伊落マリーの瞳には、もはや聖職者としての慈愛の色は残っていない。
そこにあるのは、底なしの沼に足を踏み入れた者が抱く、執念と、わずかな希望。そして、それ以上に巨大な「引くに引けない」という恐怖であった。
「(大丈夫です。まだ大丈夫……。これは序盤の洗礼に過ぎないはず。ここを乗り越えれば、きっと……)」
彼女は自分に言い聞かせ、再び虫眼鏡を手に取った。しかし、悪夢は加速していく。
このゲームの選択肢は、地雷原をタップダンスで渡るようなものだった。
『右の廊下を歩く』を選べば、天井から落ちてきた巨大なタライに頭を割られて死ぬ。
『挨拶をする』を選べば、相手の機嫌がたまたま悪かったという理由で、通りすがりの番長にボコボコにされて死ぬ。
さらに質が悪いのは、「その場では死なないが、10分後に必ず詰む」という死に筋ルートの存在だった。
「(……あ、あり得ません。なぜ、3つ前の選択肢で『パンではなくお米を食べた』ことが、学園崩落エンドに繋がるのですか!?)」
マリーは絶叫を噛み殺し、再び最初からやり直す。
さらに、このゲームには「スキップ」という概念が存在しなかった。正確には、1度読んだ文章も「微妙に文字の形や、句読点の位置が変わっている」という1点において「未読」扱いされるのだ。
しかも、その微々たる変化の中に、『暗号』が隠されていることがあった。
「『昼休みの鐘が13回鳴った』……? さっきは12回でした。……メモ……メモをしなくては……」
マリーの机には、もはや聖書の代わりに、意味不明な数字や単語が羅列されたメモ帳が積み上がっていく。
一見すると、何かの魔術の儀式か、狂人の手記にしか見えない。
そして、彼女の精神を最も削ったのは、攻略対象たちの「去り際」だった。
会話イベントが終わると、専用のムービーが流れる。一条や霧島といった「イケメン」たちが、なぜか腰を異様にくねらせ、お尻をブリブリと左右に振りながら、内股で「女の子走り」をして画面奥へと消えていくのだ。
「(……やめて。一条様、そんな走り方をしないで……。私の思い出の中の格好良い生徒会長を、これ以上汚さないで……!)」
スキップ不可のその地獄のような映像を、マリーは100回以上見せられた。脳裏に焼き付く「ブリブリ」という効果音(なぜかSEが付いている)。
マリーの心根は、1歩、また1歩と暗黒面へと引きずり込まれていく。
『ピコン』
「リアルタイム・メールシステム」が作動する。期待などしていなかったが、無視すればまたバッドエンドになる可能性があるため、彼女は必死に解読する。
【差出人:霧島 零】
【件名:あ】
【本文:今日の空は青かった。青というのは不思議な色だと思わないか。俺は昔、青いインコを飼っていたことがあるんだ。そのインコの名前はピー助と言ってね、ピー助はよく喋るやつだった。そういえば、昨日の夕飯はカレーだった。カレーの具は人参が多めだった気がする。人参は栄養があるからな。ところでマリー、お前は……】
延々と続く、背景と同化したグレーの文字。それを5分かけて解読した結末は――。
【……お前は、人参を食べる時は皮を剥く派か? 返信待ってる】
「(……っ!!! 心不全を、起こしそうです……!!殺してください、いっそ私を……!!)」
マリーの額には青筋が浮かび、歯軋りの音が「ギリ……ギリ……」と静かな部屋に木霊する。
物語の節目で流れる「美麗な1枚絵」も、蓋を開けてみれば、最初の1枚の構図を左右反転させたり、背景の色を変えたりしただけの「使い回し」の極みだった。
それでも、マリーは止まらなかった。
ここでやめれば、費やした十数時間が、いや、削られた自分の魂が、ただの無駄になってしまう。
彼女はもはや、恋を求めてはいなかった。ただ、この呪われたプラスチックの破片に「勝利」することだけを目的とする修羅と化していた。
そして。
「……ようやく、来ました……」
時刻は深夜。
マリーの髪は乱れ、瞳は血走り、その姿はもはやシスターではない。
画面の中では、伝説の桜の木の下、一条蓮(顎長男)が待っていた。
主人公(マリー)が、自分が女であることを明かし、想いを告げる。
感動のクライマックス。
選択肢は1つだけ。
【告白する】
「(……終わる。これで、すべてが終わるのですね。主よ、感謝いたします……)」
マリーは涙を流しながら、決定ボタンを押し込んだ。
一条が、ゆっくりと振り返る。
『……マリー、実はお前が女だということは知っていた。だが、俺もお前に言いたいことがあるんだ』
「(……え? まさか……逆告白?)」
不意を突かれ、マリーの胸が不覚にも「ドクン」と跳ねた。
これまでの苦行は、すべてこの瞬間のための演出だったのか? 最後に最高のカタルシスを用意していたというのか?
一条が、不敵な笑みを浮かべる。
『俺は……この世界を支配しに来た、上級悪魔のデーモン・アゴニール様だ!!』
「…………は?」
その瞬間、画面が激しくフラッシュした。
一条の長い顎が、左右にパカリと裂けた。中から鋭い牙がビッシリと生え並び、背中からは禍々しいコウモリの翼が生える。
服を突き破り、全身がどす黒い鱗に覆われた化け物へと変貌した。
【WARNING!! BOSS BATTLE!!】
けたたましい警報音。恋愛ゲームのBGMとは思えない、禍々しいヘヴィメタルが流れ出す。
「……え? なぜ……? なぜ、一条様が悪魔に? 戦闘? 恋愛シミュレーションでは……?」
マリーの手から、コントローラーが力なく転がり落ちた。
だが、画面は止まらない。
『フハハハ! 我ら5柱のデーモン、ついに降臨せり!』
霧島 零が、顔の中心のパーツがさらに収縮した1つ目の巨人「サイクロプス・ドデカメ」へ。
羽柴 翼が、肩幅が無限に増殖し、もはや壁そのものとなった岩石獣「ショルダー・ウォール」へ。
西園寺 景が、全身の骨が消失したかのようにのたうち回り、墨を吐き散らす軟体海魔「ニョロニョロ・タコデスネー」へ。
そして画面外にいたセフィが、空から巨大な「足」だけを降らせる破壊神「フン・ズケール」へ。
「(……嘘。嘘です……。私の……私の薔薇色の学園生活は……?)」
戦闘はオートで進んでいく。
マリーの操作キャラクターは、いつの間にかその手に光り輝く巨大な両手剣を構えていた。
斬り、払い、叩き潰す。
イケメンだったはずのデーモンたちが、無機質なエフェクトと共に爆散していく。
5分後。
すべてのデーモンを屠り去った後、画面にはスタッフロールさえ流れず、1枚の静止画が表示された。
『この世界に平和は戻った。しかし、デーモンたちの軍勢は、まだ魔界から来襲しようとしている。
戦え、マリー! 世界の平和を守れるのは、光の戦士である君しかいない!!』
『Fin』
そしてタイトル画面へと戻る、無機質なシステム音。
「……………………………………………………」
沈黙。
静寂。
そして、マリーの中で、これまで必死に繋ぎ止めていた「何か」が、音を立てて千切れた。
「……What the fuck is this shit !!!!!!」
深夜の寮内に、マリーの絶叫が轟いた。
それは、お淑やかなシスターが絶対に出してはいけない、地獄の底から響くような怒声だった。
「You piece of trash !! Miracle Happy Works !? You should be called Piece of Shit Works !! Are you kidding me !? God damn it !!」
(訳:このクソッタレが!! ミラクル・ハッピー・ワークスだと!?『ゴミカス・ワークス』に改名しやがれ!! ふざけてんのか!? クソが!!)
マリーは立ち上がり、枕を掴んで壁に叩きつけた。
彼女はアメリカ系ハーフである。極限のストレス下、脳の抑制機能が焼き切れた彼女から溢れ出したのは、かつて幼少期に「近所のアメリカ人のおじさん」から不運にも学んでしまった、最底辺のストリート・スラングの嵐だった。
「Holy mother of... !! Is this supposed to be a romance !? This is a biohazard of my brain !! Shit !! Shit !! Shit !! I'm gonna find the developers and bury them alive in a damn desert !!」
(訳:なんてこった……!! これが恋愛ゲームだってのか!? 私の脳にとってのバイオハザードじゃねえか!! クソ!! クソ!! クソ!! 開発者を全員見つけ出して、砂漠に生き埋めにしてやる!!)
マリーは荒れ狂った。
机を叩き、コントローラーを床に叩きつけ(壊さない程度の加減は残っていたのが、彼女の悲しい性だった)、壁を蹴り飛ばした。
「My time !! My precious time is gone !! Gone like a fucking smoke !! Give it back !! Give me back my fucking youth, you sick bastards !!」
(訳:私の時間!! 私の大切な時間が消えた!! 煙みたいに消えやがった!! 返せ!! 私の青春を返せ、この精神異常者の野郎どもが!!!!)
翌朝。
トリニティ総合学園、シスターフッドの寮。
マリーの部屋の前には、心配そうな表情を浮かべたサクラコとヒナタの姿があった。
「……マリー? 大丈夫ですか? 朝のお勤めの時間ですが……」
サクラコが控えめに扉をノックするが、中からは返事がない。
ただ、時折、聞いたこともないような低い、地を這うような唸り声と、「Fuck...」という短く鋭い吐息が聞こえてくる。
「マリーさん、具合が悪いんですか? 開けてください、私が手当てを……」
ヒナタが不安げに呼びかけるが、扉は固く閉ざされたままだ。
「……近づかないで……。今は……主ではなく……悪魔と……対峙していますから……」
中から聞こえてきたのは、枯れ果てた老人のような、絶望に染まったマリーの声だった。
それから数週間、シスターフッドの「鑑」と呼ばれた少女は、部屋から1歩も出てくることはなかった。
時折、寮の窓から夜な夜な聞こえてくる英語の罵詈雑言。
それは、1つのクソゲーが、聖なるシスターの魂を完膚なきまでに破壊したという、何よりの証明であった。
マリーの部屋のゴミ箱には、真っ二つに叩き折られた(しかし実際には折れなくて、歯型だけがついた)ゲームのパッケージが、無惨に捨てられていた。
次はレイジョ編です。
どの生徒のゲームプレイが見たいですか?
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扇喜アオイ×オープンワールドゲーム
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阿慈谷ヒフミ×キャラゲーム
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槌永ヒヨリ×クッキングゲーム
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飛鳥馬トキ×リズムゲーム
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天地ニヤ×カードゲーム
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池倉マリナ×レースゲーム