明治強者加茂憲倫   作:カツオのタタキ

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第五話 血胎

 

朝の空気は、夜の冷えをまだわずかに残していた。

 

 山間に建つ寺院は、薄い朝霧をまといながら静かに目を覚ましつつあった。木々の間を抜けてくる風は柔らかいが、肌に触れればまだ少しだけ冷たい。境内の石畳には夜露が薄く残り、踏めばかすかな湿り気を返してくる。遠くで鳥が鳴いた。山のどこかで沢の流れる音もする。世の大半がまだ眠っているような時刻であるのに、この寺にはすでに、人の営みが満ちていた。

 

 箒で地を掃く、一定の音。

 

 井戸から水を汲み上げる、縄の擦れる音。

 

 濡れた布で廊下の板を拭う、静かな手つき。

 

 干された札が朝風に揺れ、紙同士がわずかに触れ合う乾いた気配。

 

 どれも大きな音ではない。だが、それらは途切れずに重なり合い、この寺がただの祈りの場ではなく、生きた人の手で整えられ続けている場所なのだと自然に伝えてくる。

 

 その中で、ひときわ規則的な風切り音を立てている者がいた。

 

「……よし」

 

 短い息。

 

 振り下ろし。

 

 止め。

 

 切り返し。

 

 踏み込み。

 

 木刀を振るう少年――加茂恒一は、境内の端、少し開けた場所で一人、朝の鍛錬に打ち込んでいた。額には薄く汗が浮き、吐く息はまだ白くはならないが、朝の空気に熱を与えるほどには整っている。足運びは安定している。重心もぶれていない。動きに無駄は少なく、型だけを見れば十分に仕上がっているといってよかった。

 

 だが、そこにいた者は、その“十分”で満足する男ではなかった。

 

「肩に力が入りすぎておるな」

 

 背後から、静かな声が落ちた。

 

 恒一の木刀がぴたりと止まる。肩越しに振り返れば、そこに立っていたのは加茂憲倫だった。

 

 墨色の和装をゆるく纏い、帯もきつく締めてはいない。髪もきっちり整えられているわけではなく、起きてそのまま外へ出てきたような気安さがある。だが、その佇まいには緩みがあっても、視線には一切の眠気がない。むしろ、朝の光より先に覚めているような、静かに澄んだ目で恒一の動きを見ていた。

 

「朝から励む姿は好ましい」

 

 一拍。

 

「まだ弱いが」

 

 恒一は木刀を肩に担ぎ、小さく息を吐いた。

 

「相変わらず辛辣ですね」

 

「事実である」

 

 あまりにも迷いのない返答だった。

 

 恒一は苦笑する。

 

「少しは遠慮というものを」

 

「必要か?」

 

「……ないですね」

 

 即答に即座に折れる。そのやり取りにはもう慣れているのだろう。だが慣れていることと諦めていることは別らしく、恒一の顔には“またこれか”という苦い笑いが薄く浮かんでいた。

 

 少し離れた場所で、そのやり取りをじっと見ている者がいる。

 

 狗巻言緒だった。

 

 まだ年若いその少年は、寺に来てから日が浅い。だからこそ、この場所の空気にはもう馴染みつつあっても、その中心にいる男との距離感だけはまだ測り切れていなかった。口元に手を添え、目を逸らさずに二人を見ているが、肩や首筋には緊張が残っている。こちらから見れば分かりやすいほどに、固い。

 

「見学か」

 

 憲倫が、恒一ではなく言緒へ視線を向けた。

 

 言緒の肩がわずかに揺れる。

 

「……はい。見て、覚えようと」

 

「良い」

 

 憲倫は小さく頷いた。

 

「だが半分であるな」

 

 言緒の目が少しだけ動く。

 

「……残りは」

 

「実践である」

 

 間を置かずに言葉が返る。

 

 言緒は口を閉じたまま一つ頷いた。

 

「……はい」

 

 返事はきちんとしている。だが、その声の硬さまでは隠し切れていない。

 

 憲倫はそれを見て、ほんのわずかに首を傾げた。

 

「緊張しておるな」

 

「……そんなことは」

 

 目が泳ぐ。否定の内容よりも、否定しなければならないと思った心の動きの方がよほど分かりやすい。

 

「しておる」

 

 憲倫は淡々と断言した。

 

「顔に出ておる」

 

 言緒は一瞬だけ黙る。返す言葉を探しているのではなく、返せる言葉がないのだとすぐに分かる沈黙だった。

 

 その横で、恒一が小さく笑った。

 

「そういうものですよ」

 

 言緒はそちらを見る。

 恒一は思い出したように口を開く。

 

「俺も最初は何されるか分からなくて怖かったな」

 

「そんなこと思っていたのか」

 

 憲倫が横から静かに言った。

 

 恒一が振り向く。

 

「だって顔怖くて」

 

「顔…」

 

 明らかにしょぼくれて拗ねたような表情になる憲倫に言緒の口元が一瞬だけ緩んだ。すぐに押さえようとしたが、遅い。小さな笑いは、もう顔のどこかに残っている。

 

 憲倫はそれを見て、ほんのわずかに目を細めた。

 

「良い」

「その程度に力が抜けておる方が扱いやすい」

 

「扱いやすい、ですか」

 

「力みは術を歪める」

 

 気を取り直した憲倫の声は静かで、いつもの軽さを少しだけ引いた響きになっていた。

 

「強くあろう、上手くやろうと思いすぎると、術は狭くなる。身体も同じであるな」

 

 恒一が自分の肩を揉みながら苦笑する。

 

「さっき言われたやつですね」

 

「うむ。お主は分かりやすい」

 

「褒められてる感じが全くしない」

 

「褒めたつもりはない」

 

「でしょうね」

 

 その返しに、言緒がまた少し笑う。今度は口元を押さえることもしない。自分でも気づかぬうちに、緊張が少しずつ崩れてきていた。

 

 憲倫は境内を一度見渡した。掃き終えた地面、干された札、湯気の立つ桶、動く人影。どれも乱れていない。その上で、再び恒一を見る。

 

「……では、付き合え」

 

 一言。

 

 それだけで、空気が変わった。

 

 恒一の背がわずかに伸びる。さきほどまでの軽口が消え、視線が締まる。

 

「はい」

 

 木刀を握り直す。

 

 境内の中央へ歩み出ると、それを見た周囲の者たちが自然と距離を取った。誰かが命じたわけではない。だが、この二人が向き合う場所に不用意に近づくものはいない。それがもう、この寺の日常なのだろう。

 

 言緒は少し離れた位置で立ったまま見守る。視線は憲倫から離れない。どのように動くのか、どこで動くのか、それとも動かないのか。見逃すまいとする意志が、目の奥にはっきり浮かんでいた。

 

 憲倫は構えない。

 

 ただ、立っている。

 

 それだけだ。

 

「全力で来い」

 

「はい」

 

「どうせ届かぬ」

 

 恒一の口元がわずかに引きつる。

 息を吐いた。言い返すより先に体を動かした方がよいと分かっているのだろう。

 

 踏み込む。

 

 木刀が空を裂く。先ほどの鍛錬より明らかに速い。余計な装飾のない、一直線の振り下ろし。だが鋭い。迷いがない。

 

 しかし当たらない。

 

 憲倫は半歩だけずれた。

 

 それだけだった。身体を大きく動かしたわけでもない。跳ねたわけでも、身を翻したわけでもない。たったそれだけで、木刀の軌道から自分の存在を外した。

 

「もっと死ぬ気でこい、それでは足りぬ」

 

 「なら――」

 

 木刀を放つ。一直線に顔面へ。速い。だが狙いは当てることではない。視界を断ち切るための一瞬。その刹那、恒一の身体が沈む。内側へ血を巡らせる。速く、強く、密度を上げる。筋肉の収縮が変わり、関節の動きが滑らかになり、反応が鋭くなる。

 

「赤血操術―赤鱗躍動」

 

 血が弾けるように巡る。次の瞬間、距離が消えた。踏み込みが変わる。軽く、速く、深い。憲倫の懐へ滑り込み、拳が肋へ、腹へと叩き込まれる。間を置かず連打。肘、肩、膝と重ね、逃がさない距離で押し込む。当たる、当たる、当たっている。確かに届いている。しかし感じられるのは異様な硬さ。

 

「……硬い?」

 

 視線が一瞬だけ落ちる。憲倫の体を守るように血が凝固し鎧を形成していた。流動を止め、硬度へ変えている。衝撃が吸われ、散る。

 

「悪くはない」

 

 憲倫は動かず受ける。

 

「速さは上がった。だがまだまだ。」

 

 恒一が歯を食いしばり、さらに踏み込む。連打を重ね、角度を変え、重心をずらす。だが変わらない。通らない。効かない。その差がはっきりと残る。

 

「……それなら!」

 

「――血縛!」

 

 血が走る。地を這うように腕へ、足へ、胴へ絡みつき締め上げる。複数同時、逃げ場を消す拘束。確かな手応え。捉えた――はずだった。

 

 だが次の瞬間、手応えが消える。

 

「……な」

 

 血の拘束が断ち切られる。――血刃。しかも細い。あまりにも細い。線。振るう必要すらない。そこに“ある”だけで切れる。空間に残り、交差し、踏み込む先をすべて塞ぐ。

 

 恒一の足が止まる。進めない。その一瞬の停滞。

 

 背後から鈍い衝撃。体が揺れる、振り返る。

木刀。

先ほど投げたものが生物のように動いている、憲倫の血が付着し、それが繋がりとなって操られている。ただの物ではない。術の延長。背を打たれ、体勢が崩れる。重心が浮く。完全な隙。

 

「遅い」

 

 声が落ちる。次の瞬間、気配が背後に現れる。首元に血刃。触れてはいない。だが分かる。動けば切れる。寸止め。終わり。

 

 呼吸だけが残る。数拍。恒一がゆっくり息を吐いた。

 

「……降参です」

 

 力が抜ける。血が散り、線が消え、空気が戻る。

 

 憲倫が静かに口を開く。

 

「悪くはない。一拍。甘いが」

 

 憲倫はわずかに視線を落とし、続ける。

 

「同じ赤血操術であるからこそ言うがな。お主は“血を使っておる”だけで、“血を扱えてはおらぬ”」

 

 恒一の表情が僅かに引き締まる。

 

「赤鱗躍動で身体を速めるのは良い。だが術と身体が分かれておる。速くなった身体に、血の操作が追いついておらぬ」

 

「……連動、ですね」

 

「そうだ。身体強化はあくまで“土台”にすぎぬ。その上で血をどう置くか、どう通すかを考えよ」

 

 一拍。

 

「血縛も同じである。良い拘束であったが、意図が単純すぎる。絡めて止めるだけでは、見えておる相手には通じぬ」

 

「……どうすれば」

 

 憲倫は僅かに顎を引く。

 

「縛るために伸ばすな。動かすために置け。相手を止めるのではなく、“動ける場所を制限する”のだ」

 

 恒一の目がわずかに開く。

 

「……空間で縛る、ということですか」

 

「近い。血は流体でありながら、形を持たせられる。それを“線”として扱え。面ではなく、線で区切れ」

 

 先ほどの血刃を思い出す。

 

 あの細さ。

 

 あの配置。

 

 踏み込めなかった理由。

 

 恒一が小さく息を吐く。

 

「……なるほど」

 

 憲倫はさらに続ける。

 

「そして何より――血は外に出して終わりではない。常に“戻る”ことを前提に扱え。出した血を放置するな。すべてを制御下に置け」

 

 一拍。

 

「お主の血は、お主の領域である。それを手放すな」

 

 恒一は深く頷いた。

 

「……はい」

 

 憲倫はそれを見て、わずかに目を細める。

 

「ゆえに言ったであろう。甘い、と」

 

 恒一が苦笑する。

 

「厳しいですね」

 

「事実である」

 

 短く返す。

 

 だが、その声にはわずかに温度があった。

 

 

 

 短い。

 

 鋭い。

 

 恒一がすっと目を逸らした。

 

「……はい」

 

 今度は言緒が隠さず笑った。朝の山気に混じるその笑いはまだ小さいが、寺に来た当初の彼なら出せなかっただろうものだった。

 

 憲倫はその変化を見逃さない。

 

「良い」

 

「……何がですか」

 

 言緒が聞く。

 

「その程度の余裕があれば十分である」

 

 そして、少しだけ間を置いた。

 

「では次であるな」

 

 視線が言緒へ向く。

 

 瞬間、空気の質が変わる。

 

 逃げ道を塞ぐ圧ではない。だが、測られる側に立つ緊張は確かにある。

 

 言緒が一つ息を吸う。

 

「……はい」

 

 返事はまだ少し硬い。

 

 それを見て、憲倫は一歩、言緒へ近づいた。

 

「気負う必要はない」

 

「……でも」

 

「どうせ届かぬ」

 

 言緒の眉がぴくりと動く。

 

 一瞬だけ、年相応の不満が顔に出る。

 

 恒一が口元を押さえて笑いをこらえる。

 

 憲倫はそれを見て、わずかに口元を緩めた。

 

「だが、通らぬわけでもない」

 

 言緒が顔を上げる。

 

「……どういう意味ですか」

 

「呪言は強い術である」

 

 憲倫は腕を組んだ。

 

「だが、強いがゆえに代償も重い。特に格上に使えば、喉を痛める程度では済まぬこともある」

 

 言緒は無言で頷く。

 

 それは知っている。知識としてではなく、身体で知っている。

 

「では、使わない方が」

 

「愚かであるな」

 

 即座に切られ、言緒は目を瞬いた。

 

「呪言とは何か、考えたことはあるか」

 

 問い。

 

 言緒は考える。

 

「……言霊を用いた術で」

 

「説明ではない」

 

 憲倫が短く返す。

 

「理解である」

 

 言緒は少し黙った。

 

「……命令、ですか」

 

「近い」

 

 憲倫は頷く。

 

「では、その命令は誰に向けておる」

 

「……相手に」

 

「のみか?」

 

 一拍。

 

 言緒の呼吸が止まる。

 

「……いえ」

 

「続けよ」

 

「……自分にも、でしょうか」

 

「そうだ」

 

 憲倫の声がわずかに低くなる。

 

「呪いである以上、自身にも作用する。言霊とは外へ向けて飛ばすものに見えるが、それだけではない」

 

 言緒の目がじわりと開く。

 

「……自分に、かける」

 

「うむ」

 

「速まれ、とか」

 

「可能でだろう」

 

「強くなれとか」

 

「曖昧すぎるが、詳細を詰めれば不可能では無いだろうな」

 

「……危なくないですか」

 

「さぁな」

 

 あまりにあっさり言われ、言緒は少し呆れた顔をした。

 

「……使えって言ってませんでしたか」

 

「使えると知ることと、使うことは別である」

 

 憲倫は落ち着いた声で返す。

 

「術式の解釈を狭めるな。先入観に囚われるな。枠を作れば、その内にしか収まらぬ」

 

 言緒は黙ってそれを聞く。

 

 その目は、最初の“教わる側”のものから、少しずつ“考える側”のものへ変わっていく。

 

 憲倫はさらに言う。

 

「お主が“呪言とは相手にだけ使うものだ”と思うなら、その時点で半分を失っておる」

 

「……半分」

 

「それ以上かもしれぬな」

 

 恒一が横から口を挟む。

 

「要は、思い込みで勝手に弱くするなってことだろ」

 

「乱暴であるな」

 

「分かりやすいですよ」

 

「雑である」

 

「今ちょっと褒めた流れじゃなかったですか?」

 

「なかったな」

 

「なかったですね」

 

 言緒まで乗ってきて、恒一が振り向く。

 

「お前までそっち行くのか」

 

 言緒は一瞬だけ目を逸らしたが、口元は少しだけ緩んでいる。

 

「……いや、その」

 

「なんだ」

 

「恒一さん、分かりやすいので」

 

「褒められてる気がしないなそれ」

 

「実際、褒めてはおらぬであろう」

 

 憲倫の冷静な追撃。

 

 恒一が額を押さえた。

 

「なんで今日は二人して来るんですか」

 

 その様子に、言緒がまた笑う。

 

 もうそれは一瞬の漏れではなく、自然な笑いだった。口元を押さえようともしない。そのことに自分で気づき、少しだけ照れたように視線を落とす。

 

「……なんか、思っていたのと違います」

 

 ぽつりと零れる本音。

 

「何がである」

 

「もっと……こう」

 

 言緒は言葉を探した。

 

「ずっと怖いのかと」

 

「怖いぞ」

 

 憲倫は即答した。

 

 一拍。

 

「必要な時はな」

 

 その言葉には不思議な説得力があった。脅しではない。事実として、その場に置かれる声音。

 

 言緒は小さく頷く。

 

「……今は、違うんですか」

 

「今は準備である」

 

 憲倫が言う。

 

「お主が自分の術をどう見るか、その前段であるな」

 

 そして一歩引いた。

 

「恒一」

 

「はいはい」

 

「お主が相手をせよ」

 

 恒一は袖を軽くまくり、木刀を脇へ置いたまま拳を握った。赤血操術は使わない。単純な呪力操作のみ。その指示は既に出されている。

 

 呪力が全身に薄く、均一に巡る。

 

 強いというより、途切れない流れ。揺らがぬ膜のようなものが全身を包み込む感覚が、見ている側にも伝わってくる。

 

「……行きます」

 

「来い」

 

 二人が向かい合う。

 

 距離は三歩ほど。

 

 風がその間を一度抜けた。

 

 先ほどまでの日常の音は消えていないのに、そこだけ別の場のように感じられる。掃く音も、水の音も、今は遠い。

 

 言緒は息を吸う。

 

 喉の奥にわずかな緊張。だが怯みではない。準備だ。

 

 そして踏み込んだ。

 

 速い。

 

 最初から迷いがない。

 

「止まれ」

 

 呪言。

 

 同時に間合いへ入る。

 

 恒一の踏み込みが一瞬だけ遅れる。その“わずかな遅れ”へ、言緒は躊躇なく入り込んだ。

 

 肘打ち。

 

 脇腹。

 

 続けて膝。

 

 さらに踏み込む。

 

 だが、完全には入らない。

 

 恒一の全身を巡る呪力が衝撃を逃がしている。受けているのに、沈み込まない。均一であるがゆえに、崩れない。

 

「甘い」

 

 恒一が低く呟く。

 

 次の瞬間、拳が返る。

 

 速い。重い。直線的だが、それゆえに迷いがない。

 

 言緒はそれを紙一重で外す。頬を風が掠める。いまのが当たれば、軽い痛みでは済まないとすぐに分かる重さだった。

 

 間を与えない。

 

 言緒はすぐに次を重ねる。

 

「崩れろ」

 

 言葉と同時に足払い。

 

 さらに肩で押す。

 

 二方向からの崩し。

 

 恒一の体勢がわずかに揺れる。

 

 だが、それだけだ。

 

 踏みとどまる。

 

 呪力が全身を一枚の板のように支えている。

 

「……硬い」

 

 言緒が小さく舌打ちする。

 

 その瞬間、恒一が踏み込んだ。

 

 先ほどより速い。

 

 言緒が後ろへ跳ぶ。

 

 だが完全には離れない。間合いの外へ逃げれば、今度は追われる。そう判断して、ギリギリの距離を残す。

 

 呼吸が短くなる。

 

 そこで、憲倫の言葉が脳裏をよぎった。

 

 ――他人にのみ効くと、誰が決めた。

 

 言緒はほんの一瞬だけ息を吸い、決めた。

 

「速まれ」

 

 小さく、自分へ。

 

 次の瞬間、踏み込みが変わる。

 

 地を蹴る感覚が軽くなり、一歩が短く、それでいて鋭くなる。自分の身体でありながら、いつもの半歩先へ出られる感覚。

 

 恒一の目がわずかに開く。

 

「……それは」

 

 驚き。

 

 だが、その驚きが遅れになった。

 

 言緒の肘が脇腹に入る。続いて膝。拳。連撃。先ほどより明確に速い。

 

 恒一の体がわずかに揺れる。

 

「……それ、反則じゃないか?」

 

 息を吐きながら言う。声は軽いが、目は真剣なままだ。

 

 言緒が即座に返す。

 

「使えるものは使うだけです」

 

 一拍。

 

「負けたくないので」

 

 子供っぽいほど率直な言葉だった。

 

 そのままもう一歩踏み込もうとしたところで、離れた位置から憲倫の声が落ちた。

 

「良い」

 

 一拍。

 

「そういう発想である」

 

 さらに一拍。

 

「ただし、付け焼き刃」

 

「言わないでください!」

 

 言緒が思わず声を上げる。

 

 その瞬間、呼吸が乱れた。

 

 喉の奥に熱が走る。

 

「……っ」

 

 わずかな綻び。

 

 恒一はそれを見逃さない。

 

 一歩。

 

 踏み込む。

 

 拳。

 

 言緒は外すが、完全には避け切れない。肩口を掠め、体がわずかに揺れる。距離が開いた。

 

 呼吸が荒い。喉が熱い。

 

 だが言緒は、そこで口元を歪めた。

 

「……さっきの効いたでしょ」

 

 恒一が苦笑する。

 

「ああ、効いた」

 

 一拍。

 

「でも無理するな」

 

「まだいける」

 

 即答だった。

 

 強がりではない。意地だ。

 

 その年頃らしい、真っ直ぐな負けず嫌いがそこにはあった。

 

 再び踏み込む。

 

「寄るな」

 

 呪言。

 

 恒一の足が一瞬だけ止まる。

 

 完全ではない。だが“間”が生まれる。

 

 言緒はその隙に低く潜り込む。足元を狙う。さらに、

 

「崩れろ」

 

 今度はさっきより強く。

 

 体勢が大きく揺れる。

 

 恒一の足が半歩ずれる。

 

 ――入る。

 

 言緒がそう感じた瞬間、恒一は踏み直した。

 

 呪力で支えたのではない。支えるために呪力を流し直した。力任せではなく、基礎の積み重ねで押し返した踏み直しだった。

 

「っ、やっぱり硬い……!」

 

「褒め言葉として受け取っておく」

 

「褒めてない!」

 

 言い返しながらも、言緒の動きは止まらない。

 

 今度は近い。

 

 近すぎる距離。

 

 恒一の拳が来る。

 

 受ければ終わる。

 

 避ける。流す。だが押される。

 

 力の差が、近距離ではっきりと出る。

 

 言緒は歯を食いしばった。

 

 最後に一つ。

 

 喉が軋むのを承知で、強く言葉を乗せる。

 

「止まれ」

 

 空気が歪む。

 

 圧が生じる。

 

 恒一の動きが止まった。

 

 一瞬。

 

 完全な静止。

 

 だが、その代償はすぐに来る。

 

「……っ」

 

 言緒の喉が焼けるように痛む。呼吸が乱れる。術の維持が揺らぐ。

 

 その綻びを、恒一は掴んだ。

 

 一歩。

 

 踏み込む。

 

 拳が来る。

 

 避け切れない――

 

 だが、拳は鼻先数寸で止まった。

 

 寸止め。

 

 静止。

 

 数拍の沈黙。

 

「そこまででよい」

 

 憲倫の声が入る。

 

 一気に空気が戻った。

 

 張り詰めていたものが解ける。

 

 言緒は大きく息を吐き、喉を押さえる。恒一も肩を回して呼吸を整えた。互いにまだやれる顔はしている。だが、ここで止められたことにも意味があると分かっている顔でもあった。

 

 憲倫が歩み寄る。

 

「悪くない」

 

 まず恒一を見る。

 

「押し方は理解しておる」

 

 一拍。

 

「だが雑であるな」

 

「はい」

 

 返事は素直だ。

 

 次に言緒を見る。

 

「通しておる」

 

 一拍。

 

「広げたな」

 

 言緒は喉を押さえたまま、小さく頷く。

 

「……はい」

 

「術は使うものではない」

 

 憲倫が静かに言う。

 

 一拍。

 

「扱うものだ」

 

 言緒はその言葉を黙って聞く。恒一も同じだった。

 

 憲倫は二人を見比べる。

 

「基礎と術、どちらが欠けても形にはならぬ。片方のみを磨けば、いずれ足を取られる」

 

 恒一が息を吐く。

 

「耳が痛いですね」

 

「お主は両方痛めておけ」

 

「ひどいなあ」

 

「必要である」

 

 すぐ横で、言緒が小さく笑った。

 

 憲倫がそれに気づく。

 

「何が可笑しい」

 

「……いえ」

 

 言緒は少しだけ視線を逸らしたが、今度は逃げるような仕草ではなかった。

 

「なんか」

 

「うむ」

 

「……ちょっとだけ、分かってきました」

 

「何を」

 

「ここが、です」

 

 そう言ったあとで、自分でも気恥ずかしくなったのか、言緒は少しだけ顔を背けた。

 

 恒一が横で笑う。

 

「遅いな」

 

「うるさいです」

 

「ほう。口が回るようになったな」

 

 憲倫が言う。

 

 言緒がはっとして振り返る。

 

「……あ」

 

「良い」

 

 一拍。

 

「その方が面白い」

 

「面白さで判断しないでください」

 

 言緒が思わず返す。

 

 すぐに、自分で目を見開いた。

 

 いま、自分はこの男に対して、自然にそう言ったのだ。

 

 恒一が吹き出す。

 

「はは、いいじゃないか」

 

 憲倫は一瞬だけ黙り、それから静かに言った。

 

「いや、今のはお主が言うな」

 

「え、俺ですか?」

 

「お主は十分面白い」

 

「褒めてないですよねそれ」

 

「褒めてはおらぬな」

 

「やっぱり」

 

 そのやり取りに、言緒が今度ははっきり笑った。最初の緊張の影は、もうほとんど残っていない。

 

 朝の風が、三人の間を抜ける。

 

 境内では相変わらず箒の音がしている。水の音も、札の擦れる気配もある。寺の日常は何一つ止まっていない。だが、その日常の中で確かに何かが少しだけ変わっていた。

 

 言緒がこの場所に、少しだけ馴染んだのだ。

 

 憲倫はその変化を見て取るように、ほんのわずかに目を細めた。

 

「朝はこの程度でよい」

 

 軽く手を振る。

 

「後は各々で整えよ」

 

 それだけ言い残し、歩き出す。

 

 恒一が息を吐き、肩を回した。

 

「……やるな」

 

 言緒は喉を押さえながら、すぐに返す。

 

「……まだ負けてないです」

 

 恒一が笑う。

 

「ああ、そうだな」

 

 言緒は少しだけ口を尖らせた。だが、その目には確かな手応えと、次はもっとやれるという意地が宿っていた。

 

 その表情は、ようやく年相応に見えた。

 

 山の朝は、静かに進んでいく。

 

 誰かが掃いた落ち葉の山を、風が少しだけ崩した。

 

 遠くで鳥がまた鳴いた。

 

 整えられた寺の一日が、何事もない顔で進んでいく。

 

 だが、その穏やかさは、夜まで続くものではなかった。

 

 

 

 

 

夜は、音を飲み込むように深まっていた。

 

 山の気配は昼間よりも濃く、静けさはむしろ重さを帯びている。風は弱く、木々の葉もほとんど揺れない。遠くで虫が鳴いているが、それすらもこの場所では遠い。

 

 寺の明かりは最低限だった。廊下の端に置かれた行灯が、淡く床を照らしている。光は広がらず、ただそこに“ある”だけのような頼りない明るさだった。縁側から見える境内は、ほとんど闇に沈んでいる。昼の気配は、完全に消えていた。

 

 その静けさを破るように、石段を上る音が一つ。小さいが、確かに続いている。足取りは重く、一歩ごとにためらいが混じる。上がる、止まる、また一歩。やがて門の前で、その足音が止まる。

 

 しばしの沈黙。

 

 そして――

 

「……あの」

 

 か細い声。門番が顔を上げる。そこに立っていたのは、一人の女だった。二十ほど。やつれ、顔色は悪く、衣服は乱れ、土に汚れている。

 

 ――そして、その腕の中。

 

 布に包まれた、小さなもの。

 

 抱きしめるように、決して離すまいとするように、女はそれを胸元に引き寄せていた。

 

 ただ、それだけではない。

 

 ――何かが、ずれている。

 

 繊細な者でなければ分からないほどの、微かな違和。

 

 門番は、女の姿を一瞥した。

 

 腕の中に抱えたものにも、視線が落ちる。

 

 ――だが、何も問わない。

 

「……中へ。迷う必要はない」

 

 短く、それだけを告げる。その声には、奇妙なほどの確信があった。

 

 女はすがるように頷き、そのまま奥へと通される。

 

 その背を見送り――門番は、ほんのわずかに口元を歪めた。

 

 それは笑みと呼ぶにはあまりにも小さく、気づかぬほどの変化。だが確かに、“何かを面白がる”ような色がそこにはあった。

 

---

 

 奥の一室。

 

 行灯の灯りが、部屋の中央だけをぼんやりと照らしている。

 

 その境界に、加茂憲倫は座していた。

 

 女が入る。

 

 足が止まる。

 

 言葉が出ない。

 

 腕の中のものを、さらに強く抱きしめる。

 

 憲倫が視線を上げる。

 

 その瞬間――わずかに目が細まる。

 

 違和は、確かにあった。だが、それは“異常”と断じるにはあまりにも薄い。残り香のようなもの。触れて付くような残穢ではない。もっと深い。内側から滲み出ている、離れきらない何か。

 

 そして、それは女だけではない。

 

 腕の中に抱えたもの。

 

 そこにも、かすかに同質の歪みがある。

 

 繋がっている。

 

 因果が、途切れていない。

 

 憲倫は思考する。

 

 呪霊に触れた痕跡ではない。接触の残りでは説明がつかぬ。もっと直接的だ。侵食に近い。あるいは――混在。

 

 人と呪霊の境界が、曖昧になっている。

 

 だが、それは“作られたもの”ではない。

 

 不自然な意図がない。

 

 ただ、そうなってしまった“結果”。

 

 ゆえに歪でありながら、どこか自然でもある。

 

 ――厄介であるな。

 

 憲倫はそう結論づけた。

 

 同時に、興味がわずかに芽生える。

 

 これまで見てきたどの例とも異なる。

 

 構造が崩れているのではない。

 

 “異なる理”で成立している。

 

「……助けて、ください」

 

 女が絞り出すように言う。声は掠れ、今にも途切れそうだった。

 

「何に困っておる」

 

 憲倫の声は静かだ。

 

 女はすぐに答えられない。喉が鳴り、息が乱れる。それでも、震える手で布をわずかに開く。

 

「……この子が」

 

 一拍。

 

「……生まれたんです」

 

 言葉が落ちる。

 

 憲倫の視線がわずかに下がる。

 

 布の隙間から覗くもの。完全には見えない。だが、見えなくとも分かる。形の歪み。存在の不均衡。そして――残っている気配。死してなお、消えきらぬもの。

 

「身に覚えもないのに……」

 

 女の声が続く。

 

「気づいたら……お腹が大きくなっていて……」

 

 呼吸が乱れる。

 

「それで、この子が……」

 

 言葉が詰まる。

 

 だが、次の一言がすべてを語る。

 十分だった。

 

 “通常の生ではない”。

 

 それだけで、構造は読める。

 

 憲倫の中で仮説が組み上がる。

 

 呪霊との接触――いや、それ以上。

 

 侵入、定着、形成。

 

 人の胎を媒介にした、異質な誕生。

 

 そして、その結果としての――この亡骸。

 

「……皆、気味が悪いと……」

 

 女の声が震える。

 

「触れるなと……近づくなと……」

 

 唇が震える。

 

「……捨てろと……」

 

 腕に力が入る。

 

 布が軋む。

 

 だが、離さない。

 

「……捨てられるはず、ないのに……」

 

 沈黙。

 

 憲倫は動かない。

 

 ただ見ている。

 

 女を。

 

 そして、その腕の中のものを。

 

 その奥にある“流れ”を。

 

 人のものではない。

 

 だが完全な呪霊でもない。

 

 ――中途。

 

 歪んだまま、形になっている。

 

「……ここなら」

 

 女が言う。

 

 声が崩れそうになるのを、必死に繋ぎ止める。

 

「ここなら……どうにか、なるって……」

 

 それはほとんど祈りだった。

 

 憲倫がゆっくりと立ち上がる。

 

 一歩、近づく。

 

 また一歩。

 

 距離を詰める。

 

 女は逃げない。

 

 逃げる余力がないのか、それとも――信じるしかないのか。

 

「案ずるな」

 

 静かな声。

 

 それだけで、女の肩がわずかに揺れた。

 

 憲倫は手をかざす。

 

 触れない。

 

 ただ、“視る”。

 

 流れ。

 

 残滓。

 

 歪み。

 

 そして――構造。

 

 人であったもの。

 

 呪霊であったもの。

 

 その境界が崩れ、混ざり合い、無理やり形を持たされた結果。

 

 そして、それが一度“成立してしまった”という事実。

 

 憲倫は結論を出す。

 

「……なるほど」

 

 小さく呟く。

 

 理解は早い。

 

 迷いはない。

 

「お主の責ではない」

 

 女の呼吸が崩れる。

 

 その言葉を受け止めきれないように。

 

 それでも、わずかに救われる。

 

 ほんの僅かに。

 

「それは“結果”であって、“選択”ではない」

 

 一拍。

 

「ゆえに、お主に罪はない」

 

 静かな断定だった。

 

 女は何も言えない。

 

 ただ、抱きしめる腕にさらに力を込める。

 

 それでも離さない。

 

 憲倫はその様子を見て、わずかに目を細めた。

 

 そして言う。

 

「安心せよ」

 

 一拍。

 

「ここに来たのは正解である」

 

 女の呼吸が、少しだけ整う。

 

 まだ震えている。

 

 だが、崩れない。

 

「どうにかする」

 

 迷いのない言葉だった。

 

 外では風がわずかに動く。

 

 夜は静かだ。

 

 だがその奥で――

 

 確かに何かが、動き始めていた。

 

---

 

 寺の外。

 

 石段の下。

 

 闇に溶けるように、一人の男が立っていた。

 

 灯りは届かない。

 

 顔の輪郭すら、はっきりとは見えない。

 

 だが――

 

 その額。

 

 不自然に刻まれた“縫い目”だけが、わずかに浮かび上がる。

 

 男は、じっと寺を見上げていた。

 

 その視線は、奥の一室へと向けられている。

 

 わずかに――口元が歪む。

 

「……面白い」

 

 低く、愉快そうな声。

 

「呪霊を宿す器が……自然に現れるとは」

 

 くつり、と喉の奥で笑う。

 

 想定外に対する、純粋な興味。

 

 観察者としての愉悦。

 

 男は一歩、闇の奥へと下がる。

 

 気配が薄れる。

 

 存在が、溶ける。

 

 その時――

 

 不意に、寺の門の方へ視線が流れる。

 

 ほんの僅か。

 

 だが、確かな意味を持つ動き。

 

 そして。

 

 同じ夜。

 

 門の前。

 

 そこに立っていたはずの門番が――

 

 誰もいない。

 

 気配も、痕跡も、残っていない。

 

 ただ。

 

 ほんの一瞬前まで、確かにそこに“いた”はずの空間だけが、静かに残されている。

 

 そして、闇の中。

 

 男は、もう一度だけ笑った。

 

 静かに。

 

 楽しむように。

 

 ――あの門番と、まったく同じ笑みで。

 

 夜は再び、何もなかったかのように静まり返った。

 

 




憲倫
恒一を次の加茂家当主にしようと考えている。たぶん当主引退して自由になったら他の御三家の所に遊びにいってからかいに行くのが日常になる。
言緒に呪言の使い方の解釈を広げさせた。

恒一
しれっと赤血操術持ちになった。最初は骨を操る術式にしようと思ったがやめた。準1術師ということを今決めた。

言緒
自分にかける呪言を覚えた。本来は自分に使うと呪力消費は少ないはずだが付け焼き刃だったため使いこなせなかった。使いこなせたら術式なしの恒一はシバキ倒せるかもしれない。今の実力は2級術師ぐらい。
歳書いたか忘れたけど12歳ぐらい。


受胎九相図の生みの親。
原作では逃げ込んだ先の加茂憲倫は羂索に乗っ取られていたが今回は素の加茂憲倫なのでまだギリギリセーフのはず。

門番
頭に縫い目がある名も無き門番。





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