「さんっ、にぃ、いちっ……パンパカパーン! ついに、アリスたちは水没ステージをクリアしました!」
元気に弾むカウントダウンの掛け声。真上に浮かぶ太陽をヘディングするかのような、上下に大きくポンポンと跳ねるスキップ。念願の目的地に辿り着けた達成感を全身で表現するアリスは、タワーの根元に駆け寄ると、両手を思いっきり前へ伸ばしていた。しかしながら、向けられたハイタッチが受け止められることなく、正面のガラス扉は素知らぬ顔で左右に
「わっとと……あれ? ここの自動ドア、動いていますよ!」
「……
先ほど降り立った川岸が、ケイの背の後ろ、数百メートルほどの離れで揺蕩っていた。べたついた風を払い除け、振り切るように外と内の境界を超える。すると、漂う匂い、大気の振動、首筋に纏う空気……五感から得られる情報が瞬く間に更新された。実は別世界へとワープしたのだと言われたのなら、もしかしたら信じてしまったかもしれない。そう感じてしまうほどの、今の世界に馴染んでいない異質な空間だった。
「この様子なら、中の設備を動かすのにも、そう苦労しないかもしれません」
建物の内部は暗く静まり返っていたが、完全に放棄されている印象とはまた違った、どこか穏健な雰囲気が漂っていた。誘導灯の蛍光色は絶えることなく来訪者を照らす準備を済ませており、アイドリングのまま陰に積まれた機器類が、場の静寂を微弱なノイズで撫でまわしている。息絶えているわけではない、確かな胎動が水面下で響く空間。残された体力を可能な限り温存しようと、建物全体が深い眠りについているかのようだ。
「ふぅー……さて、と。どこから手を付けましょうか。エレベーターは……まあ、非常時はロックされますよね」
一度荷物を床に下ろし、疲労感と解放感を両肺から吐き出すケイ。グッタリと壁に寄り掛かりながら、事前に頭の中へ詰め込んできた構造と、エレベーターホールの脇に設置されたフロアマップの情報を同期させていた。ハンドタオルで汗を拭きとると、数日間放棄されっぱなしだった冷気が肌に纏わりついてくる。道中ピリピリと張り詰め続けていた精神が、恐る恐る周囲を窺いながらも、次第にゆっくりと緩んでいった。
「ここの温度は、初日のミレニアムタワーと似ている気がする」。ケイは不意のデジャヴに見舞われた。同時に、あの時とは抱えている感情に真逆のギャップが生じていることも自覚する。世界が変化して以来、日常から非日常への急激な変化に襲われて、気持ちが激しく揺り動かされる機会は多々あった。けれども、今回のような、非日常の領域から日常の巨大な痕跡に飛び込むのは初めての経験だった。ここには危険がないと脳が認識し、段々とリラックスしていく過程に柔らかな快が生じていくのを実感する。──以前までなら、こんな当たり前の安全圏なんて、世界に溢れ返っていたはずなのに。かつての常識が頭の隅に染み付いているのにもかかわらず、もう既に素直な反応を示すようになってしまった自身の、ひいては人間の持つ適応力の優秀さに、受け入れがたい居心地の悪さを覚えていた。
「この高さ、部屋の多さ……まるで、アーバンファンタジーのラストダンジョンみたいです! 王様の部屋はどこでしょうか……?」
目の焦点が沈着し、濁った視界のままに思考と息を整える。そうしているうちに、ケイの肩の上から、好奇心に満ちた瞳がいつの間にか覗き込んでいた。上から下まで片道一時間弱かかる非常階段でも、彼女なら何往復も出来てしまいそうだという妄想が、そのけろっとした顔を前に浮かび上がった。
「──ここで済ませておきたいことは
「え? うーん、うーん……いえ、アリスはせっかくなので、ケイの隣で手伝えることを探します! そうですね……ここを出発するまで、アリスは勇者からケイ専属のメイドにジョブチェンジです!」
リュックの奥から連絡用のトランシーバーを取り出そうとしていたケイの手を、明るく吊り上がった口角が止める。メイド、という言葉を聞くと少し頭がクラクラする気がしないでもないが、こんなに可愛らしい召使に世話をしてもらえるならお釣りがくるか、と不思議に納得してしまう笑顔だった。
「……ふふっ、わかりました。では、メイドさんの仕事がどんなものなのか、お手並み拝見といきましょうか」
非常階段へ続く扉は非常を察知しているのか、既にロックが外されている。二人のクスクスと笑う声を添えながら、その重々しい扉を押し開けた。
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タワーの見学は早め早めに終わってしまい、その後、机に向かって成果を纏めている時間の方が圧倒的に長いなんて。本当の社会科見学も案外こんなものかもしれないと、ケイは鈍い重さが残る目を擦りながら、ノートパソコンの画面に向き合っていた。
タワーの再建が進んでいるとは聞いたことがあったが、きっとそれに際して、最新鋭の防災対策もふんだんに設けられたのだろう。全体のネットワークに不備はなく、致命的な問題を負っているサーバーも見当たらない。おかげさまで、望外の速度で情報を吸い出すことが出来ていた。このペースなら、朝日を拝む前に今後の方針を固められそうだ。
視界の端には、床の上に直で放り込まれた、その部屋には似つかわしくないパイプベッド。更にその上、むにゃむにゃと眠るアリスの姿が映っていた。豊かに広がった紺の髪は、夜空のダークブルーに浸されて、キラキラと落ち着いた光沢を帯びている。深夜零時過ぎ。ミレニアムを発つ前、夜間は六時間交代で見張りをしようと決めていた通り、数十分前に起きたケイはアリスとバトンタッチしたばかりだった。
(初日の夜は、二人共、そのまま寝てしまったんですが)
テーブル横に用意されていた、程よく温められたコーヒーを音もたてずに口に運ぶ。日が沈む前から同じ部屋で座りっぱなしだったケイを労わるために、荷物運びや食事の準備等、アリスは様々な雑事を請け負ってくれた。……まさか、別の階からベッドを一台丸ごと運んでくるとは思ってもいなかったけれど。
「……でも、それを言うなら、
部屋の一面を切り取った透明なスクリーンは、夜闇に染められた、演者のいない風景を淡々と上映している。地平線の果てまで続く大地には、ポツリポツリと何かが燃えている光だけが辛うじて残されているばかりで、そこに文明を見出すことは最早不可能だ。反対に、夜空の星々は原始の煌めきを取り戻し、遅れて浮かび始めていた下弦の月を、かつての栄光を称えんと華々しく出迎えていた。
(District of
天幕から零れ落ちた星空の光が、親の元へと帰ろうと地面を蹴る足首を掴まれて、そのまま底の見えぬ暗闇へと沈んでいく。寡黙に、そして雄大に蠢く黒い水面は万物を吞み込んでしまいそうで、それはまるで、冥界に流れる大河のような冷たさを孕んでた。
(連邦生徒会長。確か、今は代理がいて……あるいは、既に帰ってきていましたっけ。……まあ、今となっては、どうでもいいことなのですが)
ケイの背後から差し込んでいるのは、ヒンヤリと清く青ざめた月光。机上の一面を浸した流麗なる銀色は、この
ぼんやりと作業を進めるケイの頭は、気づけばこの世界の
サンクトゥムタワーの内部で、手広く、大量に情報を閲覧できる場所を探すとしたら。重要ポストに就く人物の周囲を漁ることが、確かに手っ取り早いアプローチのはずだった……だからといって──最高峰のミレニアム製デバイスを用いた物理的侵入をしているとはいえ──仮にもキヴォトスの最高責任者なのだから、もっと強固なセキュリティに守られていて欲しかった、というのが率直な第一印象だった。自身の想定していた基準が高すぎたのか。はたまた、周りから注意されてもあまり気に留めない、どこか平和ボケした人物が利用していた時期の産物を、誰かがそのままに残していたのだろうか。
(もし
理由も分からず、彼女の後ろ姿を想像しようとしてしまう。頭の中で振り返ったその顔は、いくら好き勝手に思い描こうとしても、粗くぼやけて捉えられないままだった。
都市機能の停止、インフラの崩壊……止める者のいない終焉が進行していくプロセスは、科学の法則によって長々とした理屈が捏ねられて、その不動の計算結果が生き残った二人の前に現れる。ボールを坂道に置いたのなら、下へと転がっていくのは自明の理。普遍の道理に従った、あるべき世界の終わりを見せられてきた。
──だが、そんな
(──悪い癖ですね、たらればの空想を膨らませ過ぎてしまうのは)
思考の回転を捕らえていた見えない箱が、唐突に行方をくらました。先ほどまで立ち込めていた盲信の霧が嘘のように消え去って、始めから何事もなかったかのように、ケイの意識は数分前の気怠い状態へと巻き戻っていた。
確かなのは、連邦生徒会長に秘められた事情と、アリスとケイが歩むこの旅路は無関係だということだけだろう。結局、この現象の正体に迫る情報はサンクトゥムタワーでも見つけることは出来なかった。連邦生徒会と鋼鉄大陸の数少ない間接的な接点、氷海地域を通行する極地航路の記録に異常が残されていないかと期待していた時期もあったが、それも杞憂に終わってしまった。キヴォトスを横断するこの旅路は、曲げられることなく待ち構えている。
月影の泉に指を這わせて、飛沫を立てずに机を撫でる。それきりケイが彼女を想うことはなく、これまで通りの作業へと戻っていった。
往日の影から今を生きた彼女に捧げる、一度きりの手向けであった。
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「クイズ、ですか?」
「はい! 昨日はこっそり、ケイの隣でたくさん勉強していたんですよ! アリスだってバッチリ答えられると思います!」
数時間前とは打って変わって、部屋に満ちるは鋭く新鮮な太陽光。空高く昇っているはずの月は、澄み渡った青空の向こうに隠れてしまっている。
缶詰のパインを食パンに挟んだだけの、簡素な手作りサンドウィッチをモリモリと口に詰め込むと、満足げに飲み込んだアリスが忙しなく口を挟んだ。朝食の時間を使ってこれからの計画を共有しようかと考えていたが、どうやら彼女は、聞く前に自分でルートを当ててみたいと思っているようだ。本人は意識していないのだろうが、若干食い気味に動く口元からは、「旅の舵取りの負担をケイだけに押し付けたくない」、「自分も少しは力になれるところを見せたい」という健気な主張が見え隠れする。昨日、付きっきりでケイの仕事を見守っているうちに、少しずつ育まれていった感情があったのだろう。
「……わかりました、自信がありそうですね。どこまで頭に入っているか、私がテストしてあげましょう」
「任せてください! 名探偵アリス、推理開始です!」
存在しない眼鏡をクイっと持ち上げる素振りを見ると、とはいえ本心の大部分は、ケイとのゲームを楽しみたい気持ちに溢れているようだ。愛らしい微笑ましさを足取りに乗せて、近くの床にいそいそとキヴォトスの地図を広げる。ベッド一台の大きさに勝るとも劣らない面積があるその紙の上には、主要な学園の自治地域が総じて網羅されているほどの広大な世界が再現されていた。
「これが、キヴォトスの大まかな全体図です。隅から隅まで記されているわけではありませんし、例えばミレニアムの『廃墟』のような、詳細が伏せられている地域もありますが……今回はこれで十分でしょう」
卓上のペンを取り、地図上に二つの丸をつけた。現在地と、目的地。その二点の距離は、地図の一辺の半分以上を優に超える長さだ。
「まず、問題を解くにあたって、前提となる情報を伝えておきましょうか。私たちは鋼鉄大陸の跡地まで、陸路を利用して向かう必要があります。……ただし、その道筋の最終盤。実質的に一本道な区間があるのですが……見えていますか?」
「もちろんです! 地図のはしっこの、鋼鉄大陸があった場所と地続きなのは……ここですね! レッドウィンターの隅っこを通らなければ、たどり着けない地形になっています!」
四つん這いになったアリスがぽてぽてと、水色のパジャマの袖を引き摺って、一足先にキヴォトスを横断していく。片手に握られた赤いペンで、躊躇いなくルートを紙に書き込み始めた。
「その通りですね。更に言うなら……常識外れの大迂回をしない限り、そのレッドウィンターの郊外にアクセスするにはゲヘナ領の近郊から侵入することに──」
そう言い終わる前に、アリスの手元から伸びたペン先は既にケイが想像していた場所まで下がり終わっていた。顔だけこちらに向いたアリスの表情は、すっかり鼻が伸びているようにも見える。
「……まだまだですよ、アリス。問題はここからです。私たちはここからゲヘナまで、どのルートを通るのが最も適しているのでしょうか?」
ゲヘナ、レッドウィンター、氷海地域。この三地域の道のりだけを合わせても、D.U.から終着点までを直線で結んだ距離の半分強といった長さだろうか。そこまでに通過しなければならない、残り半分。ルート取りの自由度が急激に増す区間であったが、それは同時に、安全な道筋を策定する難易度も上がっていることを示していた。
「うぅん……えっと。まずこの、トリニティの真ん中を横切る一番距離が短いルート。ここはダメだと思います! たくさん街を通らなければいけないですし……それでは、混んでいる道ばかりに当たってしまいます! 進軍スピードにデバフがかかるのは、思っているよりも辛いものです……」
「私も同じ考えですね。自治区を繋ぐ幹線道路が使い物にならなくなっているのは当然として……なるべく交通量が少ない地域だけを選んで通行しようとしても、実際に行ってみるまで道路の状況が分からないケースの方が圧倒的に多いでしょうし、適切な順序を選び続けるのは困難なはずです」
連邦生徒会の交通室に集積されていた、各地のライブカメラ映像を思い返す。D.U.のあちこちで目にした道路の混乱は、今のキヴォトスにとっては珍しくもないものとなっていた。最短距離に近い道筋を強行突破しようものなら、むしろ大幅なタイムロスを喰らってしまうことは想像に難くない。
「そうですよね……なら、少し遠回りになってもいいから、人の多い場所を通らなくて済む道路……こうやって、海に沿って進んでいくのはどうでしょうか? これなら、そこまで時間は掛かりませんよ!」
胴の正面に構えていた腕を、肩を引っ張り上げる勢いでグイッと外側に伸ばして、大陸の形をなぞり上げる。そこそこの規模の港町やリゾート地が何箇所か前方に見えているものの、下手に内陸部を彷徨うよりかは遥かに明確で安定しているルートだった。
「悪くない発想です。しかし、一言に海岸線沿いといっても、すぐに迂回路を見つけられる場所もあれば、分かれ道のない区間が延々と続くこともあります。若干、リカバリーの余地に不安が残るルートだと私は思いましたね」
「あ……たしかに。もし何か大変なことが起きた時、後ろに戻るしかできなかったら困りますよね」
「それに……仮に都合の良い道があったとしても、やはり海沿いに近づくのは控えておきたいです。長閑な海辺を眺められる時間が用意されている一方で、繊細な施設がすし詰めにされている場所も多いですから」
輸送コストを削減するために、船舶のアクセスが容易な沿岸部に造られたコンビナート。冷却水の補給のために、大量の海水を汲み上げる発電所群。もしそのような、危険性のある物質を扱う施設が取り返しのつかない事態と変貌していたら。傍を通り抜けること自体が困難であるのは承知の上で、それ以上に警戒しなければならないことがあった。その惨状が目視できない場所にいながらも、遠距離にまで拡散した化学物質によって気づかぬうちに重大な被害を受けていた、なんて可能性だ。
主要な貿易船、連絡港からの最後の連絡の殆どは、人が消える前の時間帯で途切れている。果たして現状はどうなっているのか。……触らぬ神に祟りなし、といったところだろう。
「うわーん……難しくなってきました……。つまりケイが言っているのは、『都会に近づかない』で、『周りに事故が起きていそうな施設がない』、しかも『選べる道が多い』ルート、ですよね? 本当にそんな道、あるのでしょうか……」
D.U.とゲヘナの郊外を交互に見つめるアリスの瞳は、だんだんと動く速さを増していった。中々納得できる答えが見つからないのか、道を辿ってじりじりと線を引いては、その先にバツ印をつけることを繰り返す。遠くから眺めていると、上手に破裂しなかった花火の残光が空に並んで、奇怪な星座を形作っているような光景が出来上がっていることに気が付いた。
左から右へ、右から左へ。頭を抱えて、首を傾げる。机の上の紙皿とコップは端に寄せられて、二人のリュックサックが綺麗に整頓されていた。そろそろヒントを出してあげてもいいかと、朝の準備を簡単に進めていたケイが考え始めたその瞬間。
「……もしかして」
先ほどまでジタバタと身じろいでいたアリスの動きが、ピタリと静止した。
「……ケイ、この地図は細かく書かれていない場所があると言っていましたが……車が通れる道も、全部は書かれていないのではありませんか?」
「ええ、そうですね。特に、開発が滞っていて情報の更新が間に合っていないような地域では顕著だと思いますよ」
どうやら、ケイの返答に心当たりがありそうだ。その目線は、ある場所へ釘付けになったまま暫く固まったままだった。
「──でしたらアリスは、思い切ってこうしてみます!!」
目一杯に伸ばした腕を回して、大きく開いた円弧を描く。赤の行進が、地図の端の端、周囲から隔絶されてポッカリと窪んだ空洞を二つに引き裂いていた。
「どうですか……!?」
「……やっぱり、アリスは賢いですね。私と同じ想定解。大きな花丸を付けるに値する発想力です」
アリスから受け取ったペンをスラスラと動かすと、孤独な道の上に一際巨大で美しい満開の花が現れる。
「アビドス砂漠」。その穴の中心に記されていた孤独な文字が、花弁の振り撒く優しい熱にあてられて、何故か僅かに脈打ったような気がした。