不定期更新になるとは思いますがよろしくお願いします。
感想、評価、お気に入り登録お待ちしております
既に戦いは始まっている。視界に映る景色は、前の瞬間と何ひとつ変わらない。ここは呪霊の生得領域。外界から切り離された内側でありながら、その異様さは歪みではなく“変化の欠如”にあった。崩れない。流れない。散らない。すべてが途中で止まる。否——この場では変化そのものが成立していない。
ケヒヒ。
低く、乾いた笑いが響く。耳障りなその音の奥に、わずかに混じる“別の質”。濁っている。だが、それだけではない。重なっている。沈みきらない何かが、底に残っている。
憲倫の視線がわずかに細まる。
(……妙だな)
呪霊特有の淀みではない。もっと無理やり押し広げられたような密度。内から育ったものではない。外から引き延ばされたような歪み。
キキキ。
呪霊の首が傾く。骨が噛み合わないようなぎこちなさ。それでも、その内側に詰め込まれた呪力だけは、異様なまでに重い。
憲倫はわずかに重心を引く。踏み込んだ感触はある。だが砂は跳ねず、地は崩れない。動きの結果が視覚に現れず、音だけが遅れて届く。
次の瞬間、呪霊がそこにいる。
キヒッ。
過程はない。ただ“そこに至った結果”だけがある。振り抜かれた腕が、遅れて風圧を伴って空気を裂く。憲倫は身体を開き、それを最小の動きで外す。頬を掠めた空気が遅れて震え、さらに遅れて地面が抉れる。舞い上がった土は途中で止まり、宙に留まる。
憲倫は動かない。ただ観る。宙に残る土、揺れきらぬ空気、散りきらぬ気配。
(止めている……いや、違うな)
圧ではない。もっと静かな理。変化を拒絶しているのではなく、“変わらない状態を保っている”。
血を拾う。袖口、頬、先の掠り傷。すでに外に出ている血を、そのまま操る。
「——血刃」
血を刃として成形し、斬撃として放つ。赤が一直線に走る。
キヒッ。
呪霊の視線が揺れる。
血刃が途中で止まる。
空間に固定される。
憲倫はそのまま観察を続ける。呪霊が一歩“詰める”。その瞬間、止まっていた血刃が再び動く。
(遅延ではない、不変か)
さらに試す。二本、三本、四本。角度をずらし、速度を変え、わずかな時間差をつける。
ケヒヒ。
呪霊がそれらを選別する。止める。だが、すべてではない。二本が抜け、三本目が通る。浅い傷が刻まれる。
(蓄積でもない)
さらに数を増やす。細く削った血を、あえて不規則に散らす。軌道を揺らし、規則性を崩す。
キキキ。
呪霊の反応がわずかに遅れる。止めるべきものとそうでないものの“選別”がぶれる。一本が通り、続けてもう一本が通る。
(同時処理の限界)
さらに試す。今度は意図的に“止めさせる”刃を混ぜる。明らかに脅威の高い軌道を正面に置き、その裏に本命を通す。
キヒッ。
呪霊が正面を止める。
その瞬間、斜め下からの刃が腿を裂く。
(優先順位がある)
さらに重ねる。重さを変える。血を圧縮し、塊として叩き込む。
ケヒヒ。
呪霊がそれを強く止める。
その瞬間、背後からの刃が通る。
(重い変化ほど負担が大きい)
さらに、同時に二つの塊を投げる。呪霊の動きが一瞬だけ揺れる。
キキキッ。
一つは止まる。
もう一つが通る。
(抱えきれない)
さらに位置。正面、側面、背後。位置を変えながら、反応の濃淡を測る。
濃い。
薄い。
明確にある。
「術式効果は不変」
「だが——無辺ではない」
呪霊が詰める。
「届く範囲がある」
さらに速く。
ケヒヒ。
「抱えられる数にも限りがある」
振るう。
「……重い変化ほど、喰う」
その瞬間、呪霊が深く踏み込む。
キキキィッ!!
距離が消える。
憲倫の動きが一瞬遅れる。肩を抉られる。血が散る。止まる。
(内部にも干渉するか)
筋肉の収縮、血流、動作の連続性。すべてが僅かに乱れる。
さて——)
これは、仕組まれている。
その認識に、もはや揺らぎはなかった。
この呪霊の性質。
この領域の在り方。
そして、与えられた情報の偏り。
どれを取っても、偶発で片付けるには整いすぎている。
憲倫は、わずかに視線を巡らせた。
閉じた空間。
外界から切り離された生得領域。
ここで何が起きようと、外には届かない。
そして同時に——こちらも外の様子を知る術がない。
(……都合が良すぎるな)
思考が、静かに組み上がる。
任務として与えられた情報は最小限だった。
特級相当の反応。
座標のみ明確。
術式の記述はなし。
規模も曖昧。
だが、その“座標だけは”異様なほど正確だった。
辿り着ける。
迷わず入れる。
そして、確実に遭遇する。
そこに不確定が一切ない。
(……誘導か)
自然と、その結論に至る。
ならば問題は、その先だ。
何のために、ここへ導いた。
憲倫は呪霊の一撃を受け流しながら、思考を整理する。
ひとつ。
——自分の始末。
最も単純で、分かりやすい。
特級呪霊をぶつける。
それだけで成立する。
実際、目の前の相手はそれに足る。単なる力押しではなく、術式の相性まで含めれば、こちらを削り切ることも不可能ではない。
だが。
憲倫はその可能性を、そこで一度横に置く。
それだけが目的にしては、手が込みすぎている。
術式情報を伏せる必要がない。
こちらに解析の余地を与える意味も薄い。
より確実に仕留める手段は、他に幾らでもある。
ならば——
ふたつ。
——自分の実力、手の内を暴くため。
ここで初めて、この呪霊の配置に意味が生まれる。
憲倫の口元が、わずかに歪む。
この呪霊は、単に強いだけではない。
“引き出す”構造をしている。
対応しなければ押し潰される。
対応すれば、手を見せることになる。
どこまでやるか。
どこまで見せるか。
どの段階で戦い方を変えるか。
血刃で済ませるのか。
拘束まで踏み込むのか。
空間を支配するのか。
あるいは——さらに奥を使うのか。
戦えば戦うほど、こちらの“選択”が露になる。
この呪霊は、そのための器だ。
だが、それでもなお。
まだ一つ、残る。
憲倫の視線が、わずかに落ちる。
ほんの一瞬。
思考が、領域の外へと向いた。
山中の寺。
あの場所に残してきたもの。
(……三つ目か)
静かに、思考がそこへ至る。
——手薄になった寺を狙う。
自分をここへ引き離す。
閉じた領域に縛り付ける。
外界と遮断する。
その間に、別の場所を叩く。
それもまた、極めて理にかなっている。
しかも。
この三つは、互いに排他ではない。
どれか一つを選ぶ必要がない。
同時に成立する。
自分を仕留められれば、それでよし。
仕留められずとも、手の内を引き出せればよし。
そのどちらであっても、その間に寺を叩ければ、それもまたよし。
無駄がない。
逃げ道もない。
だからこそ——
憲倫は、ゆるやかに笑った。
「丁寧なことだ」
感心とも、皮肉ともつかぬ声だった。
始末。
観測。
攪乱。
それらを分けず、ひとつに束ねている。
「……すべて、か」
低く落とす。
結論は明白だった。
どれかではない。
どれでもよいのではなく——
どれも通るように組まれている。
それが、この任務の本質。
それだけの価値が、自分にあると見ているということでもある。
憲倫は、わずかに視線を上げた。
「見ているのだろうな」
誰に向けた言葉でもない。
だがその先に、“意図”があることだけは確かだった。
呪霊の顔が至近にある。
ケヒヒヒ。
笑っている。
だが、その笑いはどこか“ずれている”。
憲倫はその違和感を見逃さない。
(制御しきれていないな)
反応が過剰になる瞬間がある。止める必要のないものまで止める。逆に、止めるべきものを取りこぼす。
キキキ。
揺れている。
(器に対して過剰な力)
自然ではない。この強度。この術式。この歪み。
(……混ざっている)
ただの呪霊ではない。
異物がある。
だが融合していない。
(……誰かがやったか)
意図的に“引き上げられた”存在。
憲倫はわずかに笑う。
「丁寧なことだ」
その言葉には、先ほどとは違う意味が含まれていた。
⸻
呪霊が再び踏み込む。キヒッ。連続する“結果だけの攻撃”。間合いが崩される。近い。速い。精度が高い。
(近距離ほど精度が上がる)
「……ほう」
「そう来るか」
ならば前提を変える。
「——赤燐躍動」
血流を加速させ、身体能力を底上げする。動きが変わる。速い。鋭い。無駄が消える。
呪霊が一瞬だけ引く。
キキキ。
警戒。
憲倫は踏み込む。今度は自ら間合いを詰める。打ち込み、捌き、流す。最小の動きで攻撃を外し、そのまま反撃へ繋げる。
だが完全ではない。
ズレる。
わずかに。
(ならば、それ込みで動く)
血を広げる。今度は攻撃ではない。配置。
床。
空中。
中途半端な位置。
あえて止めさせる。
キヒッ。
呪霊がそれを止める。
血が残る。
空間に。
途中の形で。
さらに増やす。
さらに。
さらに。
「変えぬのならば——」
止めさせる。
積み上げる。
「そのまま使わせてもらおう」
戦場が変わる。
動けば触れる。
避ければ別がある。
止めれば、別が通る。
キキキ。
呪霊が動く。
だが。
動けない。
踏み込めば触れる。
止める。
ケヒヒ。
だが抜ける。
(選ばせる)
血刃が走る。
多方向。
同時。
時間差。
キキキキキッ!!
呪霊が叫ぶ。
止める。
だが足りない。
削れる。
増える。
逃げ場が減る。
ケヒヒヒヒ。
笑っている。
だが。
確実に削れている。
少しずつ。
確実に。
憲倫は静かに息を吐く。
「なるほど」
「ようやく、形が見えてきたな」
呪霊が笑う。
ケヒヒヒ。
だが、その理はすでに見抜かれている。
戦いは——さらに深く進んでいく。
その頃。山中の寺は、静寂の中にあった。風は吹いている。だが音がない。木々は揺れているはずなのに、そのざわめきはどこか遠い。境内に満ちる空気は澄んでいる。澄みすぎている、と言ってもいい。巡回中の術師が、足を止めた。理由はない。だが確かに、何かが“引っかかる”。視線を巡らせる。異常はない。配置も、結界も、人の気配も、すべてが正常に見える。——そう、“見える”。
(……いる)
その感覚だけが、消えない。術師はゆっくりと振り返った。そして、目が合う。数歩先。影の中に、ひとりの男が立っている。何の気配もなく、ただそこにいる。結界は破られていない。侵入の兆候もない。それなのに、なぜ内側にいる——その疑問が形になりかけた瞬間、口が動いた。
「——誰だ」
反射的な問い。その直後、男がわずかに首を傾げる。
「……ああ」
「見えているのか」
次の瞬間、距離が消える。踏み込みはない。だがもう目の前にいる。術師の身体が反応する。呪力を巡らせ、腕を上げる——だが間に合わない。男の腕が、自然な動きで伸びる。無駄のない一動作。最短距離で喉元へ打ち込まれる。鈍い音。骨がわずかに鳴る。術師の身体が止まる。声は出ない。呼吸が途切れる。そのまま崩れかけた身体を、男が軽く支える。倒れる方向を制御するように、音を立てないように。地面へ、静かに横たえる。完全に絶命している。血はほとんど出ていない。ただ、命だけが抜き取られている。
男はそれを一瞥する。興味は薄い。視線が上がる。境内、巡回する術師たち、張り巡らされた結界、整えられた配置——すべてを一瞬で把握する。そして、わずかに眉を動かす。
「……御三家ねぇ」
「この程度か」
落胆というほどでもない。ただ、期待を下回ったことへの確認のような声音。
ほんの僅かに肩をすくめる。
「もう少し骨があると思っていたんだけどね」
それだけ言って、関心を切り替える。すっと身を引く。建物の影へ。気配が消える。そこに“いる”はずなのに、誰の認識にも引っかからない。動かない。ただ、見ている。巡回の間隔。視線の動き。足取りの癖。すべてを観察する。
やがて、ひとりの術師が角を曲がる。視線が外れる。その瞬間、男は動く。一歩。すでに位置が変わっている。柱の裏へ、さらに奥の影へ。視線の死角だけを繋いで進む。音はない。存在の意味すら薄い。だが、次の瞬間——ひとりの術師が振り返る。直感。説明できない違和感。視線が合う。一瞬だけ。
男の目が、それを捉える。
次の瞬間には、距離が消えている。同じだ。最短の動き。最小の力。喉元へ、正確に打ち込む。息が詰まる。声は出ない。崩れる。その身体を支え、静かに地面へと下ろす。音はほとんどしない。終わり。一連の動作に無駄はない。感情もない。ただ処理するように。
そのすぐ後。別の巡回術師が、足を止める。理由はない。だが、止まる。視線を落とす。何もない。血も、痕跡も、争った跡もない。だが——“何かが欠けている”。そこにいたはずのものが、抜け落ちているような感覚。言葉にはならない。だが確かに、違和がある。
「……おい」
「この区画、誰か通ったか?」
「いや、異常はない」
即答。迷いのない声。だが、それが逆に引っかかる。
「……妙だな」
小さく呟く。胸の奥に、じわりと不快感が広がる。人の流れが、ほんの僅かにズレている。配置が、わずかに空いている。だがそれを“異常”と断言できない。
その少し先。建物の影の中で、男は静かに立っている。誰にも見られていない。だから動かない。ただ待つ。ひとりの術師が通り過ぎる。視線は外れている。距離もある。問題ない。男は動く。一歩。次の影へ。さらに奥へ。見られない限り、何もしない。見られた瞬間だけ、殺す。それだけの単純な行動。だが、それで十分だった。
境内の空気が、わずかに変わる。明確ではない。だが確実に、何かが減っている。巡回の間隔が、ほんの僅かにズレる。配置に、わずかな空きが生まれる。誰もそれを言葉にできない。だが、全員が感じている。
「……妙だな」
「人の流れが……おかしくないか?」
「いや……変わっていないはずだ」
“はず”。その言葉が引っかかる。断言できない。わずかなズレが、確実に積み重なっている。
その奥で、男は歩みを止める。視線が上がる。本堂の先。さらに奥。“目的”の位置を正確に捉える。わずかに、笑う。
「ここまで厳重にしておいて」
「内部を疑わないのは、少し甘いよね」
静かな声。誰にも届かない。
「……あの子を守りたいんだろうけど」
「それなら」
「自分が離れちゃだめだろう」
淡々とした言葉。その意味だけが重い。
そして、ほんの僅かに楽しげに。
「とはいえ——」
「御三家にこうして潜り込むのは、悪くない」
口元がわずかに歪む。
「少し、楽しくなってきたよ」
男は再び歩き出す。誰にも見られず。誰にも止められず。静かに、確実に、寺の奥へと入り込んでいく。侵入は——すでに終わっている。だが、誰もそれに気付いていない。
静寂は変わらない。だが、その静けさの中で、確実に何かが崩れ始めている。