Over the Horizon of Dawn. 作:榛桐 玲
神奈川県横浜市・某所───日本海軍・横須賀鎮守府 横浜支部。その敷地内のとある場所に、一軒の小さな居酒屋があった。
「……ふぅ。これで今週も一段落ね」
夜も更けはじめて22時を過ぎた頃。軒先に掲げられた暖簾を下ろし店内へとしまい込んで閉店作業を進めながら、蒼黒い長髪を緑のリボンでポニーテールにした20代中盤と思わしき女性がそう呟く。
居酒屋「鳳翔」の若女将・鳳翔。かつては人型生体兵器・艦娘として仲間の艦娘と共に世界各地の海を巡り戦っていた彼女だが、現在は一線を退き海軍所属時に趣味を兼ねて開いていた鎮守府内の居酒屋を単身切り盛りしている。
「さぁて、と……この後の"お楽しみ"の為にも、早く準備を済ませちゃわなきゃ。食材の仕込みは……うん、大丈夫ね。お酒の仕入れは……」
冷蔵庫の中や酒瓶の並ぶ棚などを確認しながら、鳳翔は店内の清掃を手際よく進めていく。艦娘時代から続けていただけあって、この作業にもすっかり慣れたものだ。
───おおよそ2時間半程の時間が過ぎただろうか……とうに日付は変わり、深夜の24時半を少し回った頃。仕事着としている温和かつ上品な雰囲気の漂う割烹着姿から、黒いジャケットとTシャツにダークブルーのジーンズと赤白ツートンのスニーカーが動きやすそうな印象を与える私服へと着替えた後、店内の照明を全て落としてから外へと出て入口と勝手口の戸締りを確認していた。
「───戸締り、よし。来週の営業準備も大丈夫……ふぅっ、今週もよく頑張りました……」
安堵のため息を吐きながら、鳳翔は自分を褒める。そして店の横に設けられた駐車スペースに停められている、1台のスポーツカーへと歩み寄っていく。
「……ふふっ、やっぱり良いわね。暗闇にぼんやりと浮かび上がる、低く構えたこの姿……仕事が終わった時に見ると思わず見惚れちゃうもの」
「お待たせ、私の相棒……」
少しばかりうっとりとした様子で声を掛けながら、深い紅一色に塗られたスポーツカー……CZ32型 日産・フェアレディZ 300ZXへと乗り込んだ鳳翔。彼女は一度深呼吸をしてからイグニッション・セルにキーを挿し込むと、そのままキーを右へと捻り込む。
セルが回るクシュシュシュシュ……という音が1.5秒程聞こえた直後に轟音とも言える咆哮をあげながら、このZの心臓である3,196cc V型6気筒DOHCツインターボエンジン・VG30DETT改 3.2L仕様が息を吹き返した。知る人ぞ知るチューニングショップ「ABR細木エンジニアリング」の手によって仕上げられ、常用ブースト圧1.2kg/cm時に650馬力オーバー、ブロー覚悟のハイブースト圧2.0kg/cm時には750馬力強というハイパワーを叩き出す珠玉の一品だ。
鼓動を止めていた心臓が動き出すのと共に、ヘッドライトとフォグライトに加えて「オートガレージTBK」製フロントバンパーの両サイドに埋め込まれた大径ドライビングライトが、眩い光を放って前方を煌々と照らし出す。
「さぁ、行きましょう……Z。私達のもう1つの戦場……湾岸へ、ね」
暖気運転を完了させたZに鳳翔はそう声を掛け、シフトレバーを1速へ入れた後に踏んでいたクラッチペダルを半分程戻し、アクセルペダルをジワりと踏む。
低い排気音と共にZ32はゆっくりと前へ進みだす。そして排気音とテールランプの光跡だけを残し、Z32は鳳翔を乗せて夜の闇の中へと溶け込んでいった。