#1 デイブレイク・デイドリーム
もしも、何もかもが冷え切った
もしも、そんな世界の中心で、赤子のように微睡む神様が在ったとしたら。
──
コツコツコツ、とリノリウムの床を蹴る音が、何者にも邪魔されることなく廊下に響き渡る。窓から見える空は未だ明けやらぬ様子だが、しばらく暗所に籠っていたせいか、目を眩ますには十分な景色だった。
あまねく静寂に包まれた世界で、ケイはゆったりと歩みを進めていた。
ああ、そういえば。前にも似たようなことがあったような──
不意に、そんなデジャブが顔を覗かせる。目的を果たした帰り道ということもあり、気の緩みがあったのだろう。あるいは、
◆
日を跨いだ夜遅くのゲーム開発部。寝ようとする素ぶりを一切見せず、ワイワイと対戦ゲームをプレイしていたアリスとモモイ。ケイが目くじらを立てていたのは束の間のこと。調子のいい煽りについムキになって、流れで勝負に乱入していたら、気づけばカーテンの隙間から群青の光が差し込んでいる。そんな日があった。
あれは、早朝の五時頃であったろうか。
「ここまで来たら、いっそのこと朝まで起きてたほうが健康にいいんだよ! むしろ!」
「はい! 今日はケイも、アリスたちの夜更かしパーティーの一員です!」
いつも通りのテンションで、いつも以上に突飛な言動のモモイと、若干まぶたを落としながら微笑み頷くアリス。ミレニアムに帰ってきて以来、ほとんど経験することのなかった徹夜行為。そのせいか頭の鈍くなっていたケイは、半ば二人に引っ張られる形で、近場のコンビニまでちょっとした買い物に付き合わされていた。
その往復路で話したことは、あまり覚えていない。本当に他愛もない、ただの生徒が日常的に繰り返すような会話だったのだと思う。いつしか、ケイそっちのけで何かの話題が盛り上がっていた。その様子を眺めながら、一息つこうと何気なく意識を周囲に向ける。
その瞬間から、手にしたばかりの
仄かな白色が姿を暴きつつある夜の空は、少し手を伸ばせばその天井に触れてしまえそうだ。
街々はしんと静まり返る。胸の奥底に秘められている心音が、耳元で鳴り響いているのではないかと錯覚するほどに。
モコモコの衣類に
ケイの五感が、自身を目掛けて狭まっていく。世界の中を私一人だけが歩いているような感覚。あたかも私が世界そのものであり、世界に存在しているのは私だけのようではないか。遅れて頭に浮かんできたのは、全能的でありながらも、どこか拭い去れない寂しさが残る幻想で。
そうして両者はゆっくりと入り混じり、曖昧だった境界すらも溶けていく。
それはまるで、神様の見る白昼夢のような────
「ケイ、どうしました? 何か考え事ですか?」
密室の外から、ガラスの窓越しに聞こえてくる問いかけ。
「──いえ、何でもありませんよ。早く部室に戻りましょう」
「あ! もしかして、お菓子の買い忘れとか? 恥ずかしがらなくたって、お姉ちゃんたちが奢ってあげるのに〜!」
先の浮遊感はどこへやら、何回も聞いたからかい声にぐんと意識を引き戻される。
「……っモモイ! 堕落した買い物の大義名分に、私を利用しないでください!!」
思い出したかのように顔を赤らめ、前を行く二人のもとに急いで駆け出していた。
◆◆◆
あの日から一度も季節は移り変わっていないのに、それは卒業生が在学時の思い出を懐かしむかのような遠い回想。背負っているリュックサックが廊下の角で大きく振れ、重心がそちらに持っていかれる。ケイの意識もまた同様であった。
……もう少し、大きい鞄を持ってくるべきでした。
必要な部品は詰め込め切れたけれど、少し窮屈ですね。
さて、ここにもう用はありません。懐中電灯の残量も心許ないですし、早く戻らないと。
侵入した場所は……こっちでしたか。
思い出のプールから上がるや否や、休まっていた頭が勢い良く回転し始める。
ケイが一見過剰に思えるほどの自問自答をしている理由は、二つあった。一つは現状を正しく冷静に判断するためであり、元来より警戒心の強い彼女の癖とも呼べるものだった。
閉じたセキュリティゲートのフラップに手をかけた。リュックをもう片方の手で少し浮かせ、やや空いた隙間に体をねじ込み通過する。顔を上げた先に見えるのは、床に散らばった結晶片。少しでも早く、この閉塞感溢れる無人の建物から逃げ出したい。そう無意識に感じていたのか、僅かに歩幅を広げ、無造作にそれらを踏みつけながら、割れたガラス壁の隙間から這い出した。
しかし、ケイを待っていたのは心地よい解放感などでは決してなく、より重く、巨大で、不気味で、目を逸らせない圧迫感であった。
一方では、健康的な生活を送る生徒の目覚まし時計が鳴り始めて。他方では、思い思いの活動に現を抜かしていた生徒が立ち上がり、欠伸を零す。いつもならそんな時刻であるはずなのに、学園を取り巻くビル群の窓からは、一切の光も漏れていない。
通路を少し進むだけで、無造作に放置された車両がところどころに現れる。植木に深々と突っ込んだ電動自転車や、玉突き事故の現場のようにジグザグの車列になった軽トラックは、騒々しい野次馬に囲まれることなく、無言でその場に佇んでいた。
「……早く、帰らないと」
脳内で思考を巡らせるだけでは留められず、思わず声を出してしまう。
自問自答のもう一つの理由。それは、絶え間なく思考を続けて、自身の存在を強く意識し続けるため。そうでもしなければ、時の止まった空っぽのこの世界に、たちまち吞み込まれてしまうのではないかという不安に
歩道に面した広場の横を通り過ぎる。学園内で研究用の機械が暴走するといった出来事は、ミレニアムではしばしば見られる光景だ。それならば、地面に突っ伏しているこの実験機器を操っていた人間たちは、一体どこへと去ったのだろうか。近くにあったベンチの隅には、開封済みの菓子パンと、炭酸の抜けた飲みかけのペットボトルだけが、ポツンと寂しく置かれていた。
じっとりと背中に張り付き、振り払おうとも実体を感じられず、この場に常に存在する恐怖。過去、友人の歩みを背景に出会った幻影と、たった今、直面している気味の悪い不可思議。似て非なる二つの世界で、絶対的に異なっている前提がある。
この恐怖は、「キヴォトスで生活していた人間が、
今まで暮らしてきた日常に酷似しているのにもかかわらず、致命的なヒビが入ってしまった世界に圧倒される。その奇妙なズレが、見えない形で、けれども着実にケイの正気を削っていく。もう二度と朝が来ないかもしれないと薄々感じながらも、ベッドの上で震えることしかできない子どもが抱くかのような不安感。このまま何も考えず眠り続けた方が、或いはずっと幸せなのかもしれない。
それでもなお、ケイは夜明けを待ち続けなければならない/待ち続けられる理由を握り締めていた。
◆
無心で足を早めていたら、気づかぬうちに、日の出の時間になっていたようだ。今までの灰青色の空を塗りつぶすように、地平線の影から明るい陽光が滲み出る。
その姿をちらりと視界に入れた途端、思わず走り出してしまう。
「──あっ、ケイも帰ってきました! おかえりなさい!」
「アリス! ……無事で、何よりです」
いつの間にか、二人はすぐ傍で向き合っていた。その距離まで近づいてから初めて、相手も走り寄っていたことに気が付いた。
「
「ありがとうございます、アリス。それじゃあ一緒に戻りましょうか」
はい! と慣れ親しんだ返事が元気よく響く。こんな冷めた静けさには不釣り合いな温度に、つられて顔を綻ばせる。
「何か困ったことはありませんでしたか? ケガをしたりとかは……」
「大丈夫です! アリスのHPはしっかり温存してあります! ……ヒーラーのいない旅では、回復アイテムを無駄にはできませんから」
交わす会話のテンポと、その間に生まれる温順な感情だけが、普段の日常とそう変わらないものだった。心を蝕む重圧は消えることはなく、世界は変わらずケイを潰してしまおうと取り囲む。それでも凍えた心を少しずつ、けれども確かに融解させる熱が、ここにはある。
もう少し。今だけは、もう少しだけ感じていたい。身体の端から、確かな熱が伝わってくる。
気づけば、二人は手を握っていた。