夢を見ていた。
あらゆるものから彩が抜け落ち、モノクロの空の下に無機質な建物たちが立ち並ぶ。肌に触れる空気は、深まった冬の朝を想起させるほどに冷え切って、熱を帯びているのは自分の呼吸だけ。そんな世界の中心に、たった一人で投げ出されていた。
向かうべき場所。探すべき人。肌身離さず抱えていたはずの目的は、何度思い出そうとしても曖昧で。「忘れてはいけない」、ポツンと残されていた衝動にしがみつき、理由も分からず白黒の街を彷徨い続ける。確かなことは一つも覚えていないのに、常に付きまとってくるのは正体不明の焦燥感。いつしかそれに背を押され、気づけば我慢できずに駆け出していた。両脇に過ぎ去る光景はどんどん加速していくが、反して、思考の回転はゆっくりと鈍重になっていく。
疲労が限界に達したのか、それとも、走っている理由すらも記憶の彼方に溶けてしまったのか。おぼつかない足を絡ませ、灰色の地面へと倒れ込む。まるで、始めからそこで微睡んでいたかのように、横向く背中をゆったりと丸める彼女。
思考回路は極限まで停滞し、自身と世界の温度はもうほとんど変わりない。もはや生きている命はそこにおらず、ナニカを象った彫像だけが、独りぼっちで横たわる。
顔の前でだらんと投げ出された手の中に燻る、今にも消えそうなほどちっぽけな熱を見つけられたのは、意識を完全に手放そうとしていた、あと一歩の瞬間だった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
ズキリ、と瞳の奥を突き刺すリアルな痛みが、ケイの脳裏をたちまち染め上げた。反射的に薄く開いた瞼の外には、電灯の冷たい光に照らされた灰色の天井が広がっている。一瞬、ここにいる理由が分からなかった、昨日の出来事が夢であったのなら良かったのに。……例えばそんな風に感情を動かせたのなら、少しは楽になれたのかもしれない。心の中に渦巻いていたわだかまりは、一時の眠りを経ても消えることなく、未だ感情を暗く重く縛り付けている。
夢。眠り。ブランケットの下で身動きせずに、ぼやけた頭で五感が伝達してくる情報をあるがままに受け入れて。少し時間が経った頃に、初めて自分が寝ていたことを認識すると、これまでの記憶が次々に蘇った。
時間の確認、作業の続行、渇きを満たす食事。現実の形を掴み始めた矢先に、やらなければならない事柄も同様に浮かび始める。早く起き上がって、タスクをこなさなければ。弱弱しい命令が脳から発せられるものの、どうにも肉体を動かすところまで繋がらない。いつの間にか、動く気力もなくなるほどに疲れ切っていたのか。あるいは、隣で寝息を立てながらケイの左手を掴んでいる、彼女の熱を振り払いたくなかったからだろうか。
「……んぅ、ふわぁ…………ぁ、ケィ。えへへ……おはようございます」
「──アリス、起こしてしまいましたか?」
思わず、その手のひらに指を沿わせてしまった。枕の上にふにゃりと垂れた微笑みを乗せたまま、引っ込めようとした手を握り返してくるアリス。
「いいえ、大丈夫ですよ。ケイは、よく眠れましたか?」
「私は……」
アリスを前に影を潜めていたどす黒い感情が、
彼女の気遣いを無下にしてしまった罪悪感から逃げるように、固まっていた上半身を無理やり起き上がらせ、ベッドの縁に腰掛け背を向ける。話したいことは山ほどあるはずなのに、中途半端に開いた口は虚空を向いて宙ぶらりん。そうして暫く固まっていると、四つん這いになってベッドの上を伝ってきたアリスが、いつの間にかケイの隣に座っていた。
「……ケイ、いいんですよ」
シーツの上で固く握られたケイの拳に、再び手が添えられる。
「悩んでいることがあるのでしたら、アリスは聞きたいです。少しでも、ケイの助けになりたいですから」
日常の中で、感情豊かな無邪気さを周囲に振りまいているアリスの顔。その面影は今も変わらず目の前にあるというのに、少しだけ緩まった口元、穏やかに凪いだ眼差しは、何もかもを受け止めてくれる母親のようだと錯覚してしまいそうになる。
無垢な幼子と慈愛の母。本来相容れない両者の雰囲気を矛盾せず内包している不思議な姿に、ケイは図らずも「王女」の気配を垣間見る。与えられた使命に従い、冷徹に世を統べる者としてのそれではない。手の届く場所にあるもの一つ一つの視座に寄り添って、理解して、共感して、救いになろうとして……子どもの描く夢物語のようにひたむきで、聖母が施す慈しみに溢れた彼女の有り様。それは言葉では形容しがたい、ある種の崇高さを秘めていた。
「──ケイ?」
息が詰まってしまいそうになるほどに、膨れ上がった愛おしさ。その情動に手を引かれるまま、彼女の胸元に顔を
「アリス……私は、怖いんです」
重苦しい喉の奥から最初に漏れたのは、いたってシンプルで、何よりも重たい本心。ケイの背中に細腕が回されたのは、その気持ちを大事に掬い上げたかったから。身体を締め付ける抱擁は、ほんの僅かな力であったのに、ケイの心中から言葉を絞り出すには強すぎるほどだった。
「──これから何が起きるか分からないことが、たまらなく不安です。消えた学園の友人たちが、行方知れずの先生がもう戻ってこないのではないかと思うと、体の震えが止まらないんです。それに、今度は……アリスすらも失ってしまったら。ひとたびその光景が頭に浮かぶと、心がグチャグチャになって、涙が零れそうに……なるのです」
堰を切ったように、誰にも見せたくなかった弱さが吐露されていく。次第に嗚咽が混じっていく掠れた叫びを、何も言わずに、アリスはただただ受け止めていた。その表情は見えないが、つむじに注がれている視線は、長閑な木漏れ日のように柔らかい。
「……アリスは、怖くないんですか?」
どうしてそんな質問が口をついたのか、ケイ自身にもよく分からなかった。落ち着きを払う人に助言を求めたかったのか、独り善がりな同情を押し付けたかったのか。はたまた独白の余韻に生まれた、単なる好奇心に過ぎなかったのかもしれない。
けれども今、二人が最も欲していたのは、明白な理由なんてものではなく──
彼女が、少しだけ笑った気がした。
「アリス……?」
「──ケイも、アリスと同じことを感じているのですね」
鼻を啜りながら顔を上げると、一つの感情では収まらない、様々な色を湛えた微笑がそこにはあった。今度は、アリスの方から抱き着いてくる。ケイの存在と、今、心に浮かんでいる感情を、もろとも抱き留めるように。それら全てを、大事に大事に味わうように。
「はい、アリスも……とっても怖いです」
耳元から聞こえるのは、飾り気のない、あるがままに流れるせせらぎ。
「大好きだった世界が、いつまでも一緒だと思っていた仲間が、まるでレトロゲームのセーブデータみたいに一瞬で、跡形もなく消えてしまいました。もしかしたら今までの冒険は、長い長い夢の話だったのではないか……目の前に広がっていた景色は、そう勘違いしてしまいそうになるほど静まり返っていて。……アリスが危ないことに巻き込まれているのは、まだ平気です。大切なみんなに、もう二度と会えないかもしれない。ケイでさえ、次の瞬間には消えてしまうかもしれない。そのことが、アリスは一番恐ろしいです」
残されたものを確かめるために、ゆっくりと頬を擦り合わせる。ピッタリとくっついた二人の身体の重なり合いは、あたかも一つの生き物のようだ。
「ケイは強い人です。アリスたちのピンチを何度も救ってくれましたし、先生みたいに、しっかりとした立派な考えだって持っています。出会った相手が神様だったとしても、怯むことなく立ち向かっていきました。──そんなケイでも怖さを感じるのは……気づいていますか? きっとケイもアリスと同じで、
「それ、は──」
「一緒に暮らすようになったケイは──怒っていることもよくありますが──とても楽しそうな、幸せそうな顔をしていました。……かつて、アリスのことだけを守ろうとしていたケイが、この日常を失いたくないと心の底から思えるくらいに、みんなを愛してくれるようになったのでしたら……こんなに嬉しいことはありません」
意識の外で育まれていた真相を、自分でも驚くほどすんなりと受け入れてしまう。深層心理をズカズカと掘り起こされているはずなのに、不快感を覚えるどころか、心地よい解放感に頭を撫でられているようだ。自然に他者の本音を引き出してしまう真っ直ぐな言葉は、これまでも色々な人の琴線に触れてきたのだろう。
「その通りかも、しれません。……やはり、アリスには叶いませんね」
安堵の混じったそよ風が、耳たぶをさらりと撫でていった。
「……強いケイでもこの恐怖から逃げられないのなら、未熟なアリスだって同じです。でも、それならアリスは、この気持ちを二人で一緒に抱えていきたいです。一緒に怯えて、一緒に慰めあって……そうしたら、一人で向き合うよりもずっとずっと、力強く闘っていけるとアリスは思います」
「アリス──」
「アリスはまだまだ見習い勇者です。ですがこの先、たくさん経験値を獲得して……たとえレベルがカンストしたとしても、一人きりで歩けるとは思っていません。みんなの日常を守るため、みんなと共に進むために足を踏み出す勇者は、もしも世界から誰もいなくなってしまったら、歩く理由すらも見失ってしまうのでしょうから。それでも──」
密着していた身体は離れ、ケイの両手が、アリスの両手で大事に包まれた。ケイの瞳孔を見据える彼女の視線はとにかく真剣で、しかし親しみのある深い信頼が込められている。
「誰か一人でも、アリスを見てくれる人がいれば、どんなに怖くたって歩けます。ゼロとイチは数が一つしか違いませんが、それ以上の大きな差があるのだと、先生は言っていました。本当にその通りだと思います! もしここにいるのがアリス一人だけだったら、どうなっていたか分かりません。この部屋まで辿り着いて、今こうして頭を悩ませることだって、アリスだけでは絶対に出来なかったことです!」
──同じ。同じなんです、アリス。
「それに、こうしてアリスの話を聞いてくれる人は、本当に大切な仲間です。その人の顔を見れば、いつだって取り戻したい世界のことをハッキリと思い出させてくれるほどに。温かくて優しい、アリスの分だけでは足りない勇気だって、惜しみなく託してくれるのです!」
支えてくれていたのも。導いてくれていたのも。アリスがそう感じるのと同時に。いいえ、それ以上に過去救われていたのは、未来で救われていくのは、きっと
「二人でなら、どこまでも進んでいけると信じています」
一体となった二人の両手が、互いの胸の正面に挙げられて。
「ですから。……ですから、ケイ!」
純真な希望を流れ星に託すように、願いが、祈りが交錯する。
「どうか──いつまでもアリスの隣を歩いてくれる人に、なってくれませんか?」
──目を離せなかった。その光から、片時も目を離したくなかった。
こんなにも大事なことを、どうして忘れていたのだろう。彼女の誇らしい強さを。人と人が手を取り合うことの尊さを。
ずっと傍にいてくれた希望に遅れて追いついた悔しさも、かけがえのない存在が唯一無二の信頼を向けてくれた嬉しさも、共に未来を探せる相手が彼女であった幸せも、
ケイを
零れ落ちた一滴の涙は、共色に染まる二人の瞳の輝きを、
「──ええ、喜んで。あなたが歩みを止めるまで、共に進み続けることを、ここに誓いましょう」
世界の素晴らしさを語る安らかな勇者の顔に、満面の笑みがぱあっと可愛らしく咲き誇った。これまでの抱き留めるものとは違う、溢れんばかりの好意を伝えるハグに勢いよく押されて、ベッドの上へゴロゴロと、白と黒のロングヘアーを絡ませながら転がっていく。
「パンパカパーン! ケイがまたパーティに加わってくれました! 本当に嬉しいです! 今ならアリス、なんだって出来てしまいそうです!」
「……お礼を言わなければいけないのは私の方ですよ、アリス。どうにも一人で先を急いでしまっていたのを、優しく止めてくれたのですから」
暗く閉ざされ、永遠に晴れないと思っていた視界の先が開けていく。現状は何も変わっていないはずなのに、エネルギッシュな全能感が指先の端まで行き渡る。私たち二人の力を、今すぐにでも見せつけてやりたい。この衝動は、身体を巡らせるだけでは到底収まりそうになかった。
「冷静になってみると、だんだんムカついてきましたね……。この事件の犯人を見つけたら、ただじゃおかないんですから!」
久しく忘れていた怒りの感情がふつふつと沸き上がり、虚空の先から見ているんだろうと言わんばかりに、宙に向かって怒号を響かせた。
後ろでは、アリスがコロコロと笑っている。
「……何か、おかしいことを言いましたか?」
「そうじゃありません。ケイが、いつものケイに戻ってよかったと思っただけです!」
キョトンとしたケイの顔は直ぐに崩れて、二人の朗笑が部屋の空気を久々に大きく動かした。何にも煩わされることなく笑えたのは、果たしていつぶりだっただろうか。
「──さて、アリスのおかげでやる気が出てきました。やることは山積みですから、これから忙しくなりますよ!」
「はい! アリスもやる気満々です! ……とはいっても、これから何をしましょうか?」
「実は、やるべきこと……行くべき場所については既に目星がついていましてね」
点けっぱなしのモニターに近寄ったケイは、カチャカチャと準備運動代わりにキーボードを叩き始める。
「これです。昨日、寝る前に見つけたこの通信。一見すると取るに足りないノイズで、意味のある内容が含まれていたりはしないのですが……とにかくこの
「ええと、発信源……つまり、送られてきた場所が問題、ということですか?」
「そうですね……」
碌な暗号化もされずに、大胆不敵にキヴォトスへ浸透していたメッセージ。小さいながらもクッキリと踏みしめられた足跡を追っていくと、画面に映し出された地図には、一見すると大まかな地域すらも特定できない、特筆すべきものの見当たらない地形が映し出される。
けれどもそれは、二人にとっては特別な意味を持つ座標だった。
「この場所、もしかして……!?」
目を丸くするアリス。決意の籠った表情でその一点を見つめるケイ。
「ええ。キヴォトス標準時刻、十八時六分。昨日、学園都市全域に発せられた謎の信号の震源地。そして、私たちの次の目的地。──『鋼鉄大陸』跡地です」