明治強者加茂憲倫   作:カツオのタタキ

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第七話 不変

 

既に戦いは始まっている。視界に映る景色は、前の瞬間と何ひとつ変わらない。ここは呪霊の生得領域。外界から切り離された内側でありながら、その異様さは歪みではなく“変化の欠如”にあった。崩れない。流れない。散らない。すべてが途中で止まる。否——この場では変化そのものが成立していない。

 

 ケヒヒ。

 

 低く、乾いた笑いが響く。耳障りなその音の奥に、わずかに混じる“別の質”。濁っている。だが、それだけではない。重なっている。沈みきらない何かが、底に残っている。

 

 憲倫の視線がわずかに細まる。

 

(……妙だな)

 

 呪霊特有の淀みではない。もっと無理やり押し広げられたような密度。内から育ったものではない。外から引き延ばされたような歪み。

 

 キキキ。

 

 呪霊の首が傾く。骨が噛み合わないようなぎこちなさ。それでも、その内側に詰め込まれた呪力だけは、異様なまでに重い。

 

 憲倫はわずかに重心を引く。踏み込んだ感触はある。だが砂は跳ねず、地は崩れない。動きの結果が視覚に現れず、音だけが遅れて届く。

 

 次の瞬間、呪霊がそこにいる。

 

 キヒッ。

 

 過程はない。ただ“そこに至った結果”だけがある。振り抜かれた腕が、遅れて風圧を伴って空気を裂く。憲倫は身体を開き、それを最小の動きで外す。頬を掠めた空気が遅れて震え、さらに遅れて地面が抉れる。舞い上がった土は途中で止まり、宙に留まる。

 

 憲倫は動かない。ただ観る。宙に残る土、揺れきらぬ空気、散りきらぬ気配。

 

(止めている……いや、違うな)

 

 圧ではない。もっと静かな理。変化を拒絶しているのではなく、“変わらない状態を保っている”。

 

 血を拾う。袖口、頬、先の掠り傷。すでに外に出ている血を、そのまま操る。

 

「——血刃」

 

 血を刃として成形し、斬撃として放つ。赤が一直線に走る。

 

 キヒッ。

 

 呪霊の視線が揺れる。

 

 血刃が途中で止まる。

 

 空間に固定される。

 

 憲倫はそのまま観察を続ける。呪霊が一歩“詰める”。その瞬間、止まっていた血刃が再び動く。

 

(遅延ではない、不変か)

 

 

 さらに試す。二本、三本、四本。角度をずらし、速度を変え、わずかな時間差をつける。

 

 ケヒヒ。

 

 呪霊がそれらを選別する。止める。だが、すべてではない。二本が抜け、三本目が通る。浅い傷が刻まれる。

 

(蓄積でもない)

 

 さらに数を増やす。細く削った血を、あえて不規則に散らす。軌道を揺らし、規則性を崩す。

 

 キキキ。

 

 呪霊の反応がわずかに遅れる。止めるべきものとそうでないものの“選別”がぶれる。一本が通り、続けてもう一本が通る。

 

(同時処理の限界)

 

 さらに試す。今度は意図的に“止めさせる”刃を混ぜる。明らかに脅威の高い軌道を正面に置き、その裏に本命を通す。

 

 キヒッ。

 

 呪霊が正面を止める。

 

 その瞬間、斜め下からの刃が腿を裂く。

 

(優先順位がある)

 

 さらに重ねる。重さを変える。血を圧縮し、塊として叩き込む。

 

 ケヒヒ。

 

 呪霊がそれを強く止める。

 

 その瞬間、背後からの刃が通る。

 

(重い変化ほど負担が大きい)

 

 さらに、同時に二つの塊を投げる。呪霊の動きが一瞬だけ揺れる。

 

 キキキッ。

 

 一つは止まる。

 

 もう一つが通る。

 

(抱えきれない)

 

 さらに位置。正面、側面、背後。位置を変えながら、反応の濃淡を測る。

 

 濃い。

 

 薄い。

 

 明確にある。

 

「術式効果は不変」

 

「だが——無辺ではない」

 

 呪霊が詰める。

 

「届く範囲がある」

 

 さらに速く。

 

 ケヒヒ。

 

「抱えられる数にも限りがある」

 

 振るう。

 

「……重い変化ほど、喰う」

 

 その瞬間、呪霊が深く踏み込む。

 

 キキキィッ!!

 

 距離が消える。

 

 憲倫の動きが一瞬遅れる。肩を抉られる。血が散る。止まる。

 

(内部にも干渉するか)

 

 筋肉の収縮、血流、動作の連続性。すべてが僅かに乱れる。

 

さて——)

 

 これは、仕組まれている。

 

 その認識に、もはや揺らぎはなかった。

 

 この呪霊の性質。

 

 この領域の在り方。

 

 そして、与えられた情報の偏り。

 

 どれを取っても、偶発で片付けるには整いすぎている。

 

 憲倫は、わずかに視線を巡らせた。

 

 閉じた空間。

 

 外界から切り離された生得領域。

 

 ここで何が起きようと、外には届かない。

 

 そして同時に——こちらも外の様子を知る術がない。

 

(……都合が良すぎるな)

 

 思考が、静かに組み上がる。

 

 任務として与えられた情報は最小限だった。

 

 特級相当の反応。

 

 座標のみ明確。

 

 術式の記述はなし。

 

 規模も曖昧。

 

 だが、その“座標だけは”異様なほど正確だった。

 

 辿り着ける。

 

 迷わず入れる。

 

 そして、確実に遭遇する。

 

 そこに不確定が一切ない。

 

(……誘導か)

 

 自然と、その結論に至る。

 

 ならば問題は、その先だ。

 

 何のために、ここへ導いた。

 

 憲倫は呪霊の一撃を受け流しながら、思考を整理する。

 

 ひとつ。

 

 ——自分の始末。

 

 最も単純で、分かりやすい。

 

 特級呪霊をぶつける。

 

 それだけで成立する。

 

 実際、目の前の相手はそれに足る。単なる力押しではなく、術式の相性まで含めれば、こちらを削り切ることも不可能ではない。

 

 だが。

 

 憲倫はその可能性を、そこで一度横に置く。

 

 それだけが目的にしては、手が込みすぎている。

 

 術式情報を伏せる必要がない。

 

 こちらに解析の余地を与える意味も薄い。

 

 より確実に仕留める手段は、他に幾らでもある。

 

 ならば——

 

 ふたつ。

 

 ——自分の実力、手の内を暴くため。

 

 ここで初めて、この呪霊の配置に意味が生まれる。

 

 憲倫の口元が、わずかに歪む。

 

 この呪霊は、単に強いだけではない。

 

 “引き出す”構造をしている。

 

 対応しなければ押し潰される。

 

 対応すれば、手を見せることになる。

 

 どこまでやるか。

 

 どこまで見せるか。

 

 どの段階で戦い方を変えるか。

 

 血刃で済ませるのか。

 

 拘束まで踏み込むのか。

 

 空間を支配するのか。

 

 あるいは——さらに奥を使うのか。

 

 戦えば戦うほど、こちらの“選択”が露になる。

 

 この呪霊は、そのための器だ。

 

 だが、それでもなお。

 

 まだ一つ、残る。

 

 憲倫の視線が、わずかに落ちる。

 

 ほんの一瞬。

 

 思考が、領域の外へと向いた。

 

 山中の寺。

 

 あの場所に残してきたもの。

 

(……三つ目か)

 

 静かに、思考がそこへ至る。

 

 ——手薄になった寺を狙う。

 

 自分をここへ引き離す。

 

 閉じた領域に縛り付ける。

 

 外界と遮断する。

 

 その間に、別の場所を叩く。

 

 それもまた、極めて理にかなっている。

 

 しかも。

 

 この三つは、互いに排他ではない。

 

 どれか一つを選ぶ必要がない。

 

 同時に成立する。

 

 自分を仕留められれば、それでよし。

 

 仕留められずとも、手の内を引き出せればよし。

 

 そのどちらであっても、その間に寺を叩ければ、それもまたよし。

 

 無駄がない。

 

 逃げ道もない。

 

 だからこそ——

 

 憲倫は、ゆるやかに笑った。

 

「丁寧なことだ」

 

 感心とも、皮肉ともつかぬ声だった。

 

 始末。

 

 観測。

 

 攪乱。

 

 それらを分けず、ひとつに束ねている。

 

「……すべて、か」

 

 低く落とす。

 

 結論は明白だった。

 

 どれかではない。

 

 どれでもよいのではなく——

 

 どれも通るように組まれている。

 

 それが、この任務の本質。

 

 それだけの価値が、自分にあると見ているということでもある。

 

 憲倫は、わずかに視線を上げた。

 

「見ているのだろうな」

 

 誰に向けた言葉でもない。

 

 だがその先に、“意図”があることだけは確かだった。

 

 呪霊の顔が至近にある。

 

 ケヒヒヒ。

 

 笑っている。

 

 だが、その笑いはどこか“ずれている”。

 

 憲倫はその違和感を見逃さない。

 

(制御しきれていないな)

 

 反応が過剰になる瞬間がある。止める必要のないものまで止める。逆に、止めるべきものを取りこぼす。

 

 キキキ。

 

 揺れている。

 

(器に対して過剰な力)

 

 自然ではない。この強度。この術式。この歪み。

 

(……混ざっている)

 

 ただの呪霊ではない。

 

 異物がある。

 

 だが融合していない。

 

(……誰かがやったか)

 

 意図的に“引き上げられた”存在。

 

 憲倫はわずかに笑う。

 

「丁寧なことだ」

 

 その言葉には、先ほどとは違う意味が含まれていた。

 

 

 呪霊が再び踏み込む。キヒッ。連続する“結果だけの攻撃”。間合いが崩される。近い。速い。精度が高い。

 

(近距離ほど精度が上がる)

 

「……ほう」

 

「そう来るか」

 

 ならば前提を変える。

 

「——赤燐躍動」

 

 血流を加速させ、身体能力を底上げする。動きが変わる。速い。鋭い。無駄が消える。

 

 呪霊が一瞬だけ引く。

 

 キキキ。

 

 警戒。

 

 憲倫は踏み込む。今度は自ら間合いを詰める。打ち込み、捌き、流す。最小の動きで攻撃を外し、そのまま反撃へ繋げる。

 

 だが完全ではない。

 

 ズレる。

 

 わずかに。

 

(ならば、それ込みで動く)

 

 血を広げる。今度は攻撃ではない。配置。

 

 床。

 

 空中。

 

 中途半端な位置。

 

 あえて止めさせる。

 

 キヒッ。

 

 呪霊がそれを止める。

 

 血が残る。

 

 空間に。

 

 途中の形で。

 

 さらに増やす。

 

 さらに。

 

 さらに。

 

「変えぬのならば——」

 

 止めさせる。

 

 積み上げる。

 

「そのまま使わせてもらおう」

 

 戦場が変わる。

 

 動けば触れる。

 

 避ければ別がある。

 

 止めれば、別が通る。

 

 キキキ。

 

 呪霊が動く。

 

 だが。

 

 動けない。

 

 踏み込めば触れる。

 

 止める。

 

 ケヒヒ。

 

 だが抜ける。

 

(選ばせる)

 

 血刃が走る。

 

 多方向。

 

 同時。

 

 時間差。

 

 キキキキキッ!!

 

 呪霊が叫ぶ。

 

 止める。

 

 だが足りない。

 

 削れる。

 

 増える。

 

 逃げ場が減る。

 

 ケヒヒヒヒ。

 

 笑っている。

 

 だが。

 

 確実に削れている。

 

 少しずつ。

 

 確実に。

 

 憲倫は静かに息を吐く。

 

「なるほど」

 

「ようやく、形が見えてきたな」

 

 呪霊が笑う。

 

 ケヒヒヒ。

 

 だが、その理はすでに見抜かれている。

 

 戦いは——さらに深く進んでいく。

 

 

 

 

 

 その頃。山中の寺は、静寂の中にあった。風は吹いている。だが音がない。木々は揺れているはずなのに、そのざわめきはどこか遠い。境内に満ちる空気は澄んでいる。澄みすぎている、と言ってもいい。巡回中の術師が、足を止めた。理由はない。だが確かに、何かが“引っかかる”。視線を巡らせる。異常はない。配置も、結界も、人の気配も、すべてが正常に見える。——そう、“見える”。

 

(……いる)

 

 その感覚だけが、消えない。術師はゆっくりと振り返った。そして、目が合う。数歩先。影の中に、ひとりの男が立っている。何の気配もなく、ただそこにいる。結界は破られていない。侵入の兆候もない。それなのに、なぜ内側にいる——その疑問が形になりかけた瞬間、口が動いた。

 

「——誰だ」

 

 反射的な問い。その直後、男がわずかに首を傾げる。

 

「……ああ」

 

「見えているのか」

 

 次の瞬間、距離が消える。踏み込みはない。だがもう目の前にいる。術師の身体が反応する。呪力を巡らせ、腕を上げる——だが間に合わない。男の腕が、自然な動きで伸びる。無駄のない一動作。最短距離で喉元へ打ち込まれる。鈍い音。骨がわずかに鳴る。術師の身体が止まる。声は出ない。呼吸が途切れる。そのまま崩れかけた身体を、男が軽く支える。倒れる方向を制御するように、音を立てないように。地面へ、静かに横たえる。完全に絶命している。血はほとんど出ていない。ただ、命だけが抜き取られている。

 

 男はそれを一瞥する。興味は薄い。視線が上がる。境内、巡回する術師たち、張り巡らされた結界、整えられた配置——すべてを一瞬で把握する。そして、わずかに眉を動かす。

 

「……御三家ねぇ」

 

「この程度か」

 

 落胆というほどでもない。ただ、期待を下回ったことへの確認のような声音。

 

 ほんの僅かに肩をすくめる。

 

「もう少し骨があると思っていたんだけどね」

 

 それだけ言って、関心を切り替える。すっと身を引く。建物の影へ。気配が消える。そこに“いる”はずなのに、誰の認識にも引っかからない。動かない。ただ、見ている。巡回の間隔。視線の動き。足取りの癖。すべてを観察する。

 

 やがて、ひとりの術師が角を曲がる。視線が外れる。その瞬間、男は動く。一歩。すでに位置が変わっている。柱の裏へ、さらに奥の影へ。視線の死角だけを繋いで進む。音はない。存在の意味すら薄い。だが、次の瞬間——ひとりの術師が振り返る。直感。説明できない違和感。視線が合う。一瞬だけ。

 

 男の目が、それを捉える。

 

 次の瞬間には、距離が消えている。同じだ。最短の動き。最小の力。喉元へ、正確に打ち込む。息が詰まる。声は出ない。崩れる。その身体を支え、静かに地面へと下ろす。音はほとんどしない。終わり。一連の動作に無駄はない。感情もない。ただ処理するように。

 

 そのすぐ後。別の巡回術師が、足を止める。理由はない。だが、止まる。視線を落とす。何もない。血も、痕跡も、争った跡もない。だが——“何かが欠けている”。そこにいたはずのものが、抜け落ちているような感覚。言葉にはならない。だが確かに、違和がある。

 

「……おい」

 

「この区画、誰か通ったか?」

 

「いや、異常はない」

 

 即答。迷いのない声。だが、それが逆に引っかかる。

 

「……妙だな」

 

 小さく呟く。胸の奥に、じわりと不快感が広がる。人の流れが、ほんの僅かにズレている。配置が、わずかに空いている。だがそれを“異常”と断言できない。

 

 その少し先。建物の影の中で、男は静かに立っている。誰にも見られていない。だから動かない。ただ待つ。ひとりの術師が通り過ぎる。視線は外れている。距離もある。問題ない。男は動く。一歩。次の影へ。さらに奥へ。見られない限り、何もしない。見られた瞬間だけ、殺す。それだけの単純な行動。だが、それで十分だった。

 

 境内の空気が、わずかに変わる。明確ではない。だが確実に、何かが減っている。巡回の間隔が、ほんの僅かにズレる。配置に、わずかな空きが生まれる。誰もそれを言葉にできない。だが、全員が感じている。

 

「……妙だな」

 

「人の流れが……おかしくないか?」

 

「いや……変わっていないはずだ」

 

 “はず”。その言葉が引っかかる。断言できない。わずかなズレが、確実に積み重なっている。

 

 その奥で、男は歩みを止める。視線が上がる。本堂の先。さらに奥。“目的”の位置を正確に捉える。わずかに、笑う。

 

「ここまで厳重にしておいて」

 

「内部を疑わないのは、少し甘いよね」

 

 静かな声。誰にも届かない。

 

「……あの子を守りたいんだろうけど」

 

「それなら」

 

「自分が離れちゃだめだろう」

 

 淡々とした言葉。その意味だけが重い。

 

 そして、ほんの僅かに楽しげに。

 

「とはいえ——」

 

「御三家にこうして潜り込むのは、悪くない」

 

 口元がわずかに歪む。

 

「少し、楽しくなってきたよ」

 

 男は再び歩き出す。誰にも見られず。誰にも止められず。静かに、確実に、寺の奥へと入り込んでいく。侵入は——すでに終わっている。だが、誰もそれに気付いていない。

 

 静寂は変わらない。だが、その静けさの中で、確実に何かが崩れ始めている。

 

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