明治強者加茂憲倫   作:カツオのタタキ

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第九話 対峙

門は、静かに削がれていた。砕けたのでも焼けたのでもない。ただ、そこにあるべき形だけが綺麗に失われている。

 

 憲倫は足を止めず、そのまま境内へ踏み入る。血の匂いが濃い。視線だけで全体をなぞる。倒れている術師、崩れた建物、散った血。――妙だ。荒らされた跡ではない。暴れた痕でもない。必要な分だけ壊し、不要なものを残した痕跡。処理されている。

 

 足を進める。石畳の上に、二つの影。

 

「……恒一」

 

 名を呼ぶと、僅かに肩が揺れた。

 

「……当主……」

 

 顔を上げるだけで苦痛が走るのが分かる。全身に刻まれた裂傷。血の量も深さも尋常ではない。

 

「申し訳…ございません……」

 

「……女を守れませんでした……」

 

 憲倫はわずかに目を細める。

 

「報告を」

 

 短く促す。恒一は一度息を詰め、血を吐きながら言葉を繋ぐ。

 

「……気付いた時には……既に侵入されておりました」

 

「最初に異変に気付いたのは……言緒です」

 

「すぐに……寺の者が駆けつけそのまま……戦闘に…」

 

「……ですが……敵は強く防ぎきれず……」

 

「……女を連れ去りそのまま……逃亡…」

 

 血が口元から落ちる。

 

「……静継殿が……すぐに……追いました……」

 

 憲倫は視線を横へ移す。言緒。小さな身体が血に濡れ、特に喉元の損傷がひどい。

 

「言緒」

 

「……っ……」

 

 声にならない。それでも何かを伝えようとする。

 

「……そ……」

 

 血を吐く。言緒の視線がゆっくりと持ち上がる。その先――境内の奥に、一つの影が立っていた。衣の乱れた姿、血の付いた袖。見慣れたはずのその姿に、言緒の喉が震える。

 

「……その、人……」

 

「……ちが――」

 

 足音が一つ。前から、その影がゆっくりと近づいてくる。

 

 藤野静継。呼吸は荒く、衣は乱れている。戦って戻ってきた、そのままの姿。

 

「……憲倫殿」

 

「戻られましたか」

 

 声も同じ。違和感は微か。ほんのわずかなズレ。だが――確信には至らない。

 

 静継が、一歩前へ出た。

 

 その瞬間だった。

 

 視界が、わずかに歪む。

 

 何かが起きたという認識だけが、先に走る。

 

 次の瞬間。

 

 憲倫の身体は、すでに貫かれていた。

 

 黒の和装の背から、銀の刃が突き出ている。

 

 一拍遅れて、胸の奥に異物感が広がった。

 

 音は、ない。

 

 風が止まっている。血の滴る音すら、聞こえない。

 

 倒れている術師も、崩れた瓦も、何一つ揺れていない。

 

 世界が、切り取られたように静止していた。

 

 その中で。

 

 刃だけが、そこにある。

 

 胸を貫き、そのまま背まで抜けている。

 

 憲倫の視線が、ゆっくりと落ちる。自らの胸元。深く差し込まれた呪具の刀。その柄を握る、静継の手。

 

 そこで、全てが繋がる。

 

 次の瞬間。

 

 世界が、戻る。

 

 風が吹き抜ける。血が滴り落ちる。止まっていた空気が、一斉に動き出す。

 

 憲倫の身体が、わずかに揺れた。だが、膝は折れない。

 

 ゆっくりと顔を上げる。静継の口元が歪んでいた。笑っている。言葉はない。ただ、視線だけが倒れている言緒へ向けられている。

 

 そこで、全てが繋がる。憲倫の目が、静継の額へ向く。

 

 縫い目。

 

「静継をどうした」

 

 静継の顔で、男は答える。

 

「使わせてもらっている」

 

「追ってきたのは彼の方だ、私は迎えただけだよ」

 

 それで終わりだった。静継は、もういない。

 

「……そうか」

 

「最後まで、抗ったか」

 

 一瞬だけ沈む感情。次の瞬間、胸部内部の血が収束する。凝固、圧縮、封鎖。貫通した刃の周囲ごと強引に固定する。

 

「おや」

 

「それでも立つか」

 

 呪具が血流を乱す。それでも止まらない。

 

「……貴様」

 

「女を、どこへやった」

 

 男はわずかに首を傾げる。

 

「さてね」

 

 言緒へ視線を向ける。

 

「あの子は優秀だ」

 

「感覚が鋭い」

 

 恒一へ。

 

「他は、問題ない」

 

 再び憲倫へ。

 

「あれは面白い」

 

「君は良い」

 

「実に良い」

 

「その血は、美しい」

 

 全てが繋がる。最初から。

 

「……貴様」

 

「最初から、狙っていたな」

 

 男は静かに笑った。

 

「ようやく、だね」

 

 刃を引き抜く。血が溢れる。だが同時に止まる。

 

「いいね」

 

「その執念」

 

 風が吹く。血の匂いが揺れる。対峙したまま、場の空気だけが静かに張り詰めていた。

 

 血が溢れ出していた。止める気配はない。むしろ押し出すように流している。通常であれば即座に凝固し、流出を止めるはずの血が、際限なく零れ落ちていく。石畳を叩き、黒の和装を濡らし、その色をより深く沈ませていく。それでも勢いは衰えない。まるで“流している”のではなく、“放出している”かのように。

 

 血の量が、明らかにおかしい。

 

 人体の許容量を、とうに超えている。

 

 それでも憲倫は立っている。

 

 その異様を、対峙する静継は静かに見据えていた。

 

「……いくら何でも、出血死するだろう」

 

 わずかに細められた目。

 

「自爆覚悟か?」

 

 問いかけに、応答はない。

 

 憲倫の表情は変わらない。苦痛も、焦りも、疲労もない。呼吸すら乱れていない。ただ静かに、血を流し続けている。

 

 そして、その血が――動いた。

 

 地に広がった赤が、脈打つように震える。次の瞬間、それは一斉に跳ね上がった。滴ではない。流れでもない。形を持つ。無数の血が刃となり、槍となり、束となり、波となって、空間を埋め尽くすように襲いかかる。

 

 視界が、赤で閉じる。

 

 前も、横も、上も、後ろも。

 

 全てが血。

 

 逃げ場はない。

 

(……この出血量で、制御している?)

 

 静継の思考が、即座に走る。目の前で起きている現象を分解し、理解し、組み立てる。

 

 あり得ない。

 

 だが、成立している。

 

 血の一滴一滴にまで意思が通っている。拡散ではない。制御だ。しかも精密。雑味が一切ない。

 

(まさか……使えるのか)

 

 結論に辿り着く。

 

(反転術式!)

 

 失った血を補いながら、同時に放出している。でなければ、この量は維持できない。つまり――

 

 消耗していない。

 

 この男は。

 

 その事実を認識した瞬間、血の濁流がさらに厚みを増す。

 

 視界が、完全に閉ざされた。

 

 光が遮られる。

 

 空気の流れすら、分からない。

 

 その中で。

 

 “何か”が走った。

 

 音はない。

 

 気配もない。

 

 ただ、通る。

 

 血の層を裂くように、一筋の圧が空間を貫いた。圧縮された一点が、周囲すべてを置き去りにして突き進む。

 

 ――穿血。

 

 それを認識した時には、もう遅い。

 

 反応では間に合わない。

 

 回避ではなく、“選択”が必要になる。

 

 静継の身体が、わずかにずれた。

 

 足でも、腰でもない。

 

 首。

 

 ほんのわずか、角度を変える。

 

 それだけ。

 

 その差だけで。

 

 穿血が、頭部を掠めた。

 

 瞬間、衝撃が炸裂する。

 

 片耳が、消えた。

 

 肉も、骨も、形を保ったままではいられない。削ぎ飛ばされるというより、“消失”に近い。空間ごと持っていかれたような、歪な断面。

 

 遅れて、血が弾ける。

 

 空気が爆ぜる。

 

 穿血はそのまま背後へ突き抜け、遠方で何かを破砕した音が遅れて響いた。

 

 静寂が、一瞬戻る。

 

 血の幕が、ゆっくりと落ちていく。

 

 赤が剥がれ、視界が開ける。

 

 そこに立つ影。

 

 静継は、わずかに首を傾けたまま動かない。失われた片耳から血が伝う。それでも表情は崩れない。

 

 痛みを感じていないのか。

 

 あるいは、それを問題とすらしていないのか。

 

 ただ、目だけが細くなっている。

 

 興味。

 

 評価。

 

 観察。

 

 それらすべてを含んだ視線が、正面の男へ向けられていた。

 

 血は、なおも流れている。

 

 だが、それは“減っている”ものではない。

 

 増えている。

 

 場を満たすために。

 

 殺すために。

 

 その事実を前にして、静継はわずかに口元を歪めた。

 

血の匂いが、場に満ちている。

 

 流れ続ける赤の中で、憲倫は微動だにしない。視線だけが、正面の男を捉えていた。

 

 

 

「……名は何だ」

 

 

 

 静かに問う。

 

 

 

 それは確認ではない。確定させるための問いだった。

 

 

 

 静継の顔で、男はわずかに目を細める。

 

 

 

「さあ、どうだろうね」

 

 

 

 軽く肩をすくめる。

 

 

 

「これまで色々な名で生きてきたからね」

 

 

 

 その口調には、わずかな愉快さが混じっていた。

 

 

 

「最初の名を挙げるなら――羂索かな」

 

 

 

 言い切った後、わずかに首を傾ける。

 

 

 

「だが、呼び方は任せるよ」

 

 

 

 

 

 憲倫は、ほんのわずかに目を細めた。

 

 

 

 

 

「ならば」

 

 

 

 

 

 一歩、踏み込む。

 

 

 

 

 

「私が戒名をつけてやろう」

 

 

 

 

 

 声音に揺らぎはない。

 

 

 

 冗談でも、皮肉でもない。

 

 

 

 

 

 静継の顔で、男は一瞬だけ間を置いた。

 

 

 

 そして。

 

 

 

 

 

「それは――遠慮しておこう」

 

 

 

 

 

 小さく笑う。

 

 

 

 

 

「まだ墓に住む気はないからね」

 

 

 

 

 

 その笑みは崩れない。

 

血の匂いが、なお濃く残る。赤に濡れた空間の中で、羂索はゆっくりと口を開いた。

 

「君は、随分と実力を隠しているようだね」

 

 わずかに笑みを浮かべる。

 

「だが――この体の術式くらい、知っているだろう?」

 

 視線が足元に広がる血へと落ちる。

 

「しかも、これだけ“用意してくれる”とは」

 

 指先が、わずかに動く。

 

「私との相性は――最悪だ」

 

 その言葉と同時に、共鳴りが発動する。

 

 憲倫の内側で“音”が鳴り、遅れて衝撃が走った。外ではない、内側からだ。臓腑が軋み、骨が鳴り、血流そのものが叩きつけられるように乱される。

 

「……ッ」

 

 息が詰まる。血を操るよりも早く“到達している”。流れを制御する余地すら与えず、内側へ直接干渉してくる完全な防御不能の一撃。だが致命ではない。媒体は血、流れ出たもの。価値は低く、威力は抑えられている。それでも無視できる衝撃ではない。

 

 ――芻霊呪法。

 

 思考ではなく認識。静継の術式、過去に幾度も見てきた術だ。依り代を通して本体へ干渉する共鳴。距離も防御も意味をなさない。成立した時点で既に届いている。

 

(条件は満たされている)

 

 自ら流した血、胸を貫いた刃。

 

(刺突の時点で確定か)

 

 瞬時に整理し、同時に切り替える。内側の血流を再構築し、乱された経路を即座に補正する。血栓封鎖。衝撃の伝播を抑え、被害を局所に留める。完全な無効化はできないが、致命には至らせない。

 

 その処理の一瞬、身体の応答が僅かに遅れる。

 

 羂索は、その隙を逃さない。

 

 踏み込む。一歩で距離が消え、拳が振り抜かれる。速さではない、無駄のない“最短”。内側を揺らされた直後の身体へ正確に打ち込まれる。

 

 衝撃が重なる。外からの打撃と内側の揺らぎが噛み合い、身体が軋む。続けざまに肘、膝。体勢を崩すための連撃。逃がさないための動き。

 

 間合いは完全に詰められている。血の制圧では届かない距離。術式ではなく“肉”で押し潰す距離。

 

 羂索は迷いなく踏み込み続ける。

 

 その動きを、憲倫は見ている。

 

 痛みの中で、静かに。

 

 次の手を組み立てながら。

 

踏み込みは鋭い。拳、肘、膝――羂索の連撃は無駄がなく、正確に急所を捉えてくる。内側を揺らされた直後であれば、それだけで崩されてもおかしくはない。

 

 だが。

 

 憲倫の体は、崩れない。

 

 打撃は触れている。だが衝撃は深く通らない。骨格がわずかにずれ、重心がほんの一瞬だけ外される。それだけで威力の通り道が逸れる。

 

 羂索の目が細まる。

 

 確かに当てている。

 

 だが、決定打にならない。

 

 血は、なお流れている。胸を貫いた傷から溢れ続ける赤は止まらない。石畳を濡らし、周囲へと広がり、その密度をじわじわと増していく。

 

 足元の血が持ち上がる。細い線が無数に立ち上がり、空間へと広がる。

 

 血糸。

 

 触れた瞬間、情報が流れ込む。踏み込み、重心、攻撃の選択――そのすべてが遅延なく伝わる。

 

 羂索の動きが、わずかにずれる。

 

 ほんの一瞬。

 

 だが、それで十分だった。

 

 憲倫が半歩引く。近接の間合いが、術式の間合いへと切り替わる。

 

 同時に、血が収束する。散っていた赤が一点へ吸い寄せられ、圧縮される。空気が微かに軋む。

 

 百斂。

 

 羂索の拳が伸び切る、その刹那。

 

 憲倫は撃つ。

 

 ――穿血。

 

 音はない。発射の兆しもない。ただ、そこに“到達する”。

 

 羂索が反応する。ほぼ同時に身体を捻る。だが完全には逃げきれない。

 

 穿血が、右肩口を掠めた。

 

 肉が削がれ、血が弾ける。

 

 衝撃が遅れて叩きつけられ、肩口の布ごと抉り取られる。

 

 貫通には至らない。

 

 だが。

 

 浅くもない。

 

 確実に、持っていかれている。

 

 羂索の重心がわずかに揺れる。

 

 その瞬間、足元の血が立ち上がる。数条が絡みつくように広がり、動線を制限する。

 

 避ければ、触れる。

 

 踏み込めば、次が来る。

 

 羂索は即座に理解する。

 

 止まらない。

 

 思考も、動きも。

 

 そのまま踏み込む。

 

 削られた肩を気にする様子もなく、距離を詰める。拳が振り抜かれる。打撃の精度は落ちていない。むしろ、より鋭くなる。

 

 応じるように、血が再び動く。

 

 押し潰すか、撃ち抜くか。

 

 どちらも引かない。

 

 空間そのものが、軋むように張り詰めていた。

 

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