「これでは、きりがないな……」
半ば諦観したような面持ちで吐息を漏らすダークドレアムを前に、レックは身じろぎひとつせず、自らの両椀をじっと見つめていた。
どくどくと脈打つ
この怪腕は、このまま拳を握りしめるだけで、あらゆるものを粉砕できるような――そんな全能感すら与えてくれるのだ。
――これなら、あの魔神を殺せる。
『……何をしているんだ、レック。
キミはボクと約束をしたはずだろう?』
だが、そのおぞましい
ミルドのしわがれたそれではない。
もっと透き通るように凛と響く、優しい誰かの声だ。
「…………」
『そうだ。
覚えているよね?
忘れるなんて、許さないぞ』
それは、かつてどこかで聞いたことのある声音。
忘れよう筈がない。
レックとっては懐かしく、そして何より忌まわしい、他でもない自分自身の声だ。
『ボクたちが一人になったあの日……。
キミは確かに約束をしたはずだ。
ボクの心が消えてしまっても……ターニアを見守ってあげてくれるって』
『レック王子』――大国レイドックの後継者。
呪いによって寝たきりとなった両親を救うため、わずかな仲間と共にムドーの島へと旅立った、あの心優しき青年の声だ。
『それがなんだい?
父上と母上を捨てて、仲間たちを拒絶して。
ターニアのことまで……キミは見捨ててしまった』
頭の中を反響して鳴りやまない——自分自身からの
それにレックは黙れ、と思う。
都合のよい御託を並べるな、と思う。
『
だが、『
『
そして、自分が渇望して止まないのは『
一緒にするな。
一緒にするな。
決して。
断じて。
一緒にするな。
『キミがそう思うことは理解できる。
だが、その結果はどうだ?
この暗闇の底で、たった独りきり。
邪悪な者に利用されて、キミはいままさに、人間で在る事さえも捨てようとしているじゃないか!』
煮えたぎるレックの偏狂を前にしても、レック王子は決して途切れることなく、想いを訴えてくる。
『お願いだよ……レック。
今ならまだ間に合う。
その妄執を捨て、みんなのところへ帰るんだ。
キミが現実を受け入れれば、きっと『
「……っっ!」
レックは異形の両拳を握りしめる。
手のひらに食い込んだ爪が赤銅の皮膚を突き破り、どす黒い血を滲ませていった。
ふざけるな。
なぜ、いまさら、そんなことを言う。
そもそも、この世界に生きていたのはお前なのだ。
本来の『レック』は、お前のはずだった。
なのに、どうして。
自らの意識を、手放すような真似をした?
あの時、泡沫のように消えていたのが自分であったなら――いま、こうして苦しむこともなかったはずなのに。
『それは……キミが、ボクの理想だったから……!』
レックの内なる訴えに、『レック王子』が苦悶するように言葉をふり絞る。
『ボクは……弱い自分が嫌だった。
臆病な自分が、嫌いだった。
だから、ボクは心の中でキミを作り出し……『レック』を託した……!』
かつて『現実の世界』でレック王子が魔王ムドーへ挑み、敗れた時。
その魔手によって肉体と精神を分離させられる中、レック王子は深い自責の念に囚われていた。
もし、自分がもっと強かったなら。
もっと、勇敢な人間であったなら。
ムドーを倒し、両親を呪いから救うことができた。
ハッサンやミレーユ――大切な仲間たちのことだって守ることができた。
きっと、世界の人々へ光を
そんなレック王子の無念と悔恨は、裂かれゆく意識の中で理想の自分を夢描かせていた。
勇敢で、逞しくて、まるで伝説の勇者のように強い――自分。
彼のそんな儚い夢は、引き裂かれた先の精神で、結実を迎えることになる。
ライフコッドの青年――『レック』は、そんな泡沫の夢が生み出した、幻想の自分であったのだ。
そして、その事実はレックにとって、恐怖以外のなにものでもなかった。
自分が幻だというのなら、どこへ帰ればいいと言うのだ。
『まぼろし』が還ることの叶う場所は、やはり『まぼろし』の中にしか存在しない。
それなら、自分は――。
「ならば、一思いに首を落としてやろう!」
ひとりの男の内で荒れ狂う葛藤など知る由もなく、ダークドレアムは双頭剣を背後に引き絞り、
その刃身には烈しい
魔神の魔力を帯びた双頭剣は、まさに雷鳴そのものの輝きを放っていた。
ダークドレアムは大きく身体をしならせると、上半身の捻りを解放し、旋風の如く双頭剣を投げ放つ。
「ギガスロー!!」
宙を走る雷と化した両刃は、巨大な円弧を描きながら、なお
だが、レックはそれに視線を向けることさえしなかった。
ただ虚空を見据えたまま、持ち上げた異形の片腕で、魔雷まとった双頭剣の刃を無造作に鷲掴んで受け止めたのだ。
『レック! たとえ
キミはボクであり、ボクはキミなんだ!!
キミが探し求める『帰るべき場所』は、いつだってキミのすぐ側にあった!!』
➡「いいえ」
レックは鷲掴みにした双頭剣の柄を握りしめると、ためらいなく、その鋭利な切っ先を自らの額へ突き立てる。
もういい。もうたくさんだ。
これ以上、こいつに口を開かせてはならない。
この言葉を聞き続けるくらいなら、自分ごと、自分自身を殺してしまったって構わない。
烈しい拒絶に心を裂かれながら、レックは突き立てた剣を思い切り奥へと押し込んだ。
異形の腕力にとって、人間の頭蓋を貫通させるなど児戯にも満たない。
剣先が脳髄を破壊しながら貫き、後頭部から無残に突き出ていった。
『レック……』
脳内で響いていたレック王子の意識が、急速に遠のいていく。
それは同時に、レック自身の死を意味していた。
心を失って人は生きられず、そして身体を失っても、当然そうだ。
自らを、自らの手で殺したレックの凶行は、
『無駄なことよ……。
『乙女のたましい』があるかぎり、貴様は不死身。
安寧の眠りなど、決して許されない』
脳裏の奥深くで、微かにミルドの声が木霊する。
その言霊と同時、レックの腕に嵌められた『乙女のたましい』に散りばめられた宝石の一つが、ぱちんと乾いた音を立てて砕け散った。
砕けた宝石の粒子が、血のように赤黒い霧となってレックの中へと吸い込まれていった。
完全に消えゆこうとするレックの意識の奥で、縋るような誰かの声が聞こえる――。
『おにいちゃん さよならだね。
でも きっと――』
黄泉の淵で眠ろうとしていたレックの意識が、絶大な精神の力によって覚醒していく。
その言葉は彼にとって、救いであると同時に、呪縛でもあった。
『――きっと また 会えるよね』
➡「はい」
どくん、と大気が鼓動する。
その脈動に合わせ、事切れてだらりと垂れさがっていたレックの腕がピクリと震える。
微かな痙攣は次第に筋肉の躍動へと変じていき、異形の両椀は再び、頭蓋に突き刺さった双頭剣の柄を握りしめていた。
「………っ」
肉が裂け、骨の軋む不快な音を立てながら、両腕がズルズルと刃を引き抜いていく。
ぽっかりと空いた額の空洞からは、血と脳液がびしゃびしゃと零れていった。
だが、禁忌の秘法はその体液が地へ落ちることすら許さない。
血肉は宙へ浮かび上がり、空中で禍々しい円を描きながら、頭蓋の亀裂へ蓋をするようにレックの額を埋め尽くしていった。
ビリビリと大気を震わす高濃度の瘴気。
それらがレックの額で凝縮し、結合して、おぞましき『
『第三の目』――開眼である。
「グゴゴゴゴ……」
ピシ、ピシと骨格の軋む音を響かせて、レックの口元から高熱の白煙が蒸気のように噴き出していった。
そこに立つのはもう、レックであってレックではない。
勇者の亡骸を苗床に増殖し、生物としての段階を超越した、進化のなれ果てである。
「ふん……
その醜い口を開くな」
ダークドレアムが掌を内側へ捻る。
それに呼応し、
だが、その剣を、怪物はガシリと掴んで逃がさない。
「ゴゴゴゴ……」
怪物はその柄を握りしめたまま、異形の
さしもの魔神の剣も、その怪腕から与えられる圧倒的な負荷には耐え切れず、断末魔のような金属音を上げて、真っ二つにへし折れてしまった。
一振りの双頭剣が、二振りの大剣へ――。
怪物は左右の手でそれを握りなおし、構える。
それはさながら、新たなる所有者の産声に応じて、双頭の
「ゴゴゴ……」
「死骸め……」
ダークドレアムは忌々しく口元を歪めると、拳を固め、静かに臨戦の構えをとる。
破壊と殺戮の神さえも気圧させるほどの圧倒的な邪悪が、眼前の怪物からは放たれていたのだ。
「
貴様には、死を越えた破壊をくれてやる」
ダークドレアムの声音に明確な殺意が宿る。
それを感じ取った怪物は、ゆっくりと微笑みを浮かべていった。
極限まで吊り上げられた口角は、自らの頬をビリビリと引き裂き、血のしずくを垂らしながら、凄惨な笑顔を
「ターニア……」
それが、まだ辛うじて残っていたレックの