ライフコッドの静かな夜――。
辺境にあるこの村は、日が落ちればたちまち深い闇に包まれ、夜の
そんな暗がりの中を、ランドはいつものように巡回していた。
最近はもう、ずっとそうなのだ。
端から見れば怪しい人物そのものだが、彼はこれをやめるわけにはいかなくなっていた。
ランドが崖際にさしかかったとき、静けさを引き裂くような物音が耳に飛び込んでくる。
「……またか」
もう何度目かもわからぬその音に、ランドはため息をつきながら足を速める。
彼が向かうのはあの家――かつてターニア
「ターニアちゃん!!」
ばたんと扉を開け放ち、ランドはなりふり構わず家の奥へと踏み込んでいく。
若い娘がひとりで暮らす家に、真夜中勝手に上がり込むなど村中から
「――っっ!!」
家の中ではターニアが、狂ったように自らの額を壁に叩きつけていた。
渾身の力で打ち付けられた額は皮膚が裂け、飛び散った血が壁をわずかに赤く染めている。
「よせ!! バカ!!」
ランドはターニアを羽交い絞めにすると、力づくで壁から引き剥がした。
「離して!!」
「そんなわけにいくか!」
滅茶苦茶にもがくターニアを押さえ込みながら、ランドは必死に叫ぶ。
「なにやってんだよ!!」
「だって……だって!
こうでもしないと私、また眠っちゃう!!」
「人が寝るのは当たり前のことだろ!」
「そんなことないもん!!」
口から泡を吹いて叫び続けるターニアに、ランドはどうしようもないやるせなさを抱きながら、ため息をついてしまう。
最近は、毎日のようにこれなのだ。
昼であろうと夜であろうと、ターニアは眠気を感じると、自分の体を傷つけてでも睡魔を払おうと暴れ出すのである。
「ターニアちゃん……なんでそんなふうになっちまったんだよ……?」
「だって……」
ランドに取り押さえられ、ようやく少しだけ狂騒から引き戻されたターニアは、悲しげに顔を伏せたまま呟く。
「だって……私が眠ってしまったら……。
おにいちゃんが、帰ってきてくれなくなってしまう……。
そんな気がして……どうしようもないの……」
「…………」
その言葉に、ランドは返す返事を持たなかった。
この嘆きだって、もう何度聞かされたことかわからない。
ターニアはいつしか『眠り』という行為そのものを酷く忌み、激しい恐怖まで抱くようになっていた。
――おそらく、レックはもう死んでいる。
喉元まで出掛かったその言葉を、ランドは必死に呑み込む。
そんなことを告げたところで、ターニアを傷つけこそすれ、励ますことにはならないだろう。
彼女の
あの精霊の祭りの日。
ターニアに宿った精霊の導きによって、『幻の大地』の謎を追うため旅立ったレックは、ある日を境に、二度とライフコッドへ戻ることが無かったのだ。
ランドだって、ずっとレックのことを探し続けていた。
村の使いでライフコッドの外へ出る機会があれば、真っ先にその役を引き受け、シエーナやレイドックに赴いては、レックたちの行方を聞いて回っていたのである。
だが、彼らの消息を知る者は、誰ひとりとしていなかった。
それに、レイドックでは不穏な噂も耳にした。
世界に魔物が現れなくなってからというもの、ときおり人が忽然と姿を消すことがあるのだという。
あるいは、レックたちもそれと同じように、ここではないどこか別の世界へ旅だってしまったのではないだろうか。
レックの失踪について、ランドはそんなふうに感じるようになっていた。
「あの日……わたしが眠ったりせず。
ちゃんと起きていられたなら……。
おにいちゃんは今も、この家にいてくれたかもしれないのに……」
悔いるように、ターニアはそう呟く。
それは彼女にとって、悔やんでも悔やみきれない記憶だった。
それは、世界から魔物が姿を消したあの日――。
ライフコッドの人々が、「これはレックが魔物の親玉か何かを倒したに違いない!」と大騒ぎしていた、あの日のこと。
ターニアにとっては、レックが『魔物の親玉』を倒していようがいまいが、そんなことはどうでもよかった。
ただ、これでようやくまた以前のように兄妹ふたり――レックと二人で暮らせると。
それだけがただただ嬉しかった、あの日のことだった。
『あっ! アニキ 帰ってきてたのか。
待ってたんだよ。
まものが いなくなったってのに ターニアちゃんが さみしそうでさ。
オレには どうすることも……。
でも オレ まってるぜ。
ターニアちゃんが オレに 心を ひらいてくれる日をさ!』
そんなランドの陽気な声を耳にして、ターニアはレックがライフコッドへ帰ってきたことを知った。
久しぶりに会う兄が、なぜかひどく悲しそうな顔をしていたことを――ターニアは今でもはっきりと覚えている。
『あ! おかえりなさい。
よかった……。
もう ここには もどってこないんじゃ……って』
レックを迎えて、ターニアはなぜかそんな言葉を口にしていた。
そんなこと、あるはずがないのに。
それなのにターニアは、これがレックと会える最後の時なのではないかと、なぜか思ってしまっていたのだ。
そんな焦燥に突き動かされるように、ターニアは思わずレックに抱きつき、必死に乞うた。
『やくそくしてっ!
ターニアのこと 忘れないって……』
ただの『村の青年』と呼ぶには場違いなほど、威風堂々とした精悍な空気をまとう、自慢の『おにいちゃん』。
その力強さで、小さな頃からずっと自分を守ってくれた。
ターニアにとってレックは、父のように強く、母のように優しい、たったひとりの血を分けた兄であったのだ。
そんな兄が欲しいと、幼い頃の自分は何度夢見ていたことだろう――。
そんな想いにふと気付き、ターニアははっと顔をあげる。
『あ…… ごめんなさい。
わたし いきなり なにを いってるんだろ。
でも……』
自分でも不思議に思いながら、それでもターニアは心のどこかで悟っていた。
たぶん、『おにいちゃん』はもう帰ってこない。
だから、これがきっと彼との、最後の
『ねえ おにいちゃん。
私 本当のことが 分かる気が するの。
なんとなくだけど。
おにいちゃん 私……』
その時、ターニアが何を伝えたかったのか。
それはもう、彼女自身にもわからない。
けれどあの瞬間。
ターニアは確かに、なにか大切なことに気付き、それを伝えたいと願っていたのだ。
『私…… なんだか。
ねむくなってきちゃった……』
しかし、その途端。
ターニアは抗いがたい睡魔に引きずり込まれていった。
伝えたかったその言葉も、たちまち輪郭を失い、深い
『おにいちゃん さよならだね。
でも きっと――』
急速に薄れゆく意識の中で、ターニアは懸命に言葉を紡ぐ。
おぼろに霞む視界の先で、彼女が最後に見たのは、必死に自分を抱きかかえて涙を流す兄の姿だった。
『きっと また あえるよね』
➡『はい』
『おにいちゃん。
だいすき…… さよなら……』
長いようで短いような、不思議な微睡みから目を覚ましたとき。
レックはもういなかった。
そしてそれきり、二度と姿を現すことはなかった。
その日から、ターニアは眠るのが怖くなった。
あのとき、自分が睡魔などに負けなければ、レックはきっと今もそばにいてくれた。
そう思えてならないのだ。
「…………」
ターニアは床にへたりこんだまま、無言でうなだれていた。
その傷ついた額に、ランドが丁寧に包帯を巻いていく。
「よし……まあ、こんなもんか。
傷が塞がるまで包帯は外しちゃダメだぜ? ターニアちゃん。
せっかくのべっぴんさんに、傷が残るのは忍びないからな」
「…………」
そう言って、ランドは家の床にどかりと腰を下ろした。
「今日は朝まで付き合う。
もしターニアちゃんが眠りそうになったらオレが起こしてやるから、さっきみたいに自分を傷つけるのはナシだぜ?」
「そんなことしてていいの……?
ランドだって、明日は仕事があるんでしょ?」
「いーの、いーの!
オレが仕事中、サボって昼寝ばかりしてることぐらいターニアちゃんだって知ってるだろ?」
そうおどけて、ランドは陽気な笑い声をあげる。
そんな彼をぼんやり見つめながら、ターニアはふと思っていた。
ランドは、どうしてここまで自分に尽くしてくれるのだろう。
最初の頃こそ、ライフコッドの人々も心配して、懸命に面倒を見てくれた。
けれど、一向に狂騒の収まらない自分に、最近では皆、少しずつ遠巻きに見つめるだけになりつつある。
そんな中でも、ランドだけはずっと変わらなかった。
いつだって、どんな時だって、ターニアのいちばん近くで必死に寄り添い続けてくれるのだ。
「ランドは……」
「うん?」
「ランドは……どうして、私にそこまでしてくれるの?
私、もう自分でもわかるくらい、どうしようもなくなってて。
誰からも相手にされなくて、当然なのに……」
「…………」
その問いに、ランドは彼らしくもなく真面目な顔で答える。
「あの日……あの精霊の祭りの日。
オレがターニアちゃんに結婚を申し込んだことは覚えているよな?」
「……うん」
「あれからオレは……ずっと、その返事を待っている。
今でも、待ち続けているんだ」
「…………」
ランドはそこで言葉を切ると、気まずそうに顔を背けた。
「……そんだけ」
「ぐごー! ぐごー!」
それから少し経った家の中では、ランドが盛大にいびきをかいて眠りこけていた。
案の定だと呆れながら、ターニアは知らず、久しぶりの笑みを口元へ浮かべてしまう。
「ごごごっ!
ターニアちゃん、結婚してくれー……!
夢の中のオレのことも、幸せにしてやってくれー……ふがっ!」
「なに言ってんだか……」
締まりの無い顔で寝言を漏らすランドに苦笑しながら、ターニアはそっと毛布をかけてやる。
『まあ、あれだ。
夢の中でオレが求愛してるってんなら、そっちのオレにも少しくらい応えてやってくれよ。
夢の世界のオレといえ、ずっとプロポーズを袖にされるのは、さすがに可哀想だ』
ふいに、そんな言葉がターニアの脳裏をよぎる。
それは、彼女の知らない誰かが、どこかで口にした、覚えているはずのない言葉。
けれどターニアは、それに小さく頷いていた。
「……そうだね」