ターニアたちがレイドック城での祝宴を終え、しばらく経った頃のこと。
ターニアはかねてから向けられていたランドの求愛をようやく受け入れ、二人は晴れて夫婦となっていた。
若く、幸せに満ちた、誰もが羨むような新婚のふたりである。
ライフコッドの人々もその門出を心から喜び、村をあげて盛大に祝福してくれた。
「幼い頃に両親を亡くしてからというもの……ターニアちゃんずっとひとりきりだった。
ランド、お前はそんなあの子と連れ添うことになるのだ。
その意味を、よく考えるのだぞ!」
「わかってるって!
なんだよ、信用ないなあ……オレ」
「よりにもよってランドだからねぇ。
本当に大丈夫なのかしら?」
村人たちはそんなことばかり口にしていたが、それはランドへの不信というより、むしろ信頼の裏返しのようなものでもあった。
ライフコッドの悪童という評判ばかりが先に立つランドであるが、それがことターニアのこととなれば、彼がいつだって真剣になることをを皆よく知っていたのだ。
「あの悪ガキがこんなに働き者になるとはのう……。
いや、人はわからんものじゃ」
「どうせ、ターニアちゃんの尻に敷かれてるだけでしょ」
「どいつもこいつも、好き勝手言うなぁ」
もともと少し怠け癖のあるランドだったが、結婚を機にすっかり心を入れ替えたのか、今では村一番の働き者と言っていいほど仕事に精を出すようになっていた。
そんな努力の甲斐もあって、二人の新婚生活は順風満帆に見えた。
けれど、ランドにはどうしても気にかかることがひとつあった。
ターニアがときおり、眠っているあいだに嗚咽を漏らし、すすり泣いていることがあったのだ。
「どうしたんだ、ターニア。
俺と結婚したこと、そんなに後悔してるのか?」
「変な冗談言わないで!?」
起きている時のターニアはいつもと変わらない。
気立てが良くて明るくて、ランドのよく知る彼女そのものだ。
「いきなりそんなこと言って、どうしたの?」
不思議そうに首を傾げるターニアへ、ランドは少し言い淀みながら言葉を続ける。
「もしかしてさ……あいつのこと、気にしているのか?」
「あいつって?」
「ほら、あいつ……。
レック王子様のことだよ」
レック王子がレイドックを
それきり、まったく行方知れずになっているらしい、という話も。
短い間とはいえ、ターニアはレック王子のこと『レックにいちゃん』とまで呼び、実の兄のように慕っていたのだ。
そのレック王子が失踪したことに胸を痛め、眠りの中で涙を零しているのではないかと、ランドはそう考えたのである。
「変なこと言うわね。
なんで私がレック王子様のことを、そんなに気にしなくちゃならないの?」
そう朗らかに笑うターニアの言葉に嘘はなかった。
彼女はもう、
彼とこの村で過ごした日々だって、数奇な偶然が生んだ、夢のような時間の残響に過ぎない。
彼女がそう考えるようになった理由。
それは、あの日――ライフコッドが魔物に襲われ、『二人のレック』が現れた、あの日の出来事がきっかけだった。
『ねえ レック。
もし キミとボクが ひとつになって ボクの心が消えてしまっても……。
ターニアのことを 見まもってあげてくれると 約束して くれるかい』
➡『はい』
『ありがとう レック。
これで 安心して キミと ひとつに……。
もとに戻れるよ』
もう一人の自分へそう告げて、『レックにいちゃん』――一緒に暮らしていた彼は、ターニアに微笑みかけた。
『さようなら ターニア。
少しの間だけど かわいい妹が できて。
うれしかったよ』
最後にそう言い残し、レック王子と、彼によく似た見知らぬ男は重なり合って、一人の『レック』へと戻っていった。
――ふたりの人物が、ひとりの人間へと融合する。
そんな光景を目の当たりにしたターニアは、深い混乱に陥っていた。
『なにが どうなったの?
あ あなたも……レックって いうんでしょ?
レックにいちゃん?』
思わず問いかけたターニアに、『レック』は静かな表情で頷く。
➡『はい』
『……違う』
だが、ターニアが彼から感じ取ったのは、どうしようもない違和感だけだった。
気が弱くて、意気地なしで、でも誰よりも優しかった『レックにいちゃん』。
そんな彼に比べ、ひとりに戻った『レック』は威風堂々とした精悍な空気をまとう、まるで別人のように逞しい男へと
心にわだかまりを抱えたまま、ターニアは静かに首を振っていた。
『私には わかるわ。
あなたは 今までの レックにいちゃんとは ちがう人なんだって……』
『…………』
『そっか……。
レックにいちゃんは もう いないんだ』
ターニアには、もうわかっていた。
自分が実の兄ように慕った『レックにいちゃん』は、もういない。
この見知らぬ『レック』が、彼を取り込み、呑み込んでしまったのだ。
それでも、ターニアの胸にはひとつだけ、小さな希望が残っていた。
大魔王が倒され、世界が再び平和になったなら――。
あの『レック』が、また『レックにいちゃん』に戻ってくれるかもしれない。
デスタムーアの討伐と、レック王子の凱旋を祝って、レイドック城で宴が催された――あの日。
レック王子を介抱したという縁で城に招かれたターニアは、そんな淡い期待に胸を膨らませていたのである。
『レックにいちゃ……いえ。
レック王子さま』
その呼びかけに応えてくれたのが、あの『レックにいちゃん』だったなら……ターニアだって、王子だとか村娘だとかの身分を気にすることなく、ライフコッドで過ごしていたあの頃と同じように、無邪気に懐いていけただろう。
王子という高貴な身にありながら、彼はどんな相手にも親しみを抱かせる、不思議な魅力を持っていた。
➡『はい』
だけど、そんな儚い希望も、すぐに霧散してしまう。
再会したレック王子が自分へ向けてきた眼差しは、『レックにいちゃん』の優しいそれではなかった。
あの『レック』が向けてきたのと同じ、どこか遠い眼差しであったのだ。
『ぁ……』
ターニアは深い喪失感を感じるとともに、変わってしまった彼へ
『おまねき ありがとう ございます。
魔王討ばつの旅 ごくろうさまでした……』
その日を境に、ターニアの中で『レックにいちゃん』は完全に消失した。
この『レック』と、あの『レック』を同一人物だなんて、どうしても思えない。
彼女はもう、レックのことを考えることに疲れ果て、あの一緒に暮らした日々さえも、
「そりゃ、あの人をただの旅人さんだと思っていた時は、おにいちゃんができたみたいで嬉しいって思っていたけれど……。
でも、あの人はレイドックの王子様だったのよ?
とても、私なんかがお近づきになれるような方じゃないわ」
「そうかぁ?
うまいことやれば、ターニアがレイドックのお妃様になれたかもしれないんだぜ?
俺みたいな甲斐性無しの嫁さんじゃなくてさ」
「なに言ってるの?
私はあなたと結婚できて幸せよ」
ターニアにとっても、レック王子の『家出』は驚くべき出来事だった。
レイドック城には、あの祝宴の日に一度訪れただけであるが、あの絢爛豪華な王宮の光景は、まるで御伽噺の世界へ迷い込んだかのようにさえ思えた。
それに、一介の村娘に過ぎない自分をあたたかく歓迎し、優しい言葉をかけてくれた国王夫妻。
あれほど立派な両親を持ちながら、あのレック王子はいったい何が不満だったのだろうと、そう思ってしまったくらいである。
その彼が行方知れずになったと聞かされても、正直に言えば、遠い世界の他人事としか思えない。
それが、ターニアの率直な本音であったのだ。
「うーん……」
明るく笑うターニアを見つめながら、ランドはまだ腑に落ちない顔で首を傾げていた。
彼女がどこか儚げな影を帯びているのは昔からだが、近頃はそれに加えて、妙な寂しさまで漂わせているように思えてならないのだ。
ランドの目はごまかせない。
彼はこれまでずっと、ターニアのことだけを見つめてきた。
どんなに明るく振舞っていても、その心に少しでも陰りが差せば、たちまち見抜いてしまうのだ。
ターニアだって、そのことはよく知っていた。
しばらく無理に笑顔を繕ってみせていたものの、ランドが相変わらず訝しげな視線を向けていることに気付くと、観念したように小さくため息をついて、ぽつりと呟く。
「最近ね……」
ターニアは視線を伏せ、そっと胸に手を当てる。
そして、その胸の奥に渦巻く、由来のわからぬ
「最近……私。
なぜか、悲しい夢ばかり見てしまうの」
「悲しい夢?」
「夢の中で、私は……あの家。
あなたと結婚する前に、ひとりで住んでいたあの家で、ずっと誰かを待っている。
夢の中でも、ランドは私にプロポーズしてくれるんだけど……私は『あの人が帰ってくるまで結婚なんてできない』と断ってしまうの。
だから私は、ずっとひとりきり……。
あの寂しい家で、『あの人』の帰りを待ち続けている……」
「なんだよ、それ……。
何度もアタックして、ようやく結婚してもらえたってのに、夢の中の俺は相変わらず報われてないんだな」
ランドは冗談めかしてそう笑ってみせるが、その笑い声はすぐにしぼんでいった。
ターニアの顔が、あまりに真剣で、あまりにも寂しそうだったからだ。
「その……」
ランドは少し言葉に詰まりながらも、できるだけ気軽な調子を装って尋ねる。
「夢の中のターニア待っている、『あの人』って誰なんだよ?」
「わからない……」
それは、ターニア自身が何度も考えたことだった。
あるいは、あの『レックにいちゃん』なのではないかとも思ったこともある。
けれど、なんだか違う気がするのだ。
だって、夢の中で自分が待っているのは、もっと遠くの、手の届かない誰か。
だけど、その誰かは自分にとって誰よりも近しい人――。
そんな気がして、ならないのだ。
「わからない……私にはもう、なにもわからないの……」
「ターニア……」
ターニアがそっとランドの胸に身を預ける。
ランドはその肩を抱き寄せながら、どうしてやればいいのかわからずにいた。
自分のような人間には、彼女が抱く
だからランドは、いつもの彼らしく、おどけることで妻を励ますことにした。
「まあ、あれだ。
夢の中でオレが求愛してるってんなら、そっちのオレにも少しくらい応えてやってくれよ。
夢の世界のオレといえ、ずっとプロポーズを袖にされるのはさすがに可哀想だ」
「ふふ……」
ランドの腕の中で小さく笑い、ターニアは囁く。
「そうだね……。
考えておいてあげるわ……」