サブサブタイトルは仲の悪い2人が一緒に出張に〜〜⁉️一体全体この先どうなっちゃうの〜〜⁉️です。
あとがきに挿絵あります。
加茂家本邸に朝の光が差し込む頃には、庭の白砂は既に整えられていた。
掃き跡はまっすぐで、松の影は乱れず、水盤の水面には風一つ立っていない。
屋敷そのものが呼吸を整えているような静けさであった。
その静けさの中を、ひとりの使いの術師が足早に進んでいた。
廊下を駆けることこそしないが、その歩幅には明らかな急ぎがある。
やがて一室の前で足を止め、襖の外から深く頭を下げた。
「当主殿」
返事は、少し間を置いてから返ってきた。
「入れ」
声は穏やかで、急かす色がない。
襖を開けると、部屋の中心部に加茂家当主加茂憲倫。
黒の和服を着流し、膝の前には紙が広げられている。書見でもしていたのだろう、硯の脇には細い筆が置かれていた。寝起きの気怠さは既に消え失せているが、それでも彼の姿にはどこか朝の余裕が残っている。
「随分と急ぎ足であるな」
憲倫は使いの顔を見て、くつりと笑った。
「誰か死んだかね」
「い、いえ。そのような不吉なことでは」
「ならば結構」
彼は筆を脇へ置き、使いへ視線を向けた。
「して、何用である」
使いは懐から封を切られた紙束を取り出し、畳へ置いた。
「北方より急報にございます。奥州筋、仙台藩領との境に近き村々で、凶作に伴う呪いの発生が相次いでいるとのこと。すでに複数の集落が機能を失い、飢えに取り憑かれたような死者が続出。現地に派遣された二級以下の術師は帰らず、追って任務に当たった一級相当の者も一名、消息を絶ったとの記録がございます」
「ほう」
憲倫は紙束を取り、ざっと目を走らせた。
「飢えか」
「は」
「古く、強い」
彼は紙面を追いながら呟く。
「飢饉の記憶は土地に残る。加えて東北であれば、冬の長さと寒さも相まって、人の恐れは深く沈殿しておろう」
使いは答えを待ったまま頭を垂れている。
「続けよ」
「御三家共同の対応とするよう、上から沙汰が下りました」
その瞬間、部屋の空気がほんの僅かに変わった。
憲倫の顔色は変わらない。変わらないが、目の奥で何かが面白がるように光った。
「共同、とな」
「は。今回の案件は特級へ至る可能性が高いと見做されております。ゆえに、単家での対処は避けよとのこと。加茂家より当主殿、禪院家より現当主が派遣されます」
「五条家は」
「別の任務に当たっているそうで」
「そうか」
憲倫は紙束を畳へ置いた。
「顔を合わせたくない相手を減らしてくれたのだから、まずは礼でも述べておくべきか」
使いは返答に困り、黙る。
その様子を見て、憲倫は喉の奥で小さく笑った。
「冗談である。半分ほどはな」
彼は立ち上がった。
「禪院の当主は今は誰であったか」
「禪院宗春殿にございます」
「宗春、か」
憲倫は一度だけその名を繰り返した。
禪院宗春。
武家めいた厳しさと、家そのものの傲岸さをそのまま形にしたような男であると噂に聞く。年頃は憲倫より幾つか上。術師としての力量は疑いなく一級。もっとも、禪院家の男が自分を一級などと控えめに言うことはあるまい。恐らく自らを「現代最強」とでも思っているに違いない。
「面倒そうであるな」
憲倫はそう言いながら、なぜか少し愉しげだった。
「しかし、飢えの呪いと組まされる相手としては悪くない。禪院の男は大抵、ああいうものを真正面から斬りにゆくであろうからな」
「当主殿」
「何だ」
「……その、どうかご自重を」
使いは恐る恐る言った。
「禪院家との折り合いは、決して良いとは申せませぬ。現地にて無用の摩擦を生まれませぬよう」
憲倫は目を瞬かせ、それから少し肩を竦めた。
「私が喧嘩を売ると思うておるか」
使いは答えない。
答えないことそのものが答えだった。
「心外であるな」
憲倫は苦笑した。
「私は至って温厚であるぞ」
使いはますます言葉を失った。
「まあよい」
憲倫は文机の上に置かれた数枚の書付をまとめ、帯の内へ差し入れる。
「出立はいつだ」
「本日中に」
「結構。朝餉の後に支度を整える」
そこで彼はふと立ち止まり、使いへ視線を向けた。
「ところで、その報告に“喰い残し”はあるかね」
「喰い残し、でございますか」
「生き残りである」
彼は言い直した。
「全てが飢え死にしておるのでは、呪いの育ち方として少々早すぎる。恐れを長く煮るには、まだ生きておる者がいるはずだ」
使いは報告書の末尾を急ぎ確認した。
「……は。はい。現地を離れた百姓の証言がございます。複数の村で、夜ごとに子供の泣き声が聞こえ、翌朝には納屋や土蔵から米が消える、と」
「ほう」
「ただし、盗人の足跡はなく、痩せ細った者が田畑の土を掘り返して口へ運んでいたとも」
「よい」
憲倫の目が、僅かに細くなる。
「それで十分である」
使いが下がると、部屋には再び静けさが戻った。
憲倫はしばし紙束を眺め、それから窓の外、白砂の庭へ目をやった。
「飢えか」
ぽつりと呟く。
飢えは恐ろしい。
剣よりも、火よりも、ある種では深い。人を弱らせ、奪い、壊し、しまいには人であることすら削ってゆく。
飢えそのものは、術式ではない。
だが、飢えを恐れる人間の心は、どれほどでも呪いを生む。
「人の腹は、誠に正直である」
憲倫は立ち上がり、襟を整えた。
「さて、どのような顔をして現れるかな」
## ※
朝餉の後、出立の支度を終えた憲倫は、表へ向かう前に一度だけ奥の間へ立ち寄った。
そこには既に数名の家人と術師が控えていた。
古参の術師、側近、若手が二人。いずれも前夜の空気を覚えている顔ぶれである。
「東北まで赴かれるとのこと」
側近が頭を下げる。
「うむ」
憲倫はあっさり答えた。
「しかも禪院と一緒だそうで」
若手の一人が言って、すぐに口をつぐむ。
言い方が軽すぎたと気づいたのだろう。
憲倫はその若手を見て、くつりと笑った。
「嫌そうな顔をするでない。祝言へ向かうわけではない」
「ですが……」
若手は言い淀む。
「禪院家当主となれば、さぞ…」
「嫌な男であろうな」
憲倫が代わりに言った。
若手は困った顔で黙る。
「安心せよ」
憲倫は帯を締めながら続ける。
「向こうも同じように考えておる」
古参が低く咳払いをした。
「当主殿」
「何だ」
「御三家共同任務にございます。ゆめゆめ余計な火種を増やされませぬよう」
「心外であるな」
憲倫はまた言った。
「皆して私を何だと思っておる」
今度は誰も答えない。
「……まあよい」
彼は肩を竦めた。
「ところで、禪院宗春について、そなたらは何を知っておる」
側近が一歩進み出る。
「術式は明言されておりませぬが、禪院家相伝の体術と呪具運用に優れ、近接戦闘では家中随一と聞き及びます。性質は苛烈。加茂家に対してはとりわけ露骨であるとも」
「露骨とは結構」
憲倫は笑う。
「隠しておるよりは、よほど付き合いやすい」
「それと」
側近は一瞬だけ言葉を選んだ。
「宗春殿は、当主殿を“一級としては器用に過ぎる男”と評したことがあるそうです」
「ほう」
「褒めてはおりませぬ。むしろ、信用していないような言い方であったとか」
憲倫は少し考え、それから面白そうに目を細めた。
「よいではないか。私も禪院の男を、腕の立つ猪と認識しておる」
「当主殿」
「冗談である」
半分ほどは。
その言葉は口にしなかった。
若手のもう一人が、遠慮がちに尋ねる。
「今回の相手は、やはり特級になるのでしょうか」
「なる可能性が高い、というところであろうな」
憲倫は答えた。
「既に広域に被害が出ておる。土地に飢えの記憶が積もっており、そこへ今の凶作が重なっておるのであれば、核が育つのも早い」
「核、ですか」
「呪いはしばしば、恐れの中心に“胎”を持つ」
彼は指先をひとつ立てた。
「飢えの呪いであれば、誰かが食を奪われるだけでは足りぬ。見て、耐え、怯え、次は自分かもしれぬと想像する者たちの中で、よりよい形に固まる」
「では、まだ姿を持たぬうちに断てば」
「最もよい」
憲倫は頷く。
「だが今回は、その“前”を探す仕事も含まれるであろう。禪院の男がその辛抱を持つとよいのだが」
古参が静かに言った。
「宗春殿が待てぬと見ておられますか」
「待たぬであろうな」
憲倫は即答した。
「腹を空かせた狗に、目の前の肉を前にして座れと言うようなものだ」
若手が思わず吹き出しかけ、古参に睨まれて咳払いで誤魔化す。
「だがそれも悪くない」
憲倫は黒和服の袖を払った。
「前へ出てくれる者がいるのなら、こちらは後ろからよく見える」
側近はその言い回しに、ほんの僅かだけ目を細めた。
「当主殿」
「何だ」
「今回は、どうか“見過ぎ”ませぬよう」
憲倫は一瞬だけ相手の顔を見た。
その言葉の意味を、無論理解している。
「努力はしよう」
とだけ言って、彼は立ち上がった。
「では行ってくる」
「ご武運を」
「うむ」
その返事は軽い。
しかし誰よりも重く、確かな足取りで、加茂憲倫は表へ向かった。
## ※
東北への道は遠かった。
都から離れるほどに空気は乾き、風は肌を刺すようになる。
道中の村々には既に凶作の気配が滲んでいた。畑の土は痩せ、干した菜の葉は薄く、道端で子を背負う女の頬は削げている。
憲倫は馬上からそうした景色を眺め、時折休息の折に水場や土の匂いを確かめた。
「当主殿」
同行の術師が馬を寄せる。
「何か」
「この辺りからであるな」
憲倫は遠くの山を見やった。
「呪いが濃くなるのは」
風が運んでくるものが変わった。
血ではない。腐臭とも違う。
乾いた土。空の倉。削げた腹。
そうしたものに共通する、言いようのない“欠乏”の匂いがある。
それは鼻で嗅ぐものではなく、術師として感じ取るものだ。
「飢えは音がせぬから厄介であるな」
彼はそう言って、手綱を軽く引いた。
現地へ着いたのは、三日目の夕刻であった。
山を背にした小さな宿場町の外れ、役人の詰所代わりに使われている古い屋敷で、禪院家当主は既に待っていた。
庭へ足を踏み入れた瞬間、憲倫はその男が誰か一目で理解した。
背が高い。
肩幅が広く、立つだけで周囲の空気を押し退けるような圧がある。濃い色の羽織の下、身体つきは無駄なく締まり、腰には長寸の呪具が二振り。武家の子として育った者特有の重心の低さがあった。
顔立ちは整っているが、眼差しが冷たい。
人を見るのではなく、値踏みしている目だ。
禪院宗春。
現禪院家当主。
宗春は庭先へ入ってきた憲倫を見て、露骨に眉を動かした。
「遅いな、加茂」
挨拶より先にそれであった。
憲倫は馬を降り、手綱を従者へ渡す。
「遠かったのでな」
「言い訳にしか聞こえん」
「事実である」
憲倫は涼しい顔で答えた。
「して、そちらは待ちくたびれたかね」
「待ってやっただけでも感謝しろ」
宗春はそう言い放ち、憲倫の全身を頭から爪先まで眺めた。
「相変わらず軽いな。御三家の当主が遊山のような顔で現れるか」
「そちらは相変わらず暑苦しい」
憲倫はにこりともせずに言った。
「冬でもその気迫が出るのであれば、東北向きで結構」
周囲の空気がひやりと固まる。
同行した役人が青ざめて後ずさるのが見えた。
宗春は鼻で笑った。
「口だけは達者らしい」
「貴殿ほどではない」
「減らず口を叩いていられるのも今のうちだ。今回の相手は、加茂の細工でどうこうなる類ではない」
「ほう」
「飢えに生まれた呪いだ。腹の足りぬ人間の怨みと恐れは、血で遊ぶのとは重みが違う」
露骨な見下しである。
だが憲倫は怒らない。
むしろ少しだけ面白そうにその男を見ている。
「なるほど」
彼は頷いた。
「つまり貴殿は、既に勝つ気でおるのだな」
「無論だ」
宗春は一分の揺らぎもなく言った。
「特級になろうが何になろうが、斬れば終わる」
「結構」
憲倫は喉の奥で笑った。
「では私は、それを見物しておるとしようか」
「ふざけるな」
宗春の目が鋭くなる。
「共同任務だ。足を引くなら今ここで帰れ」
「足は引かぬ」
憲倫は静かに言った。
「ただ、見誤るなと申しておる」
「何を」
「特級の呪いは、前へ出ておるものほど本体でないことがある」
宗春は黙った。
「腹を空かせた者は、まず目の前のものへ飛びつく。だが呪いはその“飛びつき”に人を巻き込みながら、後ろで静かに育つものもある」
「臆病な見立てだ」
「慎重と言え」
「同じことだ」
「そうかね」
憲倫は肩を竦めた。
そこへ、現地の案内役を務める役人が、おずおずと口を挟んだ。
「あ、あの……お二方とも。まずは中で、これまでの報告を」
「言われるまでもない」
宗春は役人を一瞥し、先に屋敷へ入る。
憲倫も続いた。
座敷には粗末な地図と、近隣の村の記録が並べられていた。
宗春は腰を下ろすなり、それらに目を通しながら言った。
「失踪は八村。死者とみられる者は数え切れず。家畜は食い尽くされ、貯蔵は空。人間は痩せ細ったまま、夜ごと山へ入って戻らぬ。生き残った者も土を喰う」
「山、か」
憲倫が地図へ顔を寄せる。
「飢えた人間が山へ入るのは自然ではあるな」
「だが戻らぬ」
宗春が言う。
「それも集団で、だ」
「帰巣本能のようなものであるかもしれぬ」
「何だと」
「巣へ戻る鳥のごとく、呪いの胎に引かれておるのやもしれぬ」
憲倫は地図上の一点を指先で押さえた。
山の麓、二つの村と古い街道の中間にあたる地点である。
「消えた者が最後に目撃されたのは、この辺りか」
役人が頷く。
「は。昔、飢饉の折に炊き出し小屋が置かれたと伝わる場所でございます」
「今は」
「祠と、崩れかけの蔵が残るばかりにございます」
「結構」
憲倫は地図から指を離した。
「そこがよい」
宗春も同じ場所を見ていた。
「私もそう思う」
初めて、意見が一致した。
もっとも、その一致に和やかさはない。
「夜を待つ必要はあるまい」
宗春が立ち上がる。
「昼のうちに巣を暴く」
「急くな」
憲倫は座したまま言った。
「痕跡を読むには、動き出す前の静けさも必要である」
「だから貴様は遅い」
「だから貴殿は早すぎる」
「臆病者の理屈だ」
「猪の理屈よりはましであろう」
再び、役人の顔色が失せる。
宗春は憲倫をしばし睨みつけたが、やがて鼻で笑った。
「よい。日が落ちるまで待ってやる」
「寛大に感謝しよう」
「勘違いするな」
宗春は呪具の柄へ手を置いた。
「暗くなれば、山へ逃げ込んだ連中も動く。まとめて刈るのに都合がよいだけだ」
「……なるほど」
憲倫は微かに目を細める。
「そういう算段であるか」
「何だ、その顔は」
「いや」
憲倫は穏やかに首を振った。
「嫌いではないと思うてな」
宗春は怪訝そうに眉をひそめたが、それ以上は問わなかった。
## ※
日が落ちる前、二人は最小限の従者のみを連れ、問題の山へ入った。
冬の東北の山は静かである。
鳥の声も少なく、枝は乾き、土は凍りかけている。踏みしめるたびに、薄い氷が鳴るような音を立てた。
「匂うな」
宗春が短く言う。
憲倫も頷く。
「飢えと寒さと、僅かに死の匂いがする」
ほどなくして、最初の痕跡が見つかった。
木の根元。
土が掘り返され、爪で抉ったような跡が無数に残っている。そこに獣の骨ではなく、人の歯で齧られた跡のついた木の皮が散っていた。
「……人間か」
宗春が低く呟く。
「飢えれば木も喰う」
憲倫はしゃがみ込み、土を指で弄った。
「だがこれは、食べるためだけではないな」
「何だと」
「掘っておる」
彼は地面の下を探るように視線を動かした。
「何かを求めて。いや、呼ばれておるのか」
さらに進む。
今度は、細い布切れが枝に引っかかっていた。子供の着物の袖である。
その先、凍った沢のほとりには、半分ほど土へ埋もれた木椀が落ちていた。
「捨てていったわけではあるまい」
憲倫は木椀を見た。
「途中で不要になったのだ」
「食を入れる器が、か」
「腹を満たせぬ先が見えたのであろう」
宗春は不快そうに辺りを見回す。
「胸糞の悪い話だ」
「飢えとはそういうものだ」
憲倫は立ち上がった。
「人を獣にも、鬼にもする」
「だから斬る」
「短絡であるな」
言い合いながらも、歩みは止まらない。
やがて、林が途切れた先に、古い祠と崩れかけた蔵が見えた。
地図にあった場所だ。
祠の前には小さな広場があり、地面は異様に踏み固められていた。
雪が薄く残るはずの季節だというのに、その一帯だけは溶けたように土がむき出しで、無数の足跡が重なっている。
「ここだな」
宗春が前へ出る。
「待て」
憲倫が声をかけた。
「何だ」
「聞こえぬか」
宗春は眉を寄せた。
最初は風かと思った。
だが違う。
地の下から、かすかな音がする。
ごう、ごう、と空洞を風が渡るような音。その間に、腹の鳴る音に似た、湿った低い響きが混じっている。
「腹の音だ」
憲倫は言った。
「大きな腹が鳴っておる」
宗春は無言で蔵へ近づき、扉へ手をかけた。
鍵はかかっていない。引けば開く。
中は暗く、湿り、古い藁の匂いが残っていた。
だが蔵であるにも関わらず、穀物はひとつもない。床板は中央だけ黒ずみ、そこに人間の足跡が集中している。
「……下か」
宗春が呟く。
憲倫は床板の一部へ目をやった。
「うむ。しかも、最近開け閉めされておる」
「壊すぞ」
「待て」
「またか」
「静かに開けよ」
宗春は露骨に舌打ちしたが、いきなり床を叩き割ることはしなかった。
代わりに呪具の柄尻で板の縁を探り、留め具を外す。
床板を持ち上げると、下には石組みの階段が続いていた。
冷気とともに、濃厚な腐臭と飢えの呪気が噴き上がる。
宗春の口元が僅かに歪む。
「当たりだ」
「まだ本体とは限らぬ」
「黙れ」
「はいはい」
先に降りたのは宗春であった。
憲倫はその後ろへ続く。
地下は、蔵の規模からは想像もつかぬほど広かった。
石を積んだ古い貯蔵庫を、後から無理に掘り広げたような空間である。壁には縄と札が無数に打ち込まれ、その多くが既に腐りかけている。昔、食糧を守るための何かがあったのかもしれぬ。しかし今あるのは、守るための術ではなく、飢えそのものを祀るような気配だけだ。
部屋の中央に、人がいた。
いや、かつて人であったものだ。
五、六人。
痩せ衰え、頬は落ち、目は窪み、手足は異様に長く見えるほど肉がない。彼らは床に這いつくばり、土と何か黒いものを掻き集めて口へ運んでいた。
だが、その中心に、さらに異様なものがある。
土と藁と骨と、腐りかけた穀粒を塗り重ねたような塊。
丸い。歪ではあるが、明らかに“胎”であった。
表面は脈打ち、時折、人の顔に似た皺が浮かんでは消える。
憲倫の目が細くなる。
「受胎、であるな」
宗春は一歩前へ出た。
「斬る」
「待て」
「またそれか」
「まだ人が繋がっておる」
憲倫が顎で示す。
痩せた者たちの首筋や胸元から、薄い呪気の糸が胎へ伸びている。肉眼では見えぬほど細いが、術師には明らかだ。
「今斬れば、繋がれた者も死ぬ」
「ならどうする」
「糸をほどく」
「貴様がやれ」
「結構」
憲倫は前へ出た。
手首を切り血を流し、それで血の糸を作り出す。
宗春がそれを見て鼻で笑う。
「相変わらず気味の悪い芸をする」
「褒め言葉として受け取っておこう」
憲倫は一歩、また一歩と胎へ近づいた。
這いつくばる者の一人が、顔を上げる。
口の端に黒い泥をつけ、目だけぎらつかせている。
「……く、れ」
掠れた声でそう言った。
「くれ」
「これはまた」
憲倫は足を止めた。
「宿っておるな」
人間の飢えに、胎の声が混じり始めている。
次の瞬間、床の上の痩せた者たちが一斉に襲いかかってきた。
宗春が先に動いた。
「下がれ」
腰の呪具が抜かれる。
長刀に似た刀身が、地下の暗がりで鈍く光った。
一閃。
風が鳴る。
飛びかかった二人の腕だけが切り裂かれ、身体は壁へ叩きつけられる。致命は避けている。乱暴だが、精度は高い。
「殺してはおらぬ、腕の一本や二本許せ」
宗春が言う。
「さっさとほどけ」
「うむ」
憲倫は血糸を走らせた。
糸は空中で分かれ、這うように床を走り、痩せた者たちの首筋に伸びる呪気の線へ絡みつく。
ひとつ、ふたつ、みっつ。
絡め取り、逆に辿り、結び目を探る。
胎が大きく脈打った。
ぐう、と。
今度ははっきり腹の鳴る音であった。
同時に、部屋の壁という壁から、低い声が響いた。
「お腹すいたよー」
人間の声に近い。
しかし人ではない。
「たべたい、たべたい、たべたい」
宗春が刀を構え直す。
「喋るぞ」
「まだ人の真似事であろう」
憲倫は答えながら、血糸をさらに細く裂いた。
「だが近いな」
床の上の者たちが苦しげにのたうつ。
糸を解くたびに、彼らの身体から黒い影が抜けてゆく。
「あと三つ」
「急げ」
「急いでおる」
その時、宗春の足元の土が爆ぜた。
黒い腕が何本も伸び、彼の脚へ絡みつく。
飢えた者の手に見える。骨ばり、爪だけが異様に長い。
宗春は眉ひとつ動かさず、刃を返した。
二閃、三閃。
手首が飛び、腕が落ちる。
だが切られた先からまた生えてくる。
「鬱陶しい」
宗春は低く吐き捨て、呪具へ呪力を込めた。
刀身に青白い光が走る。
踏み込み。
今度の一撃は重かった。
ただ斬るのではなく、刃圧ごと前方を押し潰すような斬撃。床が裂け、伸びる腕ごと土が捲れ上がる。
地下室全体が揺れた。
「派手であるな」
憲倫が言う。
「貴様は口ばかりだ」
宗春は返す。
「ならば少しは見せよ」
「見せておる」
憲倫の指先が一度だけ動く。
最後の三本の呪気の糸が、同時に解かれた。
床の上の者たちが、一斉に崩れ落ちる。
まだ息はある。
「終わりだ」
「まだだ」
宗春が言うのと同時に、胎が裂けた。
縦に。
人の口のように、大きく。
中から吐き出されたのは、腐った稲穂と骨と黒い泥の奔流。
それが地下室の半分を一気に埋める。
宗春は壁を蹴って跳び、憲倫の前へ出た。
刃を横に払う。
泥の波が左右へ割れる。だが、その中から幾つもの顔が浮かんだ。老人、女、子供。いずれも飢えに歪んだ顔である。
「食わせろ」
声が重なる。
「腹が減った」
「なんでもいい」
「食わせろ」
今度は流暢だった。
憲倫の口元から笑みが消える。
「始まったな」
宗春は一歩も退かない。
「遅い」
「貴殿が急かしたゆえ、手元が狂ったのだ」
「言い訳をするな」
泥の波から、今度は胴が起き上がる。
人の上半身を何十も継ぎ合わせたような異形。骨の肋が外へ開き、その隙間に干からびた穀粒が無数に詰まっている。顔の位置にあるのは、飢えた者たちの口。目はなく、口だけが笑い、呻き、食を求めて開閉している。
だがそれでも、まだ“完全”ではない。
胎の殻が背後に残り、その中で核が蠢いている。
「受胎が成るぞ」
憲倫が静かに言う。
「今ならまだ——」
「斬れる」
宗春が答える。
そして踏み込んだ。
速度は速い。
地下の悪路をものともせず、最短距離で呪胎へ迫る。黒泥から伸びる腕や首を斬り払い、進路だけを強引にこじ開ける。
異形が叫んだ。
「くう」
「くらう」
「くわせろ」
宗春の一撃が、その胸部らしき場所へ吸い込まれる。
轟音。
肉でも骨でもない、何か硬いものを断つ手応えがあったはずだ。
だが宗春の眉が寄る。
「浅いか」
胎の表層だけが割れ、内部の核へ届いていない。
「横からである」
憲倫が言った。
「縦に裂けておる殻へ沿うな。中心はずれておる」
「言うのが遅い!」
「気づいているものだと」
宗春は舌打ちし、振り返りざまに黒泥の奔流を斬り払う。
しかしその一瞬で、胎がさらに膨らんだ。
地下室の天井に頭を擦りつけるほど大きくなる。壁の札が一斉に破れ、古い結界の残骸が霧散していく。
糸を解かれ倒れた村人たちの周囲に、再び黒い影が寄り始めた。
「面倒であるな」
憲倫は血糸を広げ、彼らの周囲へ薄い環を作った。
守りの輪だ。
宗春がその横目で見る。
「守りに回る気か」
「生きておる者を捨てる趣味はないのでな」
「甘い」
「そうかもしれぬ」
憲倫は答えた。
「だが貴殿のように何でも斬れば済むほど、世は単純でもない」
異形が、そこで初めて意味を持つ“言葉”らしいものを整えた。
「たりない」
地下室が震える。
「たりない、たりない、たりない」
無数の口が、声を揃える。
「米がたりない、肉がたりない、命がたりない」
宗春の目が鋭くなる。
「お喋りになったな」
憲倫は胎の中心を見た。
そこに、飢えの核がある。
だがまだ殻が厚い。
「今のうちに外へ出るぞ」
「逃げるのか」
「場所を移すのだ」
憲倫は言い切った。
「ここで完全に変態されれば、村人ごと潰れる」
宗春は舌打ちした。
だが反対はしない。
その代わり、憲倫を見ずに言う。
「貴様が道を作れ」
「承知した」
憲倫の血糸が地面を走る。
糸は床板の隙間へ潜り、地下から地上への最短距離導き出す。
更に自身から流れる血をさらに増やし宙に集める。
それを一気に引き上げ、細長い槍のように圧縮する。
「宗春殿」
「命令するな」
「提案である」
「言え」
「三つ数えたら、正面を裂くのだ」
「よい」
「一つ」
異形が叫ぶ。
「すべてたりない!!!」
「二つ」
黒泥が波立ち、無数の口が大きく開く。
「三つ」
宗春が動く。
正面へ、渾身の斬撃。
今度はただ斬るのでなく、斜め下から上へ抉り上げる一刀。地下室の空気ごと割るような刃筋が、異形の前面を裂いた。
「血槍」
その隙間へ、憲倫の血槍が走る。
槍は石組みを貫き、蔵の床板を突き破り、地上へ一直線の穴を開けた。夜気が一気に吹き込む。
「押し出せ」
「言われるまでもない!」
宗春は裂いた異形の胴へ体当たりに近い踏み込みを叩き込む。
膂力と呪力を乗せた一撃で、黒泥の塊が大きく仰け反り、そのまま地上への穴へ吸い上げられる。
地鳴り。
蔵の上で、何か巨大なものが破裂した。
「上だ」
二人は同時に駆ける。
宗春が先、憲倫が後。
地上へ戻ると、蔵は半ば崩れ、夜空の下に黒泥と藁と骨の山がうごめいていた。
雪混じりの空気の中、それは膨れ、裂け、形を変えていく。
もはや胎ではない。
人の背丈をとうに越え、山の闇を背負うような巨体。
痩せた人間の顔が幾十も浮かび、飢えた獣の肋が幾重にも開き、その中心に、赤くも白くもない空洞の腹がある。
そして、その腹の奥から、澄んだ声が響いた。
「——ようやく、息ができる」
流暢な、人間の声だった。
宗春が刀を構える。
「これが特級か」
異形はゆっくりと頭を巡らせた。
幾十もの口が、同時に笑う。
「飢えを知らぬ顔だな、術師ども」
その声に、先ほどまでの壊れた反復はない。
言葉は明瞭で、意思もある。
「お前たちの腹は、まだ鳴ったことがないのか」
憲倫は特級呪霊を見上げた。
「鳴ったことならある」
静かに答える。
「だが、貴様ほど品なく育てられた覚えはない」
特級呪霊は、幾つもの口を歪めて笑った。
「よい。ならば教えてやろう」
腹の奥が、ぐう、と鳴る。
「飢えとは、礼節も家名も食い潰す」
宗春が一歩前へ出る。
「喋りすぎだ、化け物」
「喋れるようになるまで、食ったのだ」
特級呪霊は言う。
「村を。倉を。記憶を。怯えを。明日を。まだ足りぬ」
吹雪くように黒い呪気が立ち上る。
地の雪が融け、木々が軋む。
憲倫は宗春の横へ並んだ。
「さて」
「ここからが本番であるな」
宗春は視線を外さぬまま答えた。
「足を引くなよ、加茂」
「同じ言葉を返そう、禪院」
夜の山で、特級呪霊がゆっくりと身を起こす。
飢えに生まれたそれは、まだなお膨らみ続けていた。
——人の冬を喰らうために。
その眼前で、二人の当主が構える。
御三家同士の不和も、見下しも、火種も、何ひとつ消えぬまま。
ただ一つだけ、確かなことがある。
次の瞬間から始まるものは、もう“受胎の処理”ではない。
特級呪霊祓除、それ一つであった。
憲倫
当主として禪院家、五条家のことは嫌いだが個人としては別に好きでも嫌いでもない。ただ煽ると両家共に烈火の如く怒り出すのでそれが楽しくて仕方ない。
加茂家の人達
当主は軽口が過ぎると思ってる。
禪院宗春
この時代の禪院家当主。明治時代っぽい名前ってなんだろうって思いながら付けた。むねはるさん。気軽にむっくんと呼んであげて欲しい。なお呼んだ場合は余裕で斬り捨てられる。
五条家と加茂家の事は当主としても個人としても嫌い。格下のくせに同格ズラしやがってって思ってる。あとついでにピーマンが嫌い。シンプルに苦いから。あと可愛いもの好き。術式については次回。
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