門は、静かに削がれていた。砕けたのでも焼けたのでもない。ただ、そこにあるべき形だけが綺麗に失われている。
憲倫は足を止めず、そのまま境内へ踏み入る。血の匂いが濃い。視線だけで全体をなぞる。倒れている術師、崩れた建物、散った血。――妙だ。荒らされた跡ではない。暴れた痕でもない。必要な分だけ壊し、不要なものを残した痕跡。処理されている。
足を進める。石畳の上に、二つの影。
「……恒一」
名を呼ぶと、僅かに肩が揺れた。
「……当主……」
顔を上げるだけで苦痛が走るのが分かる。全身に刻まれた裂傷。血の量も深さも尋常ではない。
「申し訳…ございません……」
「……女を守れませんでした……」
憲倫はわずかに目を細める。
「報告を」
短く促す。恒一は一度息を詰め、血を吐きながら言葉を繋ぐ。
「……気付いた時には……既に侵入されておりました」
「最初に異変に気付いたのは……言緒です」
「すぐに……寺の者が駆けつけそのまま……戦闘に…」
「……ですが……敵は強く防ぎきれず……」
「……女を連れ去りそのまま……逃亡…」
血が口元から落ちる。
「……静継殿が……すぐに……追いました……」
憲倫は視線を横へ移す。言緒。小さな身体が血に濡れ、特に喉元の損傷がひどい。
「言緒」
「……っ……」
声にならない。それでも何かを伝えようとする。
「……そ……」
血を吐く。言緒の視線がゆっくりと持ち上がる。その先――境内の奥に、一つの影が立っていた。衣の乱れた姿、血の付いた袖。見慣れたはずのその姿に、言緒の喉が震える。
「……その、人……」
「……ちが――」
足音が一つ。前から、その影がゆっくりと近づいてくる。
藤野静継。呼吸は荒く、衣は乱れている。戦って戻ってきた、そのままの姿。
「……憲倫殿」
「戻られましたか」
声も同じ。違和感は微か。ほんのわずかなズレ。だが――確信には至らない。
静継が、一歩前へ出た。
その瞬間だった。
視界が、わずかに歪む。
何かが起きたという認識だけが、先に走る。
次の瞬間。
憲倫の身体は、すでに貫かれていた。
黒の和装の背から、銀の刃が突き出ている。
一拍遅れて、胸の奥に異物感が広がった。
音は、ない。
風が止まっている。血の滴る音すら、聞こえない。
倒れている術師も、崩れた瓦も、何一つ揺れていない。
世界が、切り取られたように静止していた。
その中で。
刃だけが、そこにある。
胸を貫き、そのまま背まで抜けている。
憲倫の視線が、ゆっくりと落ちる。自らの胸元。深く差し込まれた呪具の刀。その柄を握る、静継の手。
そこで、全てが繋がる。
次の瞬間。
世界が、戻る。
風が吹き抜ける。血が滴り落ちる。止まっていた空気が、一斉に動き出す。
憲倫の身体が、わずかに揺れた。だが、膝は折れない。
ゆっくりと顔を上げる。静継の口元が歪んでいた。笑っている。言葉はない。ただ、視線だけが倒れている言緒へ向けられている。
そこで、全てが繋がる。憲倫の目が、静継の額へ向く。
縫い目。
「静継をどうした」
静継の顔で、男は答える。
「使わせてもらっている」
「追ってきたのは彼の方だ、私は迎えただけだよ」
それで終わりだった。静継は、もういない。
「……そうか」
「最後まで、抗ったか」
一瞬だけ沈む感情。次の瞬間、胸部内部の血が収束する。凝固、圧縮、封鎖。貫通した刃の周囲ごと強引に固定する。
「おや」
「それでも立つか」
呪具が血流を乱す。それでも止まらない。
「……貴様」
「女を、どこへやった」
男はわずかに首を傾げる。
「さてね」
言緒へ視線を向ける。
「あの子は優秀だ」
「感覚が鋭い」
恒一へ。
「他は、問題ない」
再び憲倫へ。
「あれは面白い」
「君は良い」
「実に良い」
「その血は、美しい」
全てが繋がる。最初から。
「……貴様」
「最初から、狙っていたな」
男は静かに笑った。
「ようやく、だね」
刃を引き抜く。血が溢れる。だが同時に止まる。
「いいね」
「その執念」
風が吹く。血の匂いが揺れる。対峙したまま、場の空気だけが静かに張り詰めていた。
血が溢れ出していた。止める気配はない。むしろ押し出すように流している。通常であれば即座に凝固し、流出を止めるはずの血が、際限なく零れ落ちていく。石畳を叩き、黒の和装を濡らし、その色をより深く沈ませていく。それでも勢いは衰えない。まるで“流している”のではなく、“放出している”かのように。
血の量が、明らかにおかしい。
人体の許容量を、とうに超えている。
それでも憲倫は立っている。
その異様を、対峙する静継は静かに見据えていた。
「……いくら何でも、出血死するだろう」
わずかに細められた目。
「自爆覚悟か?」
問いかけに、応答はない。
憲倫の表情は変わらない。苦痛も、焦りも、疲労もない。呼吸すら乱れていない。ただ静かに、血を流し続けている。
そして、その血が――動いた。
地に広がった赤が、脈打つように震える。次の瞬間、それは一斉に跳ね上がった。滴ではない。流れでもない。形を持つ。無数の血が刃となり、槍となり、束となり、波となって、空間を埋め尽くすように襲いかかる。
視界が、赤で閉じる。
前も、横も、上も、後ろも。
全てが血。
逃げ場はない。
(……この出血量で、制御している?)
静継の思考が、即座に走る。目の前で起きている現象を分解し、理解し、組み立てる。
あり得ない。
だが、成立している。
血の一滴一滴にまで意思が通っている。拡散ではない。制御だ。しかも精密。雑味が一切ない。
(まさか……使えるのか)
結論に辿り着く。
(反転術式!)
失った血を補いながら、同時に放出している。でなければ、この量は維持できない。つまり――
消耗していない。
この男は。
その事実を認識した瞬間、血の濁流がさらに厚みを増す。
視界が、完全に閉ざされた。
光が遮られる。
空気の流れすら、分からない。
その中で。
“何か”が走った。
音はない。
気配もない。
ただ、通る。
血の層を裂くように、一筋の圧が空間を貫いた。圧縮された一点が、周囲すべてを置き去りにして突き進む。
――穿血。
それを認識した時には、もう遅い。
反応では間に合わない。
回避ではなく、“選択”が必要になる。
静継の身体が、わずかにずれた。
足でも、腰でもない。
首。
ほんのわずか、角度を変える。
それだけ。
その差だけで。
穿血が、頭部を掠めた。
瞬間、衝撃が炸裂する。
片耳が、消えた。
肉も、骨も、形を保ったままではいられない。削ぎ飛ばされるというより、“消失”に近い。空間ごと持っていかれたような、歪な断面。
遅れて、血が弾ける。
空気が爆ぜる。
穿血はそのまま背後へ突き抜け、遠方で何かを破砕した音が遅れて響いた。
静寂が、一瞬戻る。
血の幕が、ゆっくりと落ちていく。
赤が剥がれ、視界が開ける。
そこに立つ影。
静継は、わずかに首を傾けたまま動かない。失われた片耳から血が伝う。それでも表情は崩れない。
痛みを感じていないのか。
あるいは、それを問題とすらしていないのか。
ただ、目だけが細くなっている。
興味。
評価。
観察。
それらすべてを含んだ視線が、正面の男へ向けられていた。
血は、なおも流れている。
だが、それは“減っている”ものではない。
増えている。
場を満たすために。
殺すために。
その事実を前にして、静継はわずかに口元を歪めた。
血の匂いが、場に満ちている。
流れ続ける赤の中で、憲倫は微動だにしない。視線だけが、正面の男を捉えていた。
「……名は何だ」
静かに問う。
それは確認ではない。確定させるための問いだった。
静継の顔で、男はわずかに目を細める。
「さあ、どうだろうね」
軽く肩をすくめる。
「これまで色々な名で生きてきたからね」
その口調には、わずかな愉快さが混じっていた。
「最初の名を挙げるなら――羂索かな」
言い切った後、わずかに首を傾ける。
「だが、呼び方は任せるよ」
憲倫は、ほんのわずかに目を細めた。
「ならば」
一歩、踏み込む。
「私が戒名をつけてやろう」
声音に揺らぎはない。
冗談でも、皮肉でもない。
静継の顔で、男は一瞬だけ間を置いた。
そして。
「それは――遠慮しておこう」
小さく笑う。
「まだ墓に住む気はないからね」
その笑みは崩れない。
血の匂いが、なお濃く残る。赤に濡れた空間の中で、羂索はゆっくりと口を開いた。
「君は、随分と実力を隠しているようだね」
わずかに笑みを浮かべる。
「だが――この体の術式くらい、知っているだろう?」
視線が足元に広がる血へと落ちる。
「しかも、これだけ“用意してくれる”とは」
指先が、わずかに動く。
「私との相性は――最悪だ」
その言葉と同時に、共鳴りが発動する。
憲倫の内側で“音”が鳴り、遅れて衝撃が走った。外ではない、内側からだ。臓腑が軋み、骨が鳴り、血流そのものが叩きつけられるように乱される。
「……ッ」
息が詰まる。血を操るよりも早く“到達している”。流れを制御する余地すら与えず、内側へ直接干渉してくる完全な防御不能の一撃。だが致命ではない。媒体は血、流れ出たもの。価値は低く、威力は抑えられている。それでも無視できる衝撃ではない。
――芻霊呪法。
思考ではなく認識。静継の術式、過去に幾度も見てきた術だ。依り代を通して本体へ干渉する共鳴。距離も防御も意味をなさない。成立した時点で既に届いている。
(条件は満たされている)
自ら流した血、胸を貫いた刃。
(刺突の時点で確定か)
瞬時に整理し、同時に切り替える。内側の血流を再構築し、乱された経路を即座に補正する。血栓封鎖。衝撃の伝播を抑え、被害を局所に留める。完全な無効化はできないが、致命には至らせない。
その処理の一瞬、身体の応答が僅かに遅れる。
羂索は、その隙を逃さない。
踏み込む。一歩で距離が消え、拳が振り抜かれる。速さではない、無駄のない“最短”。内側を揺らされた直後の身体へ正確に打ち込まれる。
衝撃が重なる。外からの打撃と内側の揺らぎが噛み合い、身体が軋む。続けざまに肘、膝。体勢を崩すための連撃。逃がさないための動き。
間合いは完全に詰められている。血の制圧では届かない距離。術式ではなく“肉”で押し潰す距離。
羂索は迷いなく踏み込み続ける。
その動きを、憲倫は見ている。
痛みの中で、静かに。
次の手を組み立てながら。
踏み込みは鋭い。拳、肘、膝――羂索の連撃は無駄がなく、正確に急所を捉えてくる。内側を揺らされた直後であれば、それだけで崩されてもおかしくはない。
だが。
憲倫の体は、崩れない。
打撃は触れている。だが衝撃は深く通らない。骨格がわずかにずれ、重心がほんの一瞬だけ外される。それだけで威力の通り道が逸れる。
羂索の目が細まる。
確かに当てている。
だが、決定打にならない。
血は、なお流れている。胸を貫いた傷から溢れ続ける赤は止まらない。石畳を濡らし、周囲へと広がり、その密度をじわじわと増していく。
足元の血が持ち上がる。細い線が無数に立ち上がり、空間へと広がる。
血糸。
触れた瞬間、情報が流れ込む。踏み込み、重心、攻撃の選択――そのすべてが遅延なく伝わる。
羂索の動きが、わずかにずれる。
ほんの一瞬。
だが、それで十分だった。
憲倫が半歩引く。近接の間合いが、術式の間合いへと切り替わる。
同時に、血が収束する。散っていた赤が一点へ吸い寄せられ、圧縮される。空気が微かに軋む。
百斂。
羂索の拳が伸び切る、その刹那。
憲倫は撃つ。
――穿血。
音はない。発射の兆しもない。ただ、そこに“到達する”。
羂索が反応する。ほぼ同時に身体を捻る。だが完全には逃げきれない。
穿血が、右肩口を掠めた。
肉が削がれ、血が弾ける。
衝撃が遅れて叩きつけられ、肩口の布ごと抉り取られる。
貫通には至らない。
だが。
浅くもない。
確実に、持っていかれている。
羂索の重心がわずかに揺れる。
その瞬間、足元の血が立ち上がる。数条が絡みつくように広がり、動線を制限する。
避ければ、触れる。
踏み込めば、次が来る。
羂索は即座に理解する。
止まらない。
思考も、動きも。
そのまま踏み込む。
削られた肩を気にする様子もなく、距離を詰める。拳が振り抜かれる。打撃の精度は落ちていない。むしろ、より鋭くなる。
応じるように、血が再び動く。
押し潰すか、撃ち抜くか。
どちらも引かない。
空間そのものが、軋むように張り詰めていた。