「見つけたっス」

 

声が、後ろから落ちた。

 

男の身体が止まる。

 

ゆっくりと振り向く。

 

そこにいたのは、白い仮面の忍だった。

 

霧の中で、その白だけがやけに浮いている。

 

「……そうかよ」

 

男は、ため息をついた。

 

「やっぱ来るよな。“そういう役目”だもんな」

 

返答はすぐに返る。

 

「まあ、そうっスね」

 

軽い声。

 

緊張感がない。

まるで世間話でもしているようだ。

 

男は苦く笑う。

 

「俺はな、シン、もう戦う気はねぇんだよ」

 

沈黙。

 

仮面の奥は見えない。

 

「知ってるっス」

 

「……じゃあ何で来た」

 

「任務なんで」

 

それだけだった。

 

短く、簡単で、それ以上でもそれ以下でもない。

 

男は空を見上げる。

 

薄い霧の向こうに、ぼやけた光。

 

「血霧の頃、覚えてるか」

 

唐突な言葉。

 

返事はない。

 

だが、否定もない。

 

「仲間同士で殺し合ってさ、生き残ったやつが正しいみたいな……狂った時代だ」

 

小さく息を吐く。

 

「俺はさ、この里が嫌いだよ」

 

静かな声。

 

恨みも怒りもない。

 

ただ、疲れだけがあった。

 

「だから逃げ出した。普通に生きるために」

 

その言葉が、霧の中に落ちる。

 

シンは動かない。

 

ただ立っている。

 

「……それでも、ダメか?」

 

少しの間。

 

風が流れる。

 

水面が揺れる。

 

「……ダメっスね」

 

変わらない声だった。

 

「そっか」

 

男は笑った。

 

どこか、納得したように。

 

「だよな。ここはそういう世界だ」

 

ゆっくりと、クナイを抜く。

 

「来いよ。“霧の悪魔”」

 

その呼び名にも、仮面の男は反応しない。

 

ただ一歩、踏み出す。

 

彼らの周囲を霧が包みこんだ。

 

音はしない。

 

気配もない。

 

「相変わらず厄介だな....その術は」

 

「.........すぐ終わるっス」

 

その言葉と同時に、距離が消えた。

 

男が反応するより早く、刃が走る。

 

だが――

 

「まだ、動けるっスね」

 

浅い。

 

男は後退し、距離を取る。

 

呼吸が荒い。

 

「最後くらい、足掻かせろよ……!」

 

突っ込む。

 

クナイが振るわれる。

 

シンは最小限の動きでそれをいなす。

 

地面を滑るように移動し、死角へ回る。

 

静かで、無駄がない。

 

完成された、

 

敵を殺すためだけの動き。

 

「……やっぱり強ぇな、お前」

 

男が笑う。

 

男に向かって、

 

シンの刃が、迷いなく振り抜かれる。

 

――ザッ

 

今度は深い。

 

男の身体が崩れる。

 

辺りに血が飛び散る。

 

「…じゃあな、後輩」

 

倒れながら、男が呟く。

 

仮面の男は答えない。

 

ただ見下ろしている。

 

静寂。

 

水の音だけが残る。

 

仮面の男はしばらく動かなかった。

 

仮面の奥は見えない。

 

何を考えているのかも分からない。

 

やがて、ゆっくりと刃についた血を払う。

 

「……任務完了っス」

 

いつもと同じ言葉。

 

同じ調子。

 

だが――

 

わずかに、間があった。

 

仮面の男がその場を離れる。

 

霧の中へと、溶けるように。

 

しばらく歩き、足を止める。

 

振り返らない。

 

それに意味はないから。

 

「……普通、っスか」

 

小さく呟く。

 

誰もいない。

 

答える者もいない。

 

風が霧を揺らす。

 

「……俺にはよく、分からないっス」

 

その声は、宙に消える。

 

やがて仮面の男は

 

何事もなかったかのように歩き出す。

 

足音はない。

 

気配もない。

 

 

 

 

霧隠れの里。

 

静かな執務室で、女が書類から目を上げた。

 

照美メイ。

 

その前に、白い仮面の忍が立つ。

 

「遅かったわね」

 

「予想よりも数が多かったっス」

 

「怪我は?」

 

「ないっス」

 

短い会話。

 

「相変わらずね」

 

「そうっスか?」

 

「ええ。“霧の悪魔”なんて呼ばれるわけだわ」

 

わずかな沈黙。

 

「.......そんな大層なもんじゃないっスけどね」

 

興味のない声。

 

「次の任務があるわ」

 

「了解っス」

 

軽い説明。

 

それだけで終わる。

 

忍は音もなく去る。

 

最初からいなかったかのように。

 

扉が閉まる。

 

静寂。

 

メイは窓の外の霧を見つめる。

 

「……本当に、便利な鉾ね」

 

その呟きは、誰にも届かない。

 

霧はまた、どこかで濃くなる。

 

その中にいるのが何か――

 

知る者は、ほとんどいない。

 

 

 

 

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