部屋の空気は、既に限界を超えていた。
破壊された机の残骸、散乱した備品、そして異常なほど熱を帯びたテレビ画面。
その中心で、砂狼シロコはミイラのように乾いた瞳で、なおもコントローラーを握りしめていた。
もはやそこに、アビドスの正統派ヒロインとしての面影はない。あるのは、理不尽という名の濁流に身を投じ続け、精神の芯まで焼き切れた1人の修羅の姿だった。
「…………」
画面には、怪盗エトワールの姿が映っている。次のステージの難所は、広大な空洞を渡るワイヤーアクション。
パッケージには「縦横無尽に空を駆ける」とあったが、現実は無慈悲だった。
シロコが発射ボタンを押すと、ワイヤーは物理法則を嘲笑うかのように、真横にしか発射されない。
放物線を描くことも、斜めに飛ばすことも許されない。
しかも、ワイヤーの先に敵の警備兵が立っていても、それは虚像を抜けるように素通りし、何かに固定されることさえない。
さらには、ワイヤーを射出している間、エトワールは左右の移動しかできないという呪いにかかっていた。
上下の回避を禁じられたその瞬間、画面外から「砂粒」のような1ドットの弾丸が飛来する。
パシッ。
『WASTED』
「…………」
シロコは無言でリトライを押した。無表情のまま、機械的な動作で再開する。
画面に『ステージ開始前に予告状を出しますか?』という選択肢が出る。
彼女は一縷の望みをかけ、あるいは怪盗としての矜持を貫くべく、何も言わずに無言で「はい」を選択した。
その直後、画面を埋め尽くしたのは、通常の5倍はあろうかという警備兵のドット絵だった。
彼らはエトワールの出現座標を完璧に包囲しており、移動する暇も、操作を開始する1秒の猶予すら与えられない。
パパパパパパシッ!!
『WASTED』
「…………」
シロコの指が、わずかに痙攣した。しかし彼女は止まらない。再び無言で「はい」を選択する。
暗転。そしてステージ開始。
画面が明るくなった瞬間、既に銃弾の雨がエトワールを貫いている。1ドットの隙間もないほど密集した敵兵のグラフィックが、重なり合って点滅し、処理落ちで画面がカクついている。
エトワールは一歩も歩くことなく、崩れ落ちた。
パパパパパパシッ!!
『WASTED』
「…………」
無言。瞬きすらしない。シロコは再びリトライを押し、予告状を出す。
再開。即死。
再開。即死。
再開。即死。
画面の中では、キザな怪盗が生まれては死ぬという無限の輪廻を繰り返している。それを操作するシロコの顔には、もはや何の感情も浮かんでいない。
ただ、暗い部屋の中でモニターの青白い光に照らされた彼女の横顔は、彫刻のように静止し、ただ指先だけが、死を確定させる決定ボタンを冷徹に押し続けていた。
もはやシロコの手は、自分の意志ではなく、ただ「このクソゲーを終わらせる」という生存本能のみで動いていた。
床を抜け、空中を走り、理不尽な即死トラップをミリ単位の操作で回避する。
数時間、あるいは数十時間が経過しただろうか。狂気じみた集中力の果てに、ついに彼女はファイナルステージ手前のセミファイナルステージへと辿り着いた。
「(……ん。ゴールは、見えてきた。あと少し)」
シロコは、震える指先でわずかに胸を撫で下ろした。セミファイナルを越えれば、ついにファイナル。この悪夢に終止符を打つことができる。
彼女はエトワールを操作して、セミファイナルステージの開始画面から右へと移動させた。
しかし、異変はすぐに起きた。
エトワールが右へ移動しても、なぜか画面がスクロールしない。
操作するエトワールはどんどん右に移動して、やがて画面の端を突き抜け、そのまま暗闇の中へと消えてしまった。
「……ん? 消えた。戻ってこない」
慌てて左にキーを入力するが、エトワールは戻ってこない。ジャンプボタン、攻撃ボタン、どのボタンを押しても画面は灰色の背景のままで、エトワールは虚空に消えたきりだった。
「(バグ……。ん、最初からやり直す)」
彼女は、血を吐くような思いでリセットボタンを押した。
また、あの地獄を最初から這い上がる。途方もない時間をかけ、何度も死にながら、ようやくそのステージまで戻ってきた。
だが、結果は同じだった。
右へ移動した瞬間、エトワールは画面外へと蒸発し、2度と帰還しなかった。
「…………」
3度目。
無言かつ無表情だが、心なしかミイラのような乾いた瞳と震える手で、もう一度理不尽な道中に散々翻弄されつつも、長い時間をかけてやり直す。
しかし、やはりエトワールは画面から消えたまま戻ってこなかった。
その時、シロコの脳内に、1つの残酷な真実が浮かび上がった。
このセミファイナルステージには、見えている背景画像があるだけで、その先のデータが存在しない。
このマップの右端は、文字通り「世界の終わり」であり、プログラム自体が組まれていなかった。
つまり、プレイヤーがどれほど超人的な技術を駆使しようと、永遠にファイナルステージへ辿り着くことは物理的に不可能である。
それこそが、100クレジットという投げ売り価格の真実。
『株式会社ドリーム・クリエイト・ソフト』が、一縷の希望を抱いてゲームをプレイし続けたアビドスの少女に突きつけたのは、あまりにも無慈悲で救いのない裏切りだった。
部屋が、異様な沈黙に包まれた。
シロコの身体から、プツンと、理性の糸が切れる音がした。
「…………ガルルルルルルァァァーーーーーーーッッッ!!!!!!!」
突如として、シロコは突然獣のような咆哮を上げた。
それは少女の声ではなく、荒野を統べる飢えた狼の雄叫びだった。
「ガアァァァッ!!!」
シロコは、火を噴きそうなほど熱くなったゲーム機本体に、そのまま顔面から突っ込んだ。
バキッ、メキッという硬質なプラスチックの破壊音が響く。彼女は狂ったように頭を振り、端子部分を根こそぎ引き抜いた。
そして、排出された『怪盗エトワールと華麗なる夜会』のソフトを、剥き出しの牙でガッ、と力任せに咥え込んだ。
「ガウッ!! ガルルゥッ!!!」
彼女は四つんばいになり、獲物の首筋に牙を立てて絶命させる狼そのものの動きで、首を激しく左右にブンブンと振り回した。
バキバキと、ソフトが砕ける不快な音が部屋に響く。
シロコの目は血走り、まるで理性のない獣そのものであった。
彼女はソフトの残骸を床に叩きつけ、さらに拳で原型がなくなるまで叩き潰し、ついにはその破片をバリバリと噛み砕き始めた。
「ガルァァァーッ!!!」
怒りは収まらない。彼女はパッケージを爪で引き裂き、キザな怪盗の顔をズタズタに切り刻んだ。
原型がなくなったソフトを噛み砕き、破壊し尽くしてもなお、獣となったシロコは咆哮を上げながら部屋中を暴れ回った。
棚をなぎ倒し、カーテンを引きちぎり、壁を蹴り破る。
彼女の咆哮は夜のアビドスに響き渡り、それはまるで世界そのものを呪うかのような、終わりのない狂気だった。
この日を境に、砂狼シロコの中から「怪盗」という言葉への憧憬は完全に消滅し、心底憎むようになった。
数日後。
アビドス廃校対策委員会の部室。
「……で、シロコ先輩。説明してくれる?」
黒見セリカが、額に青筋を浮かべながら、黒焦げになり、噛み跡が無数についた「かつてゲーム機だった鉄屑」を机に置いた。
シロコは、いつもの無表情に戻っていた。しかし、その瞳の奥には、今もなお拭いきれない深い心の傷が見え隠れしている。
「……ん、セリカ。その、悪かったと思ってる」
「『悪かった』で済むわけないでしょーが!! これ、私のなけなしのバイト代で買ったやつなのよ!? 何をどうしたら、ゲーム機がこんな『猛獣に襲われた遺体』みたいになるのよ!?」
「ん。……そのゲームには、魔物が住んでいた。私は、アビドスを……そして世界を守るために、戦うしかなかった」
「何言ってんのよあんたは!! 変な言い訳してないで、バイト代からきっちり弁償してもらうからね!!」
セリカの怒号が響く中、シロコは窓の外をじっと見つめていた。
遠くに見える銀行の看板が、一瞬だけあのクソゲーのパッケージに見えた気がして、彼女の右拳が反射的にピクッと震えた。
「(怪盗……絶対に、許さない。次は、本物の銀行を……物理的に、粉砕する)」
彼女の決意は、以前よりもずっと、危険な色を帯びていた。
アビドスの静かな昼下がり。少女の心に刻まれた「クソゲー」の傷跡は、新たな暴走へのガソリンとなり、静かに燃え続けていた。
次はマリー編です。
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