サキュバスを召喚しようとしたら間違って最強のインキュバスを召喚してしまいました 作:佐久間 譲司
女性と別れたあと、女性の柔らかな手の感触の余韻に浸りつつ、図書館を目指した。
変なトラブルに巻き込まれたが、ちょっとした『ご褒美』は貰えたため、僥倖だったと解釈しよう。もっとも、祐真が美女に鼻の下を伸ばしたという事実をリコが知ったら、ひどく憤慨するだろうが。
図書館はすでに目と鼻の先だったので、すぐ到着する。祐真は館内に入った。
相変わらず寂れた図書館だが、さすがに今の時刻は複数の利用者が散見された。時間帯の問題か、小学生や中学生が多かった。
館内に入った祐真は、例の『魔道書』があった本棚のコーナーに近づいた。そのコーナー付近を重点的に、『魔道書』目当てにくまなく調べていく。
しばらく調査を続け、祐真は落胆を覚え始めていた。前回も同じだったが、案の定、今回も『魔道書』ないしは、手掛かりすら発見できない結果となりそうだった。
様々な書籍が並ぶ本棚を眺めながら、祐真はぼんやりと思う。
リコの弱体化についてだ。昨日話してくれた内容が、再現VTRのように、脳内に流れる。
リコは淫魔であるため、生存には人の精が不可欠だ。つまるところ、肉体関係を持つ必要がある。
だが、リコは祐真以外の人間の精を吸うつもりはないという。しかも、祐真が自ら望まなければ、決して精は吸わないと固く決めているらしいのだ。
祐真からしても、その決断は理想的ではある。男との肉体関係は考えただけで鳥肌が立つのだ。つまり、祐真が乗り気になりさえしなければ、禁断の関係に進む可能性はゼロと言えるだろう。
だが、その場合、リコは弱っていく一方だが……。
だからこそ、そういった意味でもリコを『召喚返し』する必要があるかもしれない。
様々な思考が脳内を駆け巡っていた時、祐真ははっと我に返る。
すぐ背後を小学校低学年くらいの女の子たちが数名、楽しそうにお喋りしながらすり抜けていったところだ。
そこでようやく祐真は、自身が他利用者の通行の妨げになっていることに気がついた。
成果も芳しくない。もう帰ろう。
祐真はため息をつき、その場を離れた。
図書館を出た祐真は、きた道を引き返す形で家路に着く。日は傾いており、空は薄暗い。夜の帳が下りようとしていた。
祐真は図書館の敷地から歩道へと足を踏み入れる。通学鞄を小脇に抱え、歩き出した時だ。
背後から声が突き刺さった。
「おいお前!」
男の怒鳴り声。振り返ると、スキンヘッドの大柄な男がこちらに寄ってきていた。顔は憤怒の形相だ。
最初は人違いだと思ったが、どうやら祐真が狙いらしい。一体、どうしたのかと相手の強面の容貌とあいまって、祐真は立ちすくんだ。絡まれる謂れはないはずだが……。
「覚悟しろよ」
スキンヘッドの男は、祐真の眼前にくるなり、こちらの肩を掴んだ。そしてそのまま腹部に拳を突き入れる。
突然のことで、祐真は面食らうが、リコの魔術のお陰で、撫でられたかのように全くダメージはなかった。
それどころか、案の定、相手は拳を押さえてうずくまる。思いっきり殴ってきたためか、血が滲んでいるようだ。
「いきなり何なんだ。あんた」
先ほどのヤンキーの知り合いかもと一瞬思ったが、何だか違う気がした。どこか様子が変なのだ。祐真に対し、猛烈な殺意があるような……。
祐真はうずくまっている男をその場に残し、背を向けて駆け出した。早く離れたほうが懸命のようだ。
歩道をひた走ったあと、道の真ん中で立ち止まる。息を整えながら背後を振り返ると、誰も追ってきていないことを確認できた。
祐真はほっと息をつく。
何なんだろう一体。さっきから。
OL風の女性に絡んでいたヤンキーといい、さっきのスキンヘッドの男といい、今日はやたらと物騒だ。この地域も治安が悪くなってきた証なのか。
祐真は足早に歩き出す。不安なので、早めに帰宅したほうがいいだろう。
リコの『コルプス・フォート』のお陰で事なきを得ていたが、この魔術には時間制限がある。今日中が使用リミットであり、日付を越えると使えなくなってしまうのだ。魔術からリコの存在が発覚する危険性を考慮してのことである。
しばらく歩き、商店街に近づいた時だ。
「いたぞ!」
唐突に二人の男が、祐真の進路上に立ち塞がった。大学生くらいか、二人とも真面目そうな印象のある若い男たちだ。
そいつらは、まるで獲物を発見したハンターのように、鋭い視線を祐真に送ってきていた。敵意に満ち溢れていることが確信できた。
祐真は立ちすくむ。狙いは自分だと察知した。なぜだろう。当然、知らない男たちだ。狙われる理由もない。やはり、今日はとても妙だ。
二人の男はこちらに駆け寄ってくる。そのうち片方の男の手には、鉄パイプが握られていた。
近くを歩いていた年配の女性が、何事かと魔を丸くする。男たちは祐真の眼前まで肉薄していた。
片方の男が、鉄パイプを振り上げる。そして、容赦なく振り下ろされた。
祐真は片手で男の鉄パイプを受け止めた。アンダースローの投球をキャッチするように、とても容易だった。痛みもダメージもない。
男は相変わらず獣のように、敵意がこもった形相でこちらを睨んでいる。祐真の背筋に冷たいものが走った。
「お前ら、なんなんだ」
祐真は、鉄パイプを握ったまま言う。足が少し震えていた。とても嫌な感じだ。これはもしかして。
腕に力を込め、男の手から鉄パイプを奪い取った。しかし男は怯まず、即座に殴りかかってくる。もう一人の男は、こちらの背後に回りこもうとしているのを目の隅で捉えた。
タッグプレイに、祐真はたじろぐが、魔術のお陰で対処可能だ。
祐真は男の拳が体に届く直前に、腕を使って男の手を払いのけた。たったそれだけで、男はもんどり打って地面に倒れた。
魔術で力が強化されたお陰だ。無論、手加減はしているので、命に別状はないはずだが。
風圧を感じ、祐真は振り返った。同時に、腹部に物が当たる感触。背後に回りこんだ男が、腹部に拳を突き入れたのだ。
しかし、もちろん逆効果。男は拳を押さえてうずくまる。祐真は手に持っていた鉄パイプを男の足元に投げ捨てた。
いつの間にか、通行人が集まってきていた。祐真は顔を伏せ、男たちをその場に残したまま、足早に立ち去る。
商店街を抜けたところで、祐真は頭を抱えた。商店街の外れなので、周囲に人の気配は少ない。店舗も個人経営の小さな喫茶店だとか、BARが目に付く場所だった。
祐真は深く黙考する。どう考えてもおかしい。あまりにも立て続けに『絡まれ』過ぎている。これはどうしたことか。
理由は不明だが、間違いなく、魔術といった要素が絡んでいると思われた。淫魔術の時のように、背後で何かが跋扈しているのだ。
すぐにでも帰宅して、リコに報告をしなければ……。
祐真は走り出そうとする。それと同時だった。近くにあった個人経営の喫茶店から、人が出てくる姿が見えた。
それは三人の制服を着た女の子たちだ。祐真と同じ高校生だと思われた。他校の生徒だろう。
その女子高生たちは、祐真を見るなり、声を張り上げた。
「いたよ! 例の奴だわ!」
「皆、ここにいるよ!」
慟哭にも似た絶叫が、辺りに響き渡った。
走り出そうとしていた祐真は、体を硬直させる。ぞくりと、首筋に嫌な感覚が走った。
女子高生たちが声を上げた直後、近くにあるBARや定食屋などの様々な店舗から、次々に人が出てきた。年配の人間や、若者、学生と思しき制服姿の者。複数いる。
「あいつか」
「捕まえろ! 殺せ!」
「逃がすな!」
出現した人々は、次々に物騒な言葉を口に出す。彼らの中には、手にバットや調理に使っていたのだろうか、包丁を持っている者もいた。
彼らは、祐真に向かって一斉に走り出した。つまり、襲ってきたのだ。
慄然とする祐真。まるで暴徒を前にしたかのような騒然とした光景だ。思わず息を飲む。
包丁を持った定食屋の店長と思しき男が、目の前まで迫る。その後ろには、祐真を発見した女子高生たちが続いていた。
祐真は逡巡する。俺はどうすればいいのか。リコが施した『コルプル・フォート』の効果はまだ生きている。襲ってくる人々全員と充分に渡り合えるだろう。しかし、相手は多数だ。混戦になるだろうし、下手をすると死人が出るかもしれない。それに――。
祐真は決断を下した。迫りくる人間たちに背を向け、逆方向に走り出したのだ。
ここは逃げる他ないだろう。下手に戦ったら、騒動になる。警察だって出動してくるかもしれない。そうなると、祐真の不思議な力から、最終的にリコの存在まで発覚する可能性があった。
それに、スマートフォンの所持率が百に近い現代、誰かから動画を撮影される危険性もある。ネットにでも流されれば、祐真は一巻の終わりだ。
「逃げたぞ!」
「待て」
「追いかけろ!」
駆け出した祐真の背に、人々の声が突き刺さる。集団レースのスタートのように、複数の人間が走り出す音が背後から聞こえてきた。
『コルプス・フォート』の力を駆使し、祐真は全力で疾走する。
方向としては、自宅があるアパートは逆方向に向かっている状態だ。どうしようもなかった。進行方向がちょうど彼らによって塞がれていたためだ。
商店街があるエリアから随分と離れ、暴徒化した人々を撒いたことを確認した祐真は、足を止めた。ちょうど近くにあった小さな公園に一時避難する。
ポケットからスマートフォンを取り出し、リコに電話をかける。電話はすぐに取られた。
「もしもし、リコ?」
『祐真かい? 随分と遅いようだけど、どうかしたの? 今日の夕飯は祐真の大好きなハンバーグだよ』
現状とはまったく逆の、リコの安穏とした口調に祐真は焦りと怒りを覚えた。
「それどころじゃないんだ、リコ。大変なことが起こってて……」
祐真はリコに説明を行う。色々な人間に絡まれ、しまいには暴徒と化して襲われた出来事などをつっかえながら話す。
話を終えると、電話の向こうでリコが真剣味を帯びた様子が伝わってきた。
『なるほど。おそらく、それは退魔士の仕業だね。花蓮や沙希と同じく、推進派のメンバーに違いない』
「沙希とは違う退魔士なの? 沙希本人の仕業じゃなくて?」
祐真は、一連の現象を鑑みて、昨日逃げ延びた沙希が再度攻撃を仕掛けてきたのだと解釈していた。
『沙希の仕業じゃないよ。昨日の今日の話だ。あれほどの痛手、そう簡単に癒せるわけがない。沙希は今もって、戦闘不能だよ』
「なら、新手の推進派メンバーが……」
昨日に続き、早急な気がするが、他に説明がつかないのも事実だ。
くそ。また厄介事だ。祐真はうんざりする。しかも、今回は殊更面倒そうだ。
祐真は質問する。
「どうして人々が襲ってくるの?」
『詳細はわからないけど、魔術で操られているのは確かだね。術者本人を発見しないと解決できないかも』
「どうすればいい?」
『まずは僕が祐真の元にいくよ。君の安全を確保するのが先だ。今どこにいるんだい?』
祐真は、現在位置をリコに教えた。リコが助けにくればもう安心だ。今までのように、きっと俺を守ってくれるはず。弱体化の件が心配だが、リコは大丈夫だと言っていた。ここはリコに頼る他、術はないのだ。
『僕がいくまでそこで待機してて』
リコがそう言い、通話が終わった。祐真はスマートフォンをポケットに戻した。
それから公園内を見渡す。住宅街の真ん中にあるこの公園には、ブランコや、滑り台など定番の遊具が並んでいた。隅には、公衆トイレもある。こじんまりとしているが、最低限の設備は揃っているらしい。
祐真は公衆トイレに近づいた。そして、誰も見ていないことを確認し、男子トイレに入る。
中は無人だった。小便器が壁に二つ備え付けられており、反対側に個室用トイレが設置されてあった。
祐真は試しに、個室用トイレのドアを開けてみる。そこにも人はいない。明かり取りの窓があるお陰で、光が差し込み、光源がなくても内部は確認できた。
祐真は、個室に入り、内側からロックを掛ける。ここでリコがくるまで潜伏するつもりだった。
蓋がしてある便器に腰掛け、ほっと息を吐く。突如見舞われた異常事態に、神経が疲弊していた。見ず知らずの人々に襲撃されるのは、同じ高校の生徒たちに襲われるよりもまた違った恐怖を祐真に与えるのだ。
便器の上に座ったまま、じっとしているうちに、少し時間が経った。ふと、個室の外に人の気配を感じた。
足音だ。誰かが男子トイレに入ってきたらしい。ゆっくりと探るような足取りだ。
足音は、個室用トイレの前で止まった。祐真はリコが到着したのだと思った。ほっとして、声をかけようとする。
ほぼ同時だった。トイレのドアが激しくノックされた。ノックというよりかは、もはや殴りつけると表現したほうが正しいか。個室トイレが揺れるほどの強い力だ。
「おい、羽月祐真! 中にいるのはわかっている。出てこい!」
怒鳴り声。リコではない。知らない男のものだ。おそらく中年くらいの。祐真を名指ししている。
祐真は息を飲んだ。心臓の鼓動が早くなる。間違いなく、これは『敵』だ。出てはいけない。リコが助けにくるまで耐えなければ。
祐真が決心した時、さらなる足音が聞こえてきた。トイレの入り口からだ。トイレを叩いている男のものとは別の足音。しかも、複数だ。遠足の最中、ぞろぞろと集団でトイレを利用するかのような、大勢の人間が入ってくる音。
トイレのドアが叩かれる中、便器に座っている祐真の手の平にじんわりと汗が滲む。尿意はないはずなのに、小便がしたくなった。
「クソガキ! さっさと出てこい!」
「追い詰めたわよ! 逃げられないから覚悟しなさい」
「いい加減観念しろよ」
老若男女入り混じった罵声だ。公衆トイレを割らんばかりの勢いで、内部に響き渡る。
やがてドアがさらに激しく叩かれた。木製のドアが軋み、破片が飛び散った。ゾンビのごとく、複数の人間がドアを破ろうとしているのだ。
まずい。このままだとドアが壊され、引きずり出されてしまうだろう。
祐真は立ち上がった。それから、背後にある壁の上部に顔を向ける。
そこには明かり取りの窓があった。入り口が塞がれている以上、もうここしかない。
祐真は、便器のタンクの上に上り、窓に手を掛けた。上開きの窓であるため、手前に引いて蓋を開けるようにして窓を開ける。
人が通れるくらいの隙間が開いたところで、祐真はよじ登り、上半身だけを外に出した。
窓の外は、ちょうどトイレの裏手にあたり、生垣や小さな倉庫が見える。人の姿は確認できず、裏手にはまだ『敵』の魔の手が迫っていないことを示していた。
祐真は上半身を外に出した格好のまま、腕の力だけを使って、完全に窓に上る。そして、窓枠を掴んで、全身を外に出した。
体を捻り、トイレの外壁に足を掛けながら下りる。肉体強化の『コルプス・フォート』のお陰で、スムーズに事が進んだ。
地面に足が着き、砂地の感触が伝わってきたことで、祐真は無事、トイレからの脱出に成功したことを実感した。
祐真はそのまま周囲を見渡す。目の前には、生垣があった。その先に住宅街の路上が伸びている。
今もトイレの内部から、扉を叩く音が聞こえてきていた。トイレの正面に戻るのはまずいだろう。『敵』の集団が控えているに違いない。
逃げるならここからか。祐真は正面の生垣に近づいた。
すると――。
「いたぞ!」
成人男性の声がこだまする。いつの間にか、『敵』がトイレの裏手に回り込んでいた。一人の若い男だ。耳にスマートフォンを当てている。まるでトイレから出たことを察知したかのような動きだ。
ぞろぞろと他の人間たちが裏手に集まってくる。全員が、目に狂気が宿っていた。中にはナイフや木刀など武器を持っている者もいる。
「殺せ!」
一斉に、祐真へと襲い掛かってくる。
祐真は慌てて生垣を飛び越え、路上へと出た。なおも追ってくる人間たちを背後に控え、祐真は走り出す。
祐真は焦った。リコとの待ち合わせ場所が遠ざかっていく。また連絡を取り、どこかでリコと合流をしなければ。
日が落ちていく住宅街の路上を駆けながら、祐真はそれにしても、と思う。
疑問が生まれていた。どうして追っ手の人間たちは、祐真の居場所がわかったのだろうと。
公衆トイレに潜伏を開始した時もそうだったが、先ほど裏手に脱出した時もそうだ。ピンポイントで祐真を捕捉していた。まるで、こちらの動きを完全に把握しているかのように。
監視でもされているのか……。
しかし、その場合、どうやって? これまで散々、縦横無尽に駆け回って逃げていたのだ。そんな人間を誰がどのようにして捕捉するというのか。
祐真の中に生まれた疑念は、逃げている最中、ずっとくすぶり続けていた。