昼下がりのビル街の中に何台もの車が並んでいる。それらはどれもがどこかに向かって進んでいるのだが、物理現象として見れば止まっている。自然現象的には動いている。小さな視点で見れば停滞している。長い目で見れば進行している。
私は自然現象的には動きながら、チーズの固まったハムサンドを齧った。ビニールシートの座席に尻を貼りつけてハンドルを左右して気を紛らわせている。初夏の陽射しがダッシュボードに落ちて車内の景色に明暗を作っている。
私が人を殺す少し前の事だ。
数十メートル先で信号が青に変わり、何度目か分からない前進を再開する。左手に車の無い細い道を見つけた私は、半ば逃避する様に滑り込んだ。
大通りから1つ離れるごとに、周囲の賑やかさも変わっていく。目的地からはむしろ遠ざかってはいた。何度目だろうか周囲から人の声がしなくなった辺りで横断歩道の前に来た。
私は左右をちらりと見て、誰も居ないと決めて走らせたがそれがいけなかった。
「キャア!!」と声がする。
私の車が横合いから飛び出して来た自転車ごと、それを駆る女性を押し倒してしまった!
「いけない!!」ブレーキを踏みから飛び出して向かう。しかし車は自転車の上から女性に乗り上げている。喉が酷く渇く、視界はぐにゃぐにゃと歪み、酷く胸が痛む。私は後から気付いた。車を完全に止めていなかった。ゆっくりと前に進み、前輪が彼女の頭を踏み潰し初めて……私は何をする事もなく手を振り上げ、喉からはひび割れた呻き声が漏れ、どこかから蝉の鳴き声が聴こえた。
気が付いたら排水溝が目の前にあった。周囲ではサイレンがけたたましく鳴り響き、誰とも知れぬ人達が懸命に何かに励んでいる様子だった。
誰かが誰かを呼んでいる。頭が痛い。口が酸っぱい。ハムチーズを食べていたのにな。肩が揺れる。変だな。俺は倒れ伏しているのに。
「聞こえますか!返事をしてください!声が出ないなら首を横に動かしてください!聞こえますか!」
私は救急隊員に抱き起こされていた。頭が痛い。違う。喉がえぐい。違う。胸が苦しい。違う。
私は健康なのに。何も出来ない訳がないのに。私は緩く首を振った。
そこから私は救急車に載せられ、聞き覚えの無い病院にまで運ばれて行った。代わる代わる検査を受け、入院の必要のある様な異常はただの1つも見付からず『ただの健康な人間』として病院を出た。
病院を出た私を、黒いコートの男達が迎えた。私はやはり罪を犯したのだ。
そこからの日々は目まぐるしく、またある日からは同じ場所で同じ時間を過ごす事になる。
7年だった。
塀を出た時、父は既に亡くなっていた。母は連絡が付かなくなっていた。
兄と会った。私との再会を意外にも喜んでくれていた。溌溂とした青年だった兄は目元に幾つも皺を作り、白髪混じりの髪は薄く、頭皮が見え始めていた。
再度、喫茶店待ち合わせて会った時、兄は書類の束を持ってきた。父が遺した遺産のいくらかが私に相続されている事が書かれていた。兄は幾つか確認をして、私は何度かうなづいて判を押した。兄はそれを見届けた後、何も言わずに帰って行った。
私はネカフェに泊まっていた。漫画を読み漁り、ネットの海を渡り、しかし失われた時間はどこかに漂ったままだった。私は今が7年前と同じ様な気がしていて、しかし鏡を見るとくたびれた男と見つめ合う生活を繰り返した。
自分に戻れないのならば、別の誰かになるしかない。私は譲り受けた遺産のいくらかを崩し、外科手術を受けた。親戚に頼んで名字を変え、再び鏡を見れば知らない男がそこに居た。目だけが、見覚えがある。
別の誰かになれた気がした私は、過去を閉ざす様に一心不乱に勉強した。法科大学院を卒業し、司法試験を終えた頃には10年が経っていた。
私は別の名前と、知らない顔で生きていた。人を殺しておいて弁護士になれる訳がないと思っていたが、不思議な事もあるものだ。
夜道を歩く。小さな視点で見れば着実に進んでいる私は、どこかから引っ張られている様な気がしていたが、それが何か分かったまま歩く。だからこそ、目の前に知らない男が立ち塞がっても不思議と驚かなかった。
男は目深に被った帽子を脱ぎ、据わった目で懐に手を入れた。街灯の当たらない所で引き抜かれた拳銃は私の心臓にゆっくりと狙いを定めていた。今夜、初めて人を手に掛けるのだろう。
私は
彼を『弁護』する事に決めた。