明治生まれの特級呪術師は、泥人形の夢を見るか? 作:須川ユイ
浅次郎の父の名は、
山仕事で生計を立てる、どこにでもいる男だった。口数が少なく、笑うことも多くはなかったが、息子の頭を撫でる手だけは、いつも柔らかかった。
妻の名はふじといった。
よく鼻歌を歌いながら食事の準備をする女だった。息子が泥だらけで帰っても、怒らずに手ぬぐいを投げてよこすような人だ。
あの夜の時、彼らは覚悟していた。
村の空気は、もう隠しようがなかった。
怪死が続き、物の怪の仕業だという声が広まり、その矛先がどこへ向かうかは、考えるまでもなかった。
だから惣吉は床下を作った。隠し場所を、前もって。
ふじは何も聞かなかった。
ただ、ある夜、惣吉が床板を外しながら言った。
「もし何かあったら、ここに浅次郎を入れろ」
「……うん」
「それだけでいい」
ふじは頷いた。
それだけだった。
声が来たのは、深夜だった。
松明の光が、窓の外に揺れた。
足音が、複数。
惣吉は立ち上がった。ふじは浅次郎を抱えて、床下に押し込んだ。板を戻した。箪笥を引いた。
扉が、外から叩かれた。
「開けろ」
惣吉が、表へ出た。
ふじは、その背中を見た。大きな背中だった。いつもと同じ、土と汗の匂いがする背中だった。
それが、最後だった。
ふじが引き据えられたのは、それから少し後のことだ。
居場所を言え、と言われた。
知らない、と言った。
お前たちは妖術にかけられているのだ、騙されているのだ、そう言われた。
痛みは、途中から感じなくなった。
その代わり、妙なことを考えていた。
浅次郎が、今日の朝ご飯を食べていないことを思い出した。帰ってから食べる、と言っていた。あの日の朝。あれはいつの話だろう。
居場所を言え、と、また言われた。
知らない、と言った。
ふじの意識は、その辺りで途切れた。
惣吉の方が、少しだけ長かった。
ふじが倒れるのを見た。
それからは、何も考えなかった。
ただ、黙っていた。
居場所を言えば終わる、と分かっていた。
でも、言わなかった。
なぜかと問われれば、答えられなかった。
ただ、言わなかった。
惣吉の意識が途切れる直前、妙なことを思った。
浅次郎は、土が好きな子だった。
朝、霜を踏みながら笑っていた。
泥だらけになっても、嫌な顔ひとつしなかった。
そういう子だった。
それだけを、思った。
◆ ◆ ◆
夜永は、その記憶の最後まで、歩き続けていた。
流れ込んでくる情報の量は膨大だった。浅次郎の記憶だけではなく、両親の記憶までもが、土地を通して染み込んでくる。
それが術式の仕組みだとは、この場に入って初めて分かった。
村民として、人柱として取り込むための工程。
愛情も、意志も、関係ない。ただ、近くで死んだ者の呪力が、土地に染み付いて、流れ込んでくるだけのことだ。
しかし、この記憶を見続ければ。見続けなくとも、同情などしてしまえば。呪いに耐性のない非術師は瞬く間に取り込まれる。そういう術式なのだろう。
ただ、それだけのことだった。
夜永は歩きながら、止まりかけた足を動かし続けた。
呪霊の本体は、地下空間の中心にいた。
赤茶けた天井の、最も遠い場所。
そこに、それはいた。
小さかった。
拳ほどの大きさしかない、丸いものだった。
形は、人間の胎児に似ていた。膝を抱えて、丸くなっているような。
動かなかった。
声も出さなかった。
ただ、夜永が近づくと、足元の地面が僅かに波打った。
それが、全てだった。
地上の式神に戦闘能力の大半を移しているのだろう。それを差し引いても、これは抵抗と呼べるものではなかった。
夜永は足を止めた。
しばらく、その小さな塊を見ていた。
「……お前の両親は」
声が出た。
自分でも、出すつもりはなかった。
「死ぬその時まで、いや、死後に至っても、お前を愛していた」
それは事実だった。
流れ込んできた記憶が、そう言っていた。
ただ、それはお前に伝わることなく、土地に染み付いただけだ。お前が望んだからでも、両親が望んだからでもない。
ただ、近くで死んだから、流れ込んだだけのことだ。
夜永は、それを言わなかった。
「願わくば、お前の父母と共にあることを願っているよ。浅次郎」
刀を抜いた。
一閃。
音もなかった。
抵抗もなかった。
黒い粒子が、静かに、散った。
粒子が消えると同時に、地下空間が揺れ始めた。
領域が、崩れていく。
瞬きの間に、地上に立っていた。
朝日が顔を見せ、光を照り返す雪の白さが、目に痛かった。
空は、晴れていた。
夜永は立ち止まり、空を見上げた。
弁柄色の天井は、もうどこにもなかった。
小さく、息を吐いた。
白い息が、冬の空に溶けていく。
それから、歩き始めた。
◆ ◆ ◆
囲炉裏の火が、静かに爆ぜていた。
九京綴が目を覚ましたのは、炭の音がしたからだった。
体の節々が、悲鳴を上げている。肩。肋骨。腹の奥。ゆっくりと起き上がろうとして、すぐに諦めた。
向かいを見た。
夜永が、眠っていた。
床に身を預け、囲炉裏の火を向きながら、静かに眠っていた。
子どもが眠るような、無防備な顔だった。
九京は、それを見て、少しだけ可笑しくなった。
笑うと、肋骨が痛んだ。
「……痛い」
その声で、夜永が目を開いた。
一瞬で覚醒する目だった。
「起きましたか」
「……君こそ、いつ帰ってきたんだい?」
「早朝には。まだ寝ていたほうがよろしいのでは」
「いや、もう十分寝た」
九京はそう言いながら、壁に手をついてなんとか姿勢を整えた。全身がきしむ。
「君、やはりその口調が素じゃなかったんだね」
「……それは、どういう」
「戦闘中の独り言で、君の勇ましい話し方を聞いていたよ?良いじゃないか。そっちのほうが似合っているよ」
もはや取り繕う必要がないと感じたのか、多少荒い口調で、夜永は返答した。
「……硬貨の探知は、音も拾えるわけか」
「いやいや、物理的な動きのみだよ。口の動きから話している内容がわかるけどね」
「なるほどな。……他の人間がいるときは、流石に取り繕わせてもらうぞ、“九京”」
「ご随意に、“夜永”」
目を細めながら、含み笑いを浮かべる九京の顔に、夜永は多少の苛つきを覚えるが、まぁいいかと無視した。
会話が途切れ、火の弾ける音が静かな部屋に響くのを感じる。
「祓えたのかい」
「……あぁ。本体を切った。領域の消滅も確認したから、もう問題ないだろう」
夜永は呪霊を切ったあと、周囲の状況を確認していた。村中にあった残穢は、領域の消滅と共にその殆どが掻き消えた。地下空間と同じく、地上も一種の領域であったのだろうと予測している。
「そうか。……どんな相手だったんだい、中では」
夜永は少し間を置いた。
「子どもだよ。親に愛されて育った、ただの子どもだ」
それだけ言って、夜永は目を閉じた。
九京は、それ以上聞かなかった。
昼頃になってから、二人は互いの損耗を確認し合った。
九京は攻撃を受けた肩と、肋骨の二本が骨折。腹の内臓も傷ついており、術式の行使と出血多量が重なって、立ち上がるのがやっとの状態だった。
夜永は肋骨が一本折れており、両腕の骨に細かいひびが入っている。打ち身は数え切れない。
「……笑えないね」
「生きているだけましだろう」
「それはそうだけど」
九京は片手で眼鏡の位置を直した。片腕を上げると、肩に響く。
「下山できるのかい、これで」
「呪力も多少回復したし、私の術式で応急処置はしておこう。担いでいくのは勘弁だから、あとは自力で頑張ってくれよ」
「……ほんとに取り繕わないな。可愛くない部下だよ」
「これの方がいいと言ったのはそちらだろうに」
二人は、しばらくそのまま黙っていた。夜永の分骨によって作り出した添え木を、辺りの衣服を切り裂いて包帯代わりに巻きつける。
囲炉裏の火が、また爆ぜた。
「……行くか」
「そうだね」
雪を踏む音だけが、二人の間を埋めていた。
下山の道は、来た時と同じ道だった。
でも、昨日とは違って見えた。
しばらく歩いてから、九京が口を開いた。
「あの呪霊、話していたね。お父さんが名前をつけてくれたと」
「あぁ。術式は七歳頃に発現したらしい」
「随分と遅咲きだったんだね。呪霊との関わりもなく、その歳まで生活できていたのか」
「人口も少なく、分散している。いても羽虫程度のものだったんだろう。しかし、術式が発現した彼に対して、村人たちは疑惑と恐れを抱かずにはいられなかった。その負の感情が、呪霊を呼び寄せた」
「……呪霊被害を、彼の仕業だと誤解したのか」
九京は雪を踏みしめながら、少し考えた。
「この時代、帝都から離れれば離れるほど、呪術師は迫害の対象になる。政府が術師を集めようとしているが、手が届く範囲が狭すぎる」
「……そうだな」
「あの子が生まれたのが帝都だったら、あるいは違ったかもしれない」
夜永は答えなかった。
九京は続けた。
「……もっとも、政府が呪術師を囲い込むことが、本当に術師のためになっているかは、別の話だけどね」
夜永は、その言葉に足を止めかけた。
九京は政府の術師運用に否定的なのか? 確かに政府に見つかれば、軍人としての人生を歩まされるわけではあるが……
(……何を隠している)
言葉の端に、それ以外の感情が表れているように聞き取れた。しかし、夜永は酷く疲れていた。今はなにも、考えたくなかった。
「それでも、市井で忌み嫌われてのたれ死ぬよりかはマシだろう」
「へぇ? 聞いてたんだ」
「聞いた?なんの事だ?」
九京は少し戸惑った表情を見せ、笑った。
「……いや、なんでもないよ」
「……?」
ただ、眼鏡の位置を直して、また歩き始めた。
雪を踏む音が、また二人の間に戻ってきた。