修行部部室の空気は、もはや「修行」という言葉で片付けられるレベルを超越していた。
そこには湿り気を帯びた絶望と、焼き付くような憤怒がどろりと混ざり合い、換気扇の回る音さえも呪詛のように聞こえる異様な空間が広がっていた。
ツバキとミモリの目は、極限の集中と疲労によって落ち窪み、まるで数日間一睡もしていない遭難者のようだった。
唇はガサガサに乾き、肌からは瑞々しさが失われている。
「……次、いくよぉ……。10秒以内に、押さなきゃ……」
ツバキの声は枯れ果て、幽霊の囁きのようだった。
画面には、選択肢が表示されている。
【シオンの瞳に映る自分を愛する】
【自分を宝石に変えてシオンの台座になる】
「(……どっちを選んでも、待っているのは地獄のようなロード時間。そしてその先にあるのが物語の続きなのか、バッドエンドなのかすら、このゲームは教えてくれない……。ああ、喉が渇きましたわ……)」
ミモリはもはや思考を放棄していた。大和撫子としての矜持は、10秒ごとのボタン連打という無意味な労働によって、粉々に粉砕されていた。
二人が地獄の淵で喘いでいる後ろで、カエデはとうに飽きていた。
「えいっ! いけー、ドリルホーンのウサギ! そこだー!」
カエデは畳に寝そべり、持ち込んだムシクイーンの携帯ゲーム機に熱中している。画面の中で暴れる昆虫(?)たちの電子音だけが、この部屋で唯一「健全な娯楽」の響きを持っていた。
ツバキもミモリも、普段なら「カエデちゃん、行儀が悪いですよ」と注意するところだが、今の2人にはそんな余裕は微塵もなかった。
ツバキが震える指で上の選択肢を選ぶ。
そして始まった、5分間の「アイリスが歩くだけ」のロード画面。10秒おきにボタンを叩く作業を終えた時、画面に映し出されたのは、玻璃の森ではなかった。
「……え?」
唐突に切り替わったのは、明らかに現実世界の、それも極めて解像度の低い実写映像だった。
舞台はどこかの安居酒屋。黄色いジョッキと脂ぎった皿が並ぶテーブルを囲み、ワイワイガヤガヤと騒がしい声がスピーカーから漏れる。
『おい、山口! お前よぉ、社会人ってのはな、根性なんだよ! 仕様書通りに動かねえのはお前の愛が足りねえからだ!!』
画面中央で、顔を真っ赤にして若い男性社員に説教を垂れているのは、脂ぎった禿げ頭の中年男性。
『赤松社長、まあまあ、それくらいにしましょうよ!』
『うるせえ!! 俺はトップだぞ! この「すいれん工房」を背負って立つ男だぞ!!』
周りの社員たちの呼びかけで、その醜態を晒している男が、開発代表の赤松秀二郎本人であることが発覚する。
赤松たちの周りには泥酔した社員たちがネクタイを頭に巻き、割り箸を鼻に突っ込みながら生産性のない宴会芸を繰り広げている。
映像がプツンと切れ、再び「キュルキュル」という早回しボイスと共にゲーム画面に戻る。
「………………今のは、何? 何を見せられたのぉ……?」
ツバキの瞳から、光が消えた。
【シオンを信じる】
【シオンから逃げる】
震える手で上の選択肢を選ぶツバキ。そして毎度お馴染みのロード画面を終えると画面が切り替わる。
画面に映っていたのは、隠し撮りのようなローアングルで捉えられた、どこかの不衛生なラーメン屋のカウンターだった。
そこに鎮座しているのは、立ち上る湯気によりテラテラと輝く汗をかくタンクトップ1枚の赤松。
『ズルルッ! ズゾゾゾーッ!!……クチャ、クチャクチャ』
安物のマイクが拾う、過剰なまでの咀嚼音。赤松は鼻に汗をかきながら、汚らしく麺を啜り、口の周りを脂ぎらせている。
『……ハァーッ。……ンォッ!』
途端、画面から「ゲェップ」という強烈なゲップの音が響き、さらには間髪入れずに「ブッ! ブリリッ」という、およそ乙女が一生のうちに1度も耳にする必要のない種類の放屁音が部室にこだました。
映像の中の赤松は、あろうことか自分の屁に自分でウケて、汚れた箸を振り回して爆笑している。
「(………………………………)」
ミモリの顔が、どす黒い静寂に包まれる。
次のロード明け。映像は、すいれん工房のオフィスらしき、散らかり放題の場所に移る。
『ギャハハハハ!! いくぞオラァ!! 山口、受け取ってみろ!!』
そこでは、泥酔して顔を真っ赤にし、ネクタイを鉢巻のように頭に巻いた赤松と、数名の社員たちが狭い室内でドッジボールに興じていた。
彼らが投げ合っているのは、本来なら白銀の髪を持つ神秘的な美青年・シオンの顔を、太い油性マジックで無惨に書き殴ったバレーボールだ。
『ちょっ、社長! こっち狙わないでください…って、うわっ!? っぶねぇ!!』
社員の山口も、顔を真っ赤に染めて千鳥足で逃げ惑う。山口の手には開いたままの缶チューハイが握られており、動くたびに中身が床の書類にぶちまけられていた。
『ひゃっはー!! 山口、腰が入ってねえぞ!』
赤松が全力で放った剛速球は、山口の頭をかすめ、背後のパソコンモニターに直撃した。
バリンッ!という破壊音と共に、モニターから激しく火花が散る。しかし、それを見た社員たちは止めるどころか、さらにボルテージを上げていく。
『うおぉぉ!! 今の当たりましたよ社長! マジ最高っす!』
カメラマン役の社員が、激しく手ブレする映像の中でゲラゲラと下卑た笑い声を上げる。
書類の山が崩れ、椅子がなぎ倒され、山口が絡まったLANケーブルに足を引っ掛けて派手に転倒し、デスクの上のコーヒーを機材にぶちまける様子をカメラはまるで世紀の珍プレーでも見つけたかのように、執拗に、そして楽しげに追い続けていた。
「(………………………………)」
画面に映る、無残に書き潰されたシオンの顔。
ミモリの表情はもはや人間のものではなく、深淵より這い出した「何か」のそれへと変貌を遂げていた。
さらに次のロード明け、暗転した画面にデカデカと最悪なテロップが表示された。
『【神ドッキリ】社員の椅子に生卵置いてみたwwwケツが卵かけご飯状態にwww』
映し出されたのは、先ほどのドッジボールで息を切らせている山口が、何も知らずに自分のデスクの椅子にドカリと腰を下ろす場面だった。
グチャッ、という生々しい破壊音。
「あぁっ!? なんだこれ、冷てぇ! うわ、最悪だ、卵じゃないっすか!!」
山口が立ち上がると、スラックスの尻の部分には無残に潰れた生卵の殻と黄身がベッタリと張り付いている。
それを見たカメラの向こうの赤松は、椅子から転げ落ちんばかりに激しく机を叩いて爆笑している。
『ギャハハハハ!! 山口、お前のケツから雛が生まれるぞ! 産卵成功だ、ガハハ!!』
「もー、社長、マジ勘弁してくださいよー」
山口も怒るどころか、汚れた尻をカメラに向けながら鼻をほじり、ヘラヘラと馴れ合っている。
あまりに低俗で、あまりに稚拙。制作現場のプロ意識など欠片も存在しない、ただの酔っ払いたちによる身内笑い全開のゴミ映像。
そして赤松は、カメラに向かって自慢げに語り出した。
『いやー、イラストレーターの奴に金使いすぎちゃってさぁ! あいつ高いんだもん! 残りの容量分は、俺たちの思い出映像でも入れとけ入れとけ笑。あっ、そうだ、ロード画面をわざと長くして容量稼ごうぜ。時間稼ぎは基本だろ笑?ガハハ!』
赤松がビールの缶を片手に、天才を自称する。
『声優呼ぶ金もねえからさ、俺たちの会議の音声を早送りにしたんだよ。幻想的だろ? 俺ってマジで天才だわ。なぁ山口、そう思うだろ?』
映像が終わる。
「キュルキュルキュル……」
シオンの姿をした赤松の「加工ボイス」が流れ、選択肢が出る。
【死を以て思い出を永遠にする】
【思い出を歌に乗せる】
その瞬間。修行部の部室に、雷鳴のような咆哮が轟いた。
「うわああああああああん!! お父さん! お母さん!! 嫌だぁぁ!! 助けてぇぇぇ!!」
ツバキが、幼児のように畳の上でのたうち回り、手足をバタバタと振り回し泣き喚いた。
「ツバキ悪くない!! 何も悪いことしてないのに!! なんで!! なんで一生懸命貯めたお年玉で、知らないおじさんのゲップとかオナラとか見なきゃいけないのぉぉぉぉ!! 赤松のアホー!! 50000クレジット返せぇぇ!!」
「………………ツバ公、ええ加減にせぇや」
地を這うような、ドスの利いた声。
ツバキが「ひっ」と息を呑んで顔を上げると、そこには――「大和撫子」の皮を完全に脱ぎ捨て、かつて中学時代にその名を轟かせた武闘派スケバンへと逆戻りしたミモリが立っていた。。
「あ……あわわ……! ミ、ミモリ……!?」
「誰に向かって口をきいとんじゃ、あぁ!? ツバ公、おんどれ……何が修行じゃ…。こんなもん、ただのハジキの弾丸(たま)よりタチが悪いクソボケが作ったゴミじゃろうがぁ!!」
ミモリは広島弁で激昂し、近くにあった座布団を力任せに引きちぎった。
「赤松秀二郎ぉ……。おんどれ、一遍、瀬戸内海の底に沈めてこましちゃるけぇのぉ!! 人の善意と金をナメとんかワレェ!! この根性腐りきったド外道が、どの面下げて『永遠を形に』とか抜かしとんじゃ!!」
ミモリはもはや制御不能だった。部室の壁を蹴り飛ばし、丹精込めて手入れしていた茶道具を「邪魔じゃ!!」と一蹴してひっくり返し、般若の如き憤怒の形相で暴れ狂う。
その足跡には畳のささくれが残り、部室は瞬く間に荒野と化した。
「うわあああん!! ミモリが不良に戻っちゃったぁぁ!! 昔の怖いミモリだよぉぉ!! 助けてぇぇ!!」
ツバキはかつての記憶を呼び起こされ、さらに激しく泣き喚きながら、震える手足で必死にカエデの後ろへと這いずり隠れた。
しかし、その防波堤となるはずのカエデは全く動じなかった。
「あ、キラービートルのコンボ決まったー。ラッキー」
カエデは携帯ゲーム機の画面を見つめたまま、背後で展開される地獄絵図など存在しないかのように、ムシクイーンに熱中している。
部長が幼児退行し、副部長がスケバンに戻って暴れているという異常事態を、彼女は「背景音」程度にしか認識していなかった。
その時。
暴れるミモリを止めようと、ツバキが振り回した手が、偶然コントローラーの決定ボタンに当たった。
【思い出を歌に乗せる】
画面が暗転する。
「たいぎいんじゃ!! オドレの茶番に誰が付き合うかダボカスゥ!!」
スケバンミモリが肩で息をしながらモニターを睨みつける。
だが、流れてきたのはロード画面ではなかった。
ジャカジャカジャカジャカ!!!!
突如として、激しいハードロックのギターソロが鳴り響いた。
「……あ?」
画面いっぱいに映し出されたのは、砂漠の真ん中でギターをかき鳴らす、巨大なアフロヘアーをなびかせた中東のロックスターだった。
画面下にはアラビア語の字幕が流れ、彼は魂を込めて叫んでいる。
『يا حشرة الملكة، سحقي أعدائك بقرونك!』
(訳:ムシクイーンよ、その角で敵を粉砕せよ!)
『القوة هي كل شيء، والرقص هو طريق النصر!』
(訳:力こそが全て、ダンスこそが勝利への道だ!)
「あー! これ、アブドゥル・ザ・ロックだー!」
カエデが、今日一番の元気な声で顔を上げた。
「ツバキ先輩、ミモリ先輩! この人知ってるよ! ムシクイーンの世界大会のゲストで来てたすごい人だよ! この歌、ムシクイーンの公式応援ソングだー!」
カエデは立ち上がると、狂気と絶望が渦巻く部室で1人、ノリノリでダンスを始めた。
「アラビア語はわかんないけど、リズムが最高だね! つるつるー、どっかーん!」
画面の中では、アフロのロックスターが超絶技巧のギターソロを披露する背後で、赤松秀二郎を筆頭とした「すいれん工房」の社員たちが、見るに耐えない醜態を晒していた。
彼らは全員が泥酔しているのか、赤ら顔で肩を組み、リズムなど微塵も無視した奇妙な盆踊りのようなステップを踏んでいる。
『俺たちのぉ……! 思い出はぁ……! えーいーえーーん……!!』
アラビア語の重厚なロックの合間に、酒焼けした喉で無理やり声を張り上げる社員たちの、酷く音程の外れた日本語のコーラスが割り込む。
カメラに向かってピースサインを向ける山口や、千鳥足でフレームアウトしていく社員。
その中心で、赤松がマイクを奪い取り、裏返った声で「俺たち最高ー!」と絶叫する姿が、最高画質(無駄な容量の正体)で延々と垂れ流されていた。
ツバキとミモリは、呆然とそれを見ていた。
シオンとアイリスの純愛物語。
玻璃の森の幻想的な風景。
それら全ては、このエンディングという名の「赤松秀二郎の社内旅行ビデオ」のための、ただの飾りでしかなかったのだ。
「……………………」
「……………………」
歌が終わると、画面にはスタッフロールすら流れず、ただ一言、赤松の直筆と思われる文字が表示された。
『次はもっといい思い出作ろうな!』
――Fin.
翌日。
百鬼夜行の街角にあるリサイクルショップ「万屋」のカウンターに、ツバキの姿があった。
その目は死んだ魚のようであり、手には大切に抱えていたはずの『玻璃の森』のパッケージが握られている。
「……これ、買い取って、ほしいんだけどぉ……」
店員の少女は、パッケージを一瞥した瞬間、まるで汚物を見るかのような嫌悪感を露わにした。
「ああ、これっすか……。すんません、これ『特定危険指定ゲーム』に認定されてて、うちじゃ買取拒否なんすよね。それどころか、持ち込み自体が営業妨害だって噂っすよ」
「……え?」
「処分したいなら、向かいのゴミ集積所に『有害物質』として出してください。じゃ」
ピシャリとシャッターを下ろされ、ツバキは陽の光の下で1人立ち尽くした。
50000クレジットは、消えた。
残ったのは、網膜に焼き付いた赤松秀二郎のゲップと屁の記憶。
そして、今も耳の奥で鳴り止まない、アラビア語のロック。
「へへ……えへへ……50000……私の、50000…クレジット………」
力なく地面に膝をついたツバキの口からは、壊れた蓄音機のような笑い声が紡がれ続ける。
百鬼夜行の空は、皮肉なほどに青く、澄み渡っていた。
修行部最大にして最悪の試練は、こうして、誰の心(カエデを除く)にも「癒えない痕跡」だけを残して幕を閉じたのである。
ここまで見ていただきありがとうございます!
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