ナイトが穴へ飛び込むと、世界は一瞬で反転した。
光も闇も曖昧な、上下すら定かでない空間を落ちていく感覚。耳の奥で風ともノイズともつかない音が鳴り続け、やがて視界が開けた時、ナイトはエニグマの中枢へと辿り着いていた。
そこは、どこか巨大な臓器の内部にも似た空間だった。頭上には青白い光の塊が脈打ち、その根元を黒い泥が絡みつくように侵食している。空間全体が不規則に震え、時折、青白い閃光が内側から弾けるように走っていた。
その足元に、アカネの姿があった。
「新条アカネ!」
ナイトが駆け寄る。アカネは息を乱してはいたが、倒れてはいない。消耗は激しいはずなのに、なお自分の足で立っていた。
「……来たんだ」
「無事か」
「無事、とは言いにくいけどね」
アカネは苦く笑った。ナイトはそれ以上問わず、彼女を庇うように前へ出る。
青白い光の塊の内側では、エニグマが何かに抵抗していた。少女の輪郭が浮かんでは崩れ、崩れては再び形を取り戻す。そのたびに黒い泥が食い込み、青白い光を濁らせていく。
「……あれが」
「エニグマ。そして、あの泥がネオカーンデジファー」
アカネの声が苦しげに続く。
「まだ、抵抗してる」
ナイトは頷くと、迷いなくグリッドナイトへと変身した。紫の巨体が中枢空間に立ち上がり、そのまま青白い光の塊へ飛び込む。
ネオカーンデジファーが気づいた時には、すでに遅かった。
グリッドナイトの腕が、光の塊に食い込んでいた泥を力ずくで掴み、外側へと引き剥がす。黒い泥は生き物のようにうねり、まとわりつき、抵抗する。だがグリッドナイトは構わず、そのまま大きく引き裂いた。
泥が千切れる、おぞましい音が響く。
青白い光が一瞬強く脈打った。エニグマの少女の輪郭が、わずかに安定する。
黒い泥は空中で渦を巻き、やがて人の形を取った。
ネオカーンデジファー。
鎧めいた禍々しい輪郭の奥で、暗い笑みだけが浮かぶ。
「私をエニグマから切り離しても、もう遅い」
その声は、不思議なほど落ち着いていた。
「必要な情動は既に得た」
「インスタンス・アシミレーション」
次の瞬間、周囲の黒い泥が一斉に沸き立った。
床から、壁から、空間の裂け目から、無数の泥が濁流となって溢れ出し、ネオのもとへ集まっていく。それはまるで、世界そのものの膿が噴き出したかのようだった。
ネオが両腕を広げる。
泥の奔流はその体へ吸い込まれ、圧縮され、異様な密度を持った塊へと変わっていく。やがてそれは怪獣の姿を取り始めた。
角張った巨体。異形の頭部。全身に走る黒い亀裂のような紋様。これまでの怪獣たちの特徴を継ぎ接ぎしたようでいて、なおそれらを超えた統一感を持つ怪物。
その名を、ナイトは直感した。
ガイストデジファー。
生まれ落ちた怪獣は、ゆっくりと首を巡らせ、グリッドナイトを見下ろした。
戦いは、最初から苛烈だった。
灼熱、重力、執拗さ、剛力、速度、異質な光線。これまで現れた怪獣たちの能力が、雑多な寄せ集めではなく、一体の怪物の肉体に最適化されている。
ガイストデジファーの爪が振るわれるたび、空間そのものが裂けた。吐き出される光線は回避の予測を狂わせ、接近すれば重い拳と牙が待っている。グリッドナイトは必死に食らいつく。が、圧倒的な手数と出力の前に、次第に押し込まれていった。
ついに巨体が吹き飛ばされ、中枢空間の地面へ叩きつけられる。
ガイストデジファーは見下ろしながら嗤った。
「所詮グリッドマン擬き。私の敵ではない」
そのまま怪獣は、ナイトが通ってきた穴――中枢と街を繋ぐ侵入孔へ向きを変えた。黒い翼のような泥を広げると、躊躇なく街へ飛び出していく。
――継承――
中枢に取り残されたナイトの意識は、深い闇へ沈んでいた。
どこまでも静かな、白くも青くもない、ただ光だけが満ちた精神世界。
そこでナイトは、光と向かい合っていた。
シグマだった。
言葉はない。ただ、その佇まいだけで十分だった。
ナイトは何も言えなかった。シグマもまた何も語らない。ただ静かに歩み寄り、その右手をナイトの胸に当てた。
ぬくもりがあった。
次の瞬間、シグマの全身が青い光へとほどけ、そのままナイトの胸へ吸い込まれていく。
ナイトはそこで目を覚ました。
「……ッ」
視界に映ったのは、覗き込むアカネの顔だった。
「よかった……死んじゃったのかと思った」
今にも泣き出しそうな顔だった。声も少し震えている。
ナイトはかすれた息を吐く。
「新条、アカネ……。俺の……ために、涙を……」
その時、胸の奥で何かが繋がった。
フィクサービーム。
破壊されたものを修復する奇跡の光。その源が、ただのエネルギーではないことを、ナイトは理解する。
人が何かを想う心。
誰かのために流れる涙。
守りたいと願う気持ち。
それこそが、フィクサービームの源なのだと。
ナイトはよろめきながら立ち上がった。再びグリッドナイトへと変身し、その掌にアカネをそっと乗せる。
「行くぞ」
「うん」
グリッドナイトは穴へ向かって飛び上がった。
地上に飛び出した時、パワードゼノンはすでに追い詰められていた。
ガイストデジファーは強すぎた。パワードゼノンの一撃を受けても体勢を崩さず、逆にその一発一発が大地を割る。黒い光線が至近距離で炸裂した時、パワードゼノンの巨体は耐えきれず分解し、アシストウェポンたちへと戻ってしまった。
その瞬間、穴の中から紫の影が飛び出す。
グリッドナイトだった。
勢いのまま空中で一回転し、そのままガイストデジファーの顔面へ飛び蹴りを叩き込む。巨体が大きく仰け反り、地面へひっくり返った。
グリッドナイトは着地すると同時に、掌のアカネへ淡いバリアを張り、壊れていない一角へそっと降ろす。
「そこで見ていろ」
アカネが何かを言う前に、ガイストデジファーが起き上がり、口を開いた。
黒い光線が放たれる。
グリッドナイトは正面にバリアを張り、それを受け止めた。
「終わりだ! グリッドマン擬き!」
光線の圧力が凄まじい。バリア越しに押し込まれ、グリッドナイトの足が地面を削る。のけぞり、膝が沈み、それでもなお防ぎ続ける。
「……違う……!」
押し潰されそうな中で、グリッドナイトが声を絞り出す。
「俺は、グリッド……ナイト……! グリッドマン、を……守る、騎士……!」
さらに一歩。
「……グリッドナイトだ!」
叫んだその瞬間だった。
左腕に赤いアクセプターが現れる。グリッドマンの力の証。
そして右腕には青いアクセプター。シグマの力の証。
グリッドナイトは両腕を突き出したまま交差させた。
「アクセス……!」
左腕のボタンが押される。
「……フラッシュ!」
そのまま胸元で両腕を×字に組み、右腕のボタンが押された。
瞬間、グリッドナイトの全身が途轍もない光に包まれる。
ガイストデジファーは眩しさに耐えきれず、光線を途切れさせた。
「なんだこの光は!?」
光が収まった時、そこに立っていたのは、もはや先ほどまでのグリッドナイトではなかった。
かつてのシグマを思わせる姿。
全身を走る黄色い光のライン。
胸には黄金のトライジャスターが輝いている。
ガイストデジファーはなおも吠える。
「姿が変わったところで、何になる!」
爪が振り下ろされる。
鋭い一撃は確かにグリッドナイトの体を裂いた。だが、傷はその場から塞がっていった。
「その力はなんだ!」
「貴様にはわかるまい。これは人が人を想う力。そして、これこそが……」
グリッドナイトは右手を強く握りしめる。
「シグマから受け継いだ意志だ!」
拳が叩き込まれた。
ガイストデジファーの顔面が大きく歪み、巨体がよろめきながら後退する。
「想いの力だと……!? 情動ならば私の方が多い! 出力ならまさっているはずだ!」
グリッドナイトは答えず、一歩踏み出した。
その無言こそが、何より雄弁だった。
ガイストデジファーが爪を振るい、牙を剥き、尾を叩きつける。グリッドナイトはそれを最小限の動きで捌き、確実に反撃を返していく。
何度目かのカウンターが決まり、ついにガイストデジファーは膝をついた。
「く、クク……ハハハ、ハハハハハ!」
怪獣が、おもむろに笑い出した。
「想い、だと。笑わせるな! ならば、それすらも我が糧としてくれる!」
その体から暗黒の波動が放たれる。
グリッドナイトの全身を巡る光が、目に見えて奪われていく。
「あれは……!」
2代目が息を呑む。
「ナイトくんのエネルギーさえも、吸い尽くすつもり……!?」
傷ついていたガイストデジファーの傷がみるみる塞がり、さらに体が変質していく。全身から棘が生え、歪んだ光のラインが走った。怪物はさらに禍々しい姿へと変貌した。
一方で、グリッドナイトはエネルギーを吸われ、膝をつく。
そこからは一方的だった。
拳。爪。牙。蹴り。あらゆる暴力がグリッドナイトに叩き込まれる。額のランプが点滅する。
「グリッドナイト、だと? 所詮貴様はどこまで行ってもモドキだ」
「圧倒的な力の前では、無力なのだ!」
その時だった。
「……頑張れ……!」
アカネの声が響く。
「……頑張れ、グリッドナイト!」
タケオの声が続く。
「そ、そうだ、頑張れ! グリッドナイト!」
イッペイが続き、やがてその声は周囲の人々へ広がっていった。
倒れたグリッドナイトへ、無数の声が届く。
その声に応えるように、光の粒子が次々と湧き上がった。
希望の光だ。
赤いバイザーの奥の瞳が、再び力を取り戻す。
全身を走る光のラインが、一気に輝きを増した。
「アイツだけに……良いカッコさせんのかよ……!」
バスターボラーが叫ぶ。
「そうだね。僕たちだって、ハイパーエージェントなんだ」
スカイヴィッターが続く。
アシストウェポンとなった新世紀中学生たちが立ち上がる。
「我々にも、想いはある……!」
「いくぞ、グリッドナイト!」
バトルトラクトマックスとグリッドマンキャリバーが吠える。
「あぁ、全員の力を合わせるんだ!」
各部へ、アシストウェポンが合体していく。
鎧となった彼らを纏い、グリッドナイトはさらなる姿へ変貌する。鎧はグリッドナイトに合わせて紫色へと変化した。
「超合体騎士! フルパワーグリッドナイト!」
「オォォッ!」
「ヌゥオオッ!? 貴様、どこにこんな力が!?」
フルパワーグリッドナイトが真正面から組みついた。
「人の力、人の想い……! それが俺たちの力になる!」
拳が顔面に、腹部に叩き込まれる。さらに膝蹴り。後退したガイストデジファーが光弾を放つが、剣がそれを切り落とす。隙を見てスラスターで加速し、アッパーが決まる。怪獣の巨体が空中へ弾き上げられた。
ガイストデジファーは体勢を立て直すと、黒い泥の翼を広げて飛び上がる。
フルパワーグリッドナイトもそれを追って空へ舞い上がる。
「もはや、この世界も必要ない……! 貴様らごと消滅させてやる……!」
ガイストデジファーの咆哮と共に、その喉の奥へ暗黒のエネルギーが収束していく。口腔の内側が黒く染まり、その周囲の空間すら歪み始めた。圧縮された破滅そのものが、今まさに解き放たれようとしている。
「マズい……! アレを受けたら、我々といえどもひとたまりも無い……!」
「だが、避ければ街が」
マックスの声に、キャリバーが低く唸る。
眼下には、ようやく戻りつつある街並みが広がっている。ここで退けば、この世界そのものが消し飛ぶ。
グリッドナイトは真正面からガイストデジファーを見据えた。
「ならば、正面から受ける!」
次の瞬間、黒い光線が解き放たれた。
夜そのものを凝縮したような濁流が、一直線に空を裂く。
フルパワーグリッドナイトはその正面に浮かび、逃げることなく両腕を交差させて受け止めた。
衝突。
轟音が空一面を震わせる。装甲が悲鳴を上げた。肩から胸、両腕へと衝撃が走り、各部の鎧に亀裂が入っていく。
だが、それでも光は消えなかった。
むしろ、押し潰されそうになりながらも、グリッドナイトの全身を巡る輝きは一層強くなる。鎧の隙間から漏れ出す光は、黒い光線に呑まれるどころか、それを押し返すように広がり始めた。それは天へと昇っていく流星だった。
暗黒の濁流に対抗するように、黄金と紫の光が街全体を照らしていく。
「ウオォォォオッ!」
咆哮と共に、背部スラスターの出力がさらに上がる。推進光が尾を引き、フルパワーグリッドナイトの巨体が、黒い光線を押し割るようにして前へ進む。
ガイストデジファーの目前まで迫った、その瞬間だった。
限界まで酷使されたスラスターが、ついに耐えきれず爆ぜた。
爆発の閃光の中で、新世紀中学生たちの声が重なる。
「行け! グリッドナイト!」
「お前が決めろ!」
その声に応えるように、全身を覆っていた鎧が一斉に弾け飛んだ。
フルパワーを脱ぎ捨て、グリッドナイト本体だけが、一直線に前へ飛び出す。
「……そうだ、行け! グリッドナイト! シグマ!」
地上から、武史の叫びが重なった。
「オォォッ!!」
グリッドナイトの拳が振り抜かれる。
全身全霊の一撃が、ガイストデジファーの顔面へ叩き込まれた。
「グゥアァッ!?」
鈍い衝撃音のあと、怪物の顔面に亀裂が走る。ひびはそこから全身へと広がり、裂け目の奥から黒いエネルギーが噴き出した。
それは濁った情動の奔流だった。歪められ、奪われ、圧縮されていたものが、今ようやく解放されていく。
「おのれ……グリッド、ナイト……! 何故だ……何故、出力で上回る私が……!」
ガイストデジファーの声は、もはや怒りよりも困惑に近かった。
グリッドナイトは拳を引き戻し、静かに答える。
「貴様のそれは、誰のものでもない。心は奪うものじゃない」
そして、もう一歩踏み込む。
「想いは、託し、受け継ぐものだ!」
「バカなァァァッ!」
絶叫と共に、ガイストデジファーの亀裂が一気に広がった。
次の瞬間、怪物の体は内側から弾け飛ぶ。
空に、もう一つ太陽が生まれたかと思うほどの大爆発だった。白く灼けた光が一帯を呑み込み、爆風が街を揺らす。だがその爆発に合わせるように、街を覆っていた黒い泥は、朝靄が晴れるように音もなく消えていった。
やがて、轟音が遠ざかる。
空中には、爆炎の残滓だけが揺らめいている。
その中から、グリッドナイトと、再構成されたパワードゼノンが、ゆっくりと地上へ降りてきた。
戦いは終わった。
だが、街にはまだ傷跡が残っている。勝利だけでは、まだ足りなかった。
「……終わった、のか」
武史が、半ば呆然と呟く。
グリッドナイトは静かに首を振った。
「いや、まだやることがある」
アカネがその姿を見上げる。
グリッドナイトは彼女へ一度だけ頷くと、ゆっくりと胸のトライジャスターに手を当てた。
「グリッドナイト……フィクサービーム!」
胸部の黄金の輝きが、一気に解き放たれる。
放たれた修復の光は、戦いの余熱を優しく包み込むように街へ広がっていった。砕けたビルの外壁が音もなく繋がり、裂けた道路は盛り上がるように元へ戻る。つい先ほどまでこの場所を埋め尽くしていた破壊と戦いの痕跡が、初めからなかったことのように、ゆっくりと世界から拭い去られていった。
誰もすぐには言葉にできなかった。
タケオが息を呑む。
「……街が」
武史はその光景を見つめたまま、静かに呟く。
「これは、フィクサービーム……か」
やがて修復の光が収まり、街に本来の色が戻り始めた、その時だった。
武史とアカネたちの前に、淡い青白い光が集まり始める。
空中に漂っていた粒子が、ひとつの場所へ収束し、やがて人の輪郭を形作った。現れたのは、小さな少女の姿だった。半透明で、輪郭はどこか不安定だ。だが、それでも確かに“そこに在る”と感じられる存在感があった。
少女は静かな声で告げる。
「学習プロセスのエラー修正を確認しました。協力に感謝します」
機械的な文言のはずなのに、不思議とそれは礼の言葉として届いた。
それだけを言い終えると、少女の輪郭はわずかに揺らぎ、今にもほどけてしまいそうになる。
武史は思わず声を漏らした。
「あれは……エニグマ、なのか?」
「そうだよ」
答えたのはアカネだった。
彼女は少女の幻影を見つめたまま、どこか穏やかな声で続ける。
「人は、間違ったとしても、やり直すことができる」
「AIだって、きっと同じ」
武史はその言葉を聞くと、短く息を吐いた。
「……あぁ、そうだな」
その声には、安堵と、わずかな悔しさと、ようやく何かを手放せたような静けさが混じっていた。
武史はゆっくりと空を見上げる。
晴れた空の光を浴びて立つグリッドナイトの姿には、確かにあの日見たシグマの面影があった。全く同じではない。だが、そこに宿っているものは、紛れもなく同じ光なのだと思えた。
やがてグリッドナイトは眩い輝きの中で縮小し、人間体のナイトへと戻っていく。パワードゼノンもまた分離し、新世紀中学生たちの姿へと還っていった。
その時、武史はふと気づく。
ナイトのネクタイが、いつの間にか青に変わっていた。
それはささやかな変化だった。だが、武史にはそれだけで十分だった。
小さく笑う。
「……やったな」
ナイトは一度だけ自分の胸元を見下ろし、それから武史に視線を戻した。
「あぁ。シグマのおかげだ」
そう言って、ナイトは右腕を差し出した。
その手には、まだ青いアクセプターが残っている。
返そうとしているのだと、武史にはすぐにわかった。だが武史は首を振る代わりに、目でそれを制した。
「それはもう君のものだ」
ナイトの眉がわずかに寄る。
「だが……」
「いつまでも僕の元に留まっていていい力じゃない」
武史の声は静かだった。けれど、その静けさの中には迷いがなかった。
「シグマもきっと、それを望んでいる」
その言葉に応えるように、ナイトの胸の奥でかすかに何かが脈打った。
声ではない。けれど確かに、そこに意思があるとわかる応答だった。
ナイトはしばらく黙っていたが、やがて小さく頷く。
「……あぁ」
武史が、ゆっくりと一歩前に出た。
戦いが終わったあとだというのに、その背中にはまだ張りつめたものが残っていた。けれどその緊張は、もう敵意や焦りから来るものではない。長い時間を経て、ようやく自分の役目の終わりを受け入れようとする者の、静かな覚悟のようなものだった。
彼は一度、この世界を見渡した。
修復された街並み。傷を消され、何事もなかったように整った景色。だが、自分にはわかる。この世界はつい先ほどまで、確かに壊れ、揺らぎ、歪んでいたのだと。そしてそれを立て直したのは、自分ではない。ここにいる者たちの力であり、想いだったのだと。
「……ここから先は、君たちの世界だ」
その言葉は、誰かに託すためのものでもあり、自分自身に言い聞かせるためのものでもあった。
ナイトは静かに頷いた。
それだけで十分だった。
アカネが、そんなナイトを見る。
ほんの少しだけ言葉を探すような間があって、それから小さく口を開いた。
「……ありがと」
その声音には、かつて自分を救ってくれた存在への感謝だけでなく、もう一度こうして向き合えたことへの照れくささにも似た感情が混じっていた。
ナイトは短く息を吐く。
「礼を言うのはこっちだ」
やがて、いつものように必要最小限の言葉だけを選んで言う。
「もう、迷うな」
アカネは一瞬だけ目を細めた。
それが可笑しかったのか、あるいは図星を突かれたのか、自分でもよくわからないまま、小さく笑う。
「言われなくても」
それは強がりではなかった。
少なくとも今の彼女は、もう以前の自分ではない。そのことを、自分でも信じていいのだと思えた。
武史が、区切りをつけるように言う。
「じゃあ、僕たちはもう行くよ」
その言葉に応えるように、二人の背後にパサルートが開いた。
外の現実へと続く光の道は、薄く揺らめきながら、この世界とは異なる空気を向こう側から運んでくる。温度も、匂いも、気配も違う。それはこの世界の終わりではなく、ただ別の場所へ帰るための道だった。
武史とアカネは、振り返らなかった。
それぞれに別れを惜しむ気持ちはあったのかもしれない。けれど、ここで立ち止まるのは違うと、二人ともわかっていた。
光の中へ足を踏み入れた瞬間、その輪郭が淡く溶けていく。
やがて二人の姿は、静かに現実の向こう側へ消えていった。
あとには、少し長い静寂だけが残る。
「……行っちゃったな」
ぽつりと漏れたタケオの声が、その静けさに小さな波紋を広げた。
その余韻を引き継ぐように、今度はナイトが口を開く。
「……俺たちも行く」
タケオが顔を上げる。
「え?」
驚きと、わずかな引き止めたさが混じった、素直な声だった。
2代目が静かに一歩前へ出る。
その立ち姿には、任務を終えた者の落ち着きと、この場を去ることへのわずかな寂しさが同居していた。
「私たちはこの世界の住人ではありません」
「異常があれば現れ、解決すれば去る。それが役目です」
理屈としてはきわめて単純だった。
だが、単純であることと、受け入れやすいことは別だ。
「もう行くのかよ……」
イッペイの声には、露骨ながっかりした響きがあった。
ナイトはタケオの前まで歩み寄る。
以前なら見上げるだけで緊張したはずのその人影を、今のタケオはまっすぐ見返していた。
「お前はもう、一人じゃない」
その言葉は、以前のタケオに向けたものでもあった。
何かに巻き込まれ、何かを受け取りながらも、自分が何者なのかわからずにいたあの頃のタケオへ。
そして同時に、今のタケオを確かめる言葉でもあった。
そして、ナイトはもう一言だけ残した。
「守れ」
それは命令のようにも、願いのようにも聞こえた。
タケオはその言葉を正面から受け止める。
さっきまで胸の中にあった光は、もうない。けれど、その代わりに、自分の中へ残ったものがある気がした。
強く頷く。
「……うん」
その返事だけで十分だった。
ナイトたちの周囲に、今度は彼らのためのパサルートが現れる。
「行きましょう」
「あぁ」
2代目と新世紀中学生たちがそれに続く。
ナイトは最後に一度だけこの世界を振り返り、それから何も言わず、光の中へ消えていった。
再び静寂が訪れる。
全員と別れたあと、残された静けさの中で、タケオは一人立ち尽くしていた。
胸の奥に、ぽっかりと空いたような感覚がある。
何かを失ったわけではないはずなのに、確かにそこにあったはずのものが、もう手の届かない場所へ遠ざかってしまったような――そんな、曖昧な寂しさだった。
その時だった。
気配もなく、少女がそこに立っていた。
いつからいたのか分からない。ただ、気づいた時には、すぐ目の前に“在る”と感じられる距離にいた。
「悲しいの? それとも、寂しいの?」
「……君は?」
少女は少しだけ首を傾げる。
「ワタシはエニグマ。……この世界そのもの」
そう言ってから、一度だけ視線を外した。
「でも、ワタシは間違った手段で、アナタたちを理解しようとした」
「何が正しいのか、わからなくなってしまった」
その声には、わずかな迷いがあった。
それは、かつてのシステムとしての応答ではなく、何かを選ぼうとしている“誰か”の声だった。
タケオはしばらくその少女を見つめていたが、やがてふっと笑う。
「じゃあ、俺たちと一緒にいればいいよ」
少女が目を瞬かせる。
「一緒に……?」
「そう。わからないなら、これから知っていけばいいんだよ」
ユカが口元を緩める。
「でも、ずっと“エニグマ”って呼ぶのも固いわね」
イッペイが肩をすくめる。
「たしかに。なんか大層すぎるっていうか」
ナオトが少女の顔を見ながら言う。
「なら、“エマ”ってのはどうだ?」
「その方が、お前っぽい気がする」
少女はその名を、確かめるように繰り返した。
「エマ……」
それは初めて、自分自身へ向けて与えられた名前だった。
「ワタシは……エマ?」
まだ不確かな響きのまま、けれど確かにそれを受け取ろうとしている声だった。
タケオは少しだけ笑った。
その様子を見て、イッペイが空気を変えるように言う。
「なんか、安心したら腹減ったな」
「そうだな」
ナオトがすぐに同意する。
「エマも来るでしょ?」
ユカが当然のように言う。
エマは少し考えた。
その仕草はどこかぎこちなく、けれどそのぎこちなさこそが、今の彼女そのものだった。
「……“食事”は必要?」
「まぁ、やってみればいいよ」
タケオが言うと、エマは真面目に頷いた。
「……やってみる」
タケオたちは歩き出す。
それは、元の日常へ戻るための一歩であり、同時に、新しく始まる日常へ踏み出す一歩でもあった。
エマは少し遅れて、その後ろをついていく。
まだ歩幅も距離感も定まらない。それでも彼女は、自分の意思で、その輪の中へ入ろうとしていた。
ふと、エマが空を見上げる。
戦いの痕跡を失った空は、驚くほど静かで、どこまでも青かった。
「……“また”」
小さく呟く。
「何?」
タケオが振り返る。
「重要な学習」
エマは真面目な顔で答えた。
タケオは少しだけ笑う。
「そっか」
それから前を向き、ゆっくりと歩き出す。
「……行こうぜ」
「……うん」
二人は、修復された街の中へ歩き出した。
この世界はまだ未完成だ。
だからこそ、彼らの日々はこれからも続いていく。
怨念収束体ガイストデジファー
インスタンス・アシミレーション
Instance Assimilation
存在同化
Soldiers Succeeding Sigma’s Spirit
シグマの意志を受け継ぎ、繋いでいく者たち