「ふう……」
夕焼けに赤く染まるライフコッドの丘の上。
その女性は、額にうっすらと汗を滲ませながら、湯気の立つ鍋を抱えて歩いていた。
彼女はすでに中年の年齢となっていたが、その髪はなお若々しく、新緑を思わせる鮮やかな色を帯びてそよ風に揺れている。
父とも母とも似ていない――緑の髪。
だが、その瑞々しい緑髪は、彼女の自慢でもあった。
「あら、鍋なんて持ってどうしたの?」
声をかけてきた村人へ、女性は小さく笑って答える。
「お母さんに、お粥を作ってあげたから……持っていくところなの。
お母さん……もう自分で料理もできなくなっちゃったから……」
「ターニアさんに?
あの人、もうそんな歳だったからしら?」
「気丈な人だったんだけどね……。
お父さんが死んでからは、すっかり弱ってしまって……」
「そう……」
女性は小さく会釈すると、再び目的の家に向かって歩き出す。
彼女はターニアの娘だった。
――『子供でも授かれば、ちょっとは変わるかもしれないけどなぁ……』
かつてランドが抱いた、ささやかな夢。
そんな夢想から生まれた――『まぼろし』の娘。
だけど彼女は、
いまや自らも母となり、家族を持つひとりの人間として、日々を重ねている。
彼女が向かうのは、ライフコッドの崖際に立つ、母――ターニアの家。
かつては夫婦で暮らしていたその家も、ランドが先立ってから、再び一人きりの住まいとなって久しい。
娘は「自分の家で一緒に暮らそう」と声をかけているのだが、ターニアは頑としてそれを受け入れてくれなかった。
娘がいくら説得しても、母が返すのはただ一言。
『私はこの家で、あの人の帰りを待たなければいけないから……』
――と呟くだけ。
だから、ターニアは年老いた今もこの家で、ずっと『あの人』の帰りを待っている。
自らの『実体』を失ってさえ、彼女の『夢』は生き続けていた。
「へえ おにいちゃんが 精霊のかんむりを 買いに?
すごーい! 大役じゃない」
家の扉を開けると、母の嬉しそうな声が聞こえてきた。
どうやら母はベッドに横たわったまま、先に訪れていた青年――女性の息子であり、ターニアにとっては孫にあたる青年へ、なにか話しかけているようだった。
「ちょっと 心配だけど おにいちゃんなら 大丈夫だよね。
気をつけて 行ってきてね」
「ははは……」
彼女と同じ緑色の髪をした青年は、そんな
娘は小さくため息をつき、そっと声をかけた。
「……お母さん」
「っ?」
その声に、ターニアははっとしたように目を見開き、たった今まで話しかけていた青年の顔を、あらためてじっと見つめた。
「あっ……あなただったの?
ごめんね……。
お婆ちゃん、なにか変なこと言わなかったかしら……」
「大丈夫だよ、婆ちゃん」
青年は気遣うように微笑み、そっとターニアの肩へ手を置いた。
「婆ちゃんが楽しそうで、オレもなんか嬉しかったから……」
「ごめんね……」
そんな二人のあいだに入るようにして、娘は静かに言葉を継ぐ。
「お婆ちゃんの面倒見ててくれて、ありがとね。
後は私がついてるから、あなたは先に帰ってていいわよ」
「うん……」
青年が家を出ていくと、ターニアはどこか力を失ったように、やってきた娘へ目を向けた。
「私……また、やっちゃったのかしら?」
「うん……。
あの子のこと、完全に『あの人』だと思い込んでるみたいだったよ」
「そう……」
最近、ターニアはそういうことが増えてきていた。
ほかの相手なら、まだ問題はない。
けれど、相手がこと自分の孫――『おにいちゃん』に背格好のよく似た孫を前にすると、たちまち心が在りし日の自分へと引き戻されてしまうのだ。
娘は鍋をテーブルに置くと、ターニアに背を向けたまま、ため息まじりに独り言ちる。
「帰って来ない『あの人』か……」
母が待ちわびる『あの人』のことは、彼女も聞いていた。
ターニアがその話をすることは滅多になかったが、幼い頃のある日、そっと教えてくれたのだ。
幼くして両親を失ったターニアを、父のように、母のように、ずっと守ってくれていた『おにいちゃん』。
強くて、逞しくて、勇気があって。
なにより優しかった……たったひとりの兄のこと。
けれど娘は、どこかその実在を信じきれない気持ちがあった。
だって、本当にいた兄というには、あまりにも話が出来過ぎている。
母の語る『おにいちゃん』は、まるで誰かが夢見た、理想の人物であるかのように思えて仕方ないのだ。
それに、もう何十年も姿を見せないというのも腑に落ちない。
娘が『あの人』について、村の年寄りたちにそれとなく尋ねてみても、返ってくるのは「レック……?」と首を傾げる反応ばかりだった。
こんな小さな村で、かつて住んでいた村人のことを忘れるなんてあり得ない。
もしかして、その『おにいちゃん』というのは、幼い頃、孤独だった母が夢描いた、空想の兄だったのではないだろうか?
母の語る『おにいちゃん』は、あまりにも輪郭が曖昧で、存在が
まるで長い眠りのなかで垣間見た、夢の残響のように思えてならないのである。
「ねえ、お母さん……」
娘は慎重に言葉を選びながら、ターニアへ問いかける。
「その……もう、『あの人』を待つの……やめない?」
「……なんで?」
「それでさ、私の家で一緒に暮らそうよ?」
娘はまっすぐにターニアの瞳を見つめ、胸の内に積もっていた思いを吐き出すように言葉を継いだ。
「お母さんが『あの人』の話をするとき、いつも悲しそうで……寂しそうだった。
そんな、いつまでも帰らない人のことを想うより、もっと自分の身体をいたわってあげて?」
「…………」
「私、心配なんだよ。
お母さんのことが……」
無言で佇むターニアの肩を、娘はそっと抱きしめる。
けれど、母は小さく首を振るだけだった。
「ごめんね……それは出来ないわ」
「なんで……?
なんで、そんなに
その拒絶に、娘はこれまでずっと胸の奥へ押し込めていた言葉を、思わず口にしてしまっていた。
「『あの人』はきっと実在しない……!
お母さんは、長い夢を見ているだけなんだ!
あなたが執着する『おにいちゃん』は、ただの
「…………」
そう訴える娘の顔を、ターニアはただ静かに見つめ返していた。
自分の待つ『あの人』は、ただの妄想――幻だったのではないか?
ターニア自身、そんなふうに思ったことは、これまでの長い人生の中で一度や二度ではなかった。
だって、どんなに思い返しても。
兄との記憶をたぐり寄せようとしても。
思い出らしい思い出が、よみがえってこないのだ。
精霊の祭りのため、シエーナへ『精霊のかんむり』を取りに行ったこと。
そして、精霊の祭りの日。
自らへ降り立った精霊の導きによって、このライフコッドから旅立っていったこと。
ターニアが思い出せる兄妹の記憶は、たったそれだけだった。
こんなの、変だ。
何かがおかしい。
だって、『おにいちゃん』は小さな頃から自分を守ってくれて。
寂しかった自分の心を癒してくれて。
ずっと、一緒だったはずなのに……。
ランドやジュディ、村長との思い出なら、いくらでも思い返せる。
なのに、それが兄のことになると、霞がかかったように、なにひとつ思い出せなくなってしまうのだ。
確かに、自分の待ちわびるあの人は……存在しないのかもしれない。
この感傷は、ただの『まぼろし』に過ぎないのかもしれない。
――それでも。
ターニアは仰向けに横たわったまま、静かに言葉を紡ぐ。
「お母さんね、この歳になってようやく……ひとつだけ、わかったことがあるの。
私が、いまも
「……?」
「帰る場所を失って、今もたったひとりきり。
いつまでも旅を続けるあの人を迎えてあげるために……私は、ここにいるんだと思う」
戸惑った表情の娘に微笑みかけて、ターニアはそっと
――そして、想う。
そうだ。
私は、待っていた。
このライフコッドの清らかな風の中で。
「あなたはここに帰っていいんだよ」と、そう伝えるために。
もしあなたが、
たとえ世界の摂理が、あれはただの幻だったのだと告げても、私はそれを否定できる。
おにいちゃんは確かにここにいたんだよって、たとえそれが間違いでも、世界に向かって大きな声で答えられる。
だって、約束したのだ。
あの、夢と現実が剥がれていくような、
私は確かに、あなたと約束した——。
「きっと また 会えるよね って……」
ふたたび瞼を開いて、ターニアは娘に微笑みかける。
その瞳からは、一筋の涙が頬を伝っていった。
「だから、私はこの家で。
あの人と暮らしたはずの、この家で。
おにいちゃんの帰りを待つの。
待って、待って、いつかおにいちゃんがここへ帰ってきたら。
笑顔で迎えて。
頑張ったねって褒めてあげて……。
でも、遅かったねって少しだけ怒って。
それから何度も……何度だって、おかえりなさいって言ってあげるんだ」
「…………」
まるで夢を見ているような
それを、年老いた老婆の妄言だと切り捨てるのは簡単だ。
けれど、彼女はそうしたくなかった。
だってそんなの、あまりにも悲しすぎるじゃないか。
「ねえ……あなたに一つだけ、お願いしてもいい……?」
「……なに?」
ターニアが娘へそっと手を伸ばしてくる。
娘は応えるように、それをぎゅっと握りしめた。
「たぶん……私にはもう、あまり時間が残されていないから……」
「……っ」
だけど、握り返してくるその手の力は、あまりにも儚い。
ターニアが夢を見なくなって、もうずいぶん経つ。
それはつまり……そういうことなのだろう。
夢を喪失したということは、同時に、『現実の世界』で実体を
心を失って、人は生きられず。
そして身体を失ってもまた、当然そうだ。
いま、
「お母さん……」
瞳に涙を浮かべる娘の髪を、ターニアは指先で優しくほどいてやった。
娘がまだ小さかった頃は、毎日のようにそうしてあげていたのだ。
「私が、いなくなったあと……」
緑の髪に手を添えたまま、ターニアは静かにその言葉を紡いでいく。
「もし、あの人が……帰ってきたら……。
私のかわりに「おかえりなさい」って、伝えてあげてほしいの……」
「うん……」
娘は母の手を握ったまま、瞳を閉じて頷いた。
「約束するよ……お母さん」
「ありがとう……」
その言葉を最後に、ターニアの手から力が抜け落ちていく。
ベッドに深く身を預けたまま、静かに寝息をたてはじめたようだ。
その寝顔は、これまで見たどんな時よりも安らかで――。
もしかしたら、いまもどこかで旅をしている『あの人』の夢を見ているのかもしれないと、娘は思ったのだった。
ターニアが息を引き取ったのは、それから数日後のことだ。
その
両親の墓前で、静かに祈りを捧げながら、娘は二人へと想いを馳せる。
だけど、そんな彼女の追憶では、不思議なことが起こっていた。
こんなにも亡き両親の面影を想っているはずなのに、心に浮かぶのはまったく別の情景であったのだ。
荒れ果てた荒野のなか、ひとりの旅人がこちらに背を向けて歩いている。
旅人は逞しい体つきをした、精悍な空気を纏う青年で。
母と同じ蒼い髪を、吹きすさぶ風に流していた。
旅人が歩むは、果てのない旅。
その最後の旅路が終わりを迎えることは、決してない。
だって、彼の帰るべき場所はもう、『まぼろし』に過ぎなくなってしまったのだから。
――夢の旅人。
心へ想起される風景に、娘は静かに悟っていた。
きっと、この旅人こそが、母の待ちわびた『あの人』なのだろう。
彼は今もなお、旅を続けている。
妹のもとへ。
「…………」
ライフコッドには今日も麗らかな陽射しが降り注いでいる。
その陽光に緑の髪を照らしながら、娘はゆっくりと墓標を後にした。
その心には母との約束が――。
ターニアと交わした誓いが、確かに受け継がれていたのだった。