沈む。沈む。
旅の景色が巻き戻り、浮かび上がるは、すべての原点。
触れる。触れる。
酷く見慣れた始まりの扉、取っ手を握る、
あの日、あの時、あの瞬間。この世界に何が起きたのか、長らく答えを探し求めてきた。でも、そういえば……こうして記憶と向き合ったのは、初めてのことだったような。
どこまでも続いていくと見せかけられていた、ハリボテの日常。ドアノブを押し込み、その境界線を踏み越える。歪んだ視界、響く耳鳴り。織物の表面から切り取られ、自我が虚空へと投げ出された刹那。鈍色に塗れた霧の彼方に、「それ」が一度だけ、微かに瞬いた気がして。
母が子を見つめるのにも似た、愛情揺らめく小さな灯りが────
────ふぅん、成程。あなたには
◆◆◆
ブツ切りの意識が呼び覚まされたのは、穏やかに横たわる暗闇だった。
自分は、仰向けの恰好で……うん、どうやらこの場で眠っていたようだ。首を転がし、しぱしぱと瞬きをする。少ししてから、今いる場所が車の中のベッドスペースであることに気が付いた。ビナーとの逃走劇が終わった後、確か……。細く絡まった記憶の糸をたどたどしく手繰り寄せていく。次にいつ起きるか分からなかったから、すぐ車のエンジンをかけて、道すがら予備で残っていたドローンを調査に向かわせて、十分にビナーの元から離れられたことを確認してから車を停めて、ハンドルに寄り掛かっていた所をアリスにベッドまで運ばれて……。
ああ、疲労の限界が来て、それで今まで寝ていたのか。妙にさっぱりとした──アリスが丁寧に拭いてくれたのだろう──体を起こして、吊り下げ梯子を降りていく。ブーン……と静かな電子音が鳴る方に近づくと、慣れた手つきでパソコンのスリープモードを解除した。目を放していた時間もプログラムは走らせていたが、映し出される精査の結果に、案の定、目ぼしいものは見当たらない。
静まり返った孤独な車内を、背筋を伸ばしてゆっくりと見渡す。さて、アリスは。降りたばかりの梯子を再び掴み、今度は天井近くまで頭を寄せる。そうしてハッチを外側に向けて、カチャリとゆっくり押し開けた。
昼間の厳しい暑さからはかけ離れた、ひんやりと沈着する空気が髪に触れた。身を撫でるそよ風すらも吹いていない、ピンと張り伸ばされて固まった世界。目の前に佇む彼女がいなければ、世界から時が奪われてしまったと錯覚していたかもしれない。
夜闇に溶けたアリスの横顔。車の屋根に腰掛けている友の視線の先には、新月の夜、誰の光に遮られることなく、「私はここにいるよ」と手を振っているかのように、群星の一粒一粒が伸び伸びと煌めいていた。
「……ケイ、おはようございます! まだ交代の時間ではありませんが……ぐっすり眠れましたか?」
ええ、よく休めましたよ。緩やかに視線を交わしながら、アリスの隣に身体を寄せる。彼女の静かな微笑みは、砂原から跳ね返る白みがかった星光で照らされて。満天の空が映り込んだ蒼い瞳は、見つめていると宇宙の彼方に吸い込まれてしまいそうな、ミステリアスな美しさに満ちていた。
「アリス。先ほどは……ありがとうございました」
「……?」
「いえ、その。……きっと私一人だけでは、無事でいられなかったでしょうから」
首を傾げきる間もなく、アリスは口角を上げて納得を示す。人を助けることなんて、彼女にとってはもう息を吸うのも同然の行為であるのだろう。
「仲間との助け合いは勇者の必須条件ですから! ……相手が大事な家族なら、なおさらです」
こうして顔を見合わせ笑うのも、何度目のことか覚えていない。それでも、こんな予定調和に満ちたやり取りであっても。彼女達の間に生まれているのは、新鮮で得難い、二人だけのために用意された特別な親愛であった。
◆◆
「──それで、どうでしたか? ビナーがドロップした『メッセージ』は」
ケイによる渾身の一撃。それが命中して以来、今この瞬間も、ビナーはあの場所で停止したまま取り残されていた。目を覚ます前になるべく遠くへ、とその時は気に掛ける間もなく現場を後にしたが、後追いで調査を続けているうちに、段々といくつかの新事実が判明していった。
「停止したまま」とは言ったが、「より深い眠りに落ちている」というのが現状に即した表現だろうか。最初に遭遇した時が
「あれ以上のことは、何も。それだけでも、今の私たちにとっては……手に余る事実ですが」
戦闘後のビナーの様子以上に、ずっとずっと不可解だったもの。決着がついた直後、その場で機能していた全てのデバイス目掛けて(つまり、二人に宛てるかのように)送信されていた、或る特殊なシグナル。最終的に、数時間前、炎天下のケイが辿り着きかけていた情報の全景だったと判明した、奇妙な手掛かり。
そこには驚くべきことに、全てが始まったタイミング、鋼鉄大陸の跡地から発信されていたあの信号と寸分違わない内容が記されていた。コードの配列パターン、ログデータの詳細……受け手の情報以外の全てが同一の鏡写し。車に積んであるデバイスのストレージからコピーアンドペーストしたものだと言われても、恐らく簡単には気づけないだろうほどに、そっくりそのままのデータが送られてきたのだ。
「なるほど……つまり! …………どういうことでしょう? 鋼鉄大陸から信号を出していたのも、ビナーの仕業だったのですか?」
「さて、どうでしょうか。断言はできませんが……私は少し、別の仮説を考えています」
もし、ビナーがゼロから作り出したシグナルなのであれば。先ほど発信された信号には、下手な小細工を施していない限り、「今日のこの時間に生成されました」とその通りのログが残るはず。しかし、受け取ったデータにそんな記載はどこにも存在しない。確かに言えるのは、そのシグナルと二人が過去確認したものが完全に一致する、ということのみ。
「──だから、ビナーも私たちと同じように、この特異現象に巻き込まれた側なのではないか。あの日、自分も信号を受信していたのだと伝えるために、過去それを受け取った履歴を一切手を加えないまま送ってきたのではないか。……そう捉えることも、出来ますよね」
「アリスたちと、同じ……」
「仮にそれが真実だとしたら……デカグラマトンの預言者だからこそ気づけた、『何か』が含まれていたのかもしれません」
信号の残滓はビナーの最も外側の領域に、アーカイブ化されることなく放置されていた。それはつまり、外部から到来したその
「あなたは何を知ったのですか? 何をしようと、していたのですか……?」
私達が砂漠を訪れた時、最初に目撃した、天高く顔を突き上げる白の巨塔。意図の掴めなかったあの姿に、実は何かの役割があったとしたら。地下から迫っていた脅威から逃れようとした? 地肌を可能な限り外気に晒さなければならなかった? 大胆に身体を露出して、誰かに気づいてもらう必要があった?
……或いは、高高度から空を見渡し、何かを見つけ出そうとしていた?
「────星を」
その澄んだ眼差しは、天に広がる星屑の海を潜り抜け、暗黒の帳の奥深くで待つ宇宙の果てを見透かしているかのようで。
「……アリス?」
「星を、探していたのかもしれませんね」
暗雲立ち込める大事件の謎にはまるで相応しくない、ロマンティックな御伽噺。……御伽噺であるはずなのに。でも頭のどこかで「そうかもしれない」と思わず考えてしまう、延々と耳に残る冴えた鈴の音にも似た響きが、その呟きに籠っていた。
「ほら! 例えば空をずっと見ていないといけない……流れ星とか!」
「……ふふっ、そうですね。ビナーにも、願い事があるのでしょうか」
◆◆
空白の埋まらない答案用紙は端に寄せて、一度休憩の時間にしよう。旅の一時、少しばかり頭を悩ます時間から解放されても、きっとバチは当たらない。
夜空を眺める姉妹の会話は、自然と星の話題へと移っていった。夜の見張り番をするアリスがよく屋根の上に登っているのは、元より星空を観察するのが好きだったからでもあるのだろう。
「はい! 先生やヒマリ先輩に、色々なことを教えてもらいました!」
これもプレゼントしてもらったものなのですよ! と、折り畳み式のコンパクトサイズな望遠鏡を、せこせこと空いたスペースに組み立てていく。
「気になる星はありませんか? アリスが見つけてあげます!」
時には天に向かって小さな指を向け、時にはケイに望遠鏡を覗くように肩を押して、お気に入りの話題を共有できて目を光らせながらはしゃぐアリス。数時間前までヘトヘトに疲れ果てていたことも、すっかり忘れてしまったようだ。狭い床の上で二人はわちゃわちゃと動き回り、マンツーマンの賑やかで楽し気な講義がしばらく続く。
そうして星は巡っていき、いつしか彼女達は、隣り合わせでぴたりと座って空を見ていた。
「……そういえば。ケイの武器にも、星の名前がつけられていますよね」
「ええ。『エアレンデル:ルミナス・ノヴァ』。……遠き地の星明り、という意味ですよ」
万物が一点に交じり合う、遥かな遠き彼方に浮かぶ極点の星。過去も未来も同じ座標に重ね合わせで存在し、それ故に
「いつまでも続く星のともしび……うん。やっぱり、ケイにぴったりの名前です!」
「そう、でしょうか。嫌いとまでは言いませんが……私が抱えるにはやや仰々しい由来といいますか」
ケイが訝しげな反応をしてきたことに気づいて、しばらく横に向けていなかった顔をずいっと近くに寄せてくる。
「そんなことはありません! ケイはアリスのことを、もうずっと……
予想外な反論だった。昔の自分と今の自分。全くの別人であるとは思っていないが、やはり今となっては別物であるという感覚が強い、いわば異なった自我を持つ自分。「天童ケイ」である私の視点は、ブレることなくアリスを見据えている。しかし、今の私になってから時間が経っているからか、それとも、無意識に昔の自分を避けようとしていたからか。「他の私」がどのように考えていたかを掘り起こすには、セピア色に褪せた写真の如く漠然とした記憶を探らなければならなかった。
「それは……その時々で、
どう答えればいいのか分からなくなり、しどろもどろに言葉を紡ぐ。アリスに向けるこの感情は、一体いつから私のものになったのだろうか。
「でも、ケイの心の真ん中にあった気持ちは、きっと今も昔も変わっていないと、アリスは思います」
「……どうして、ですか?」
隅に置かれた望遠鏡のレンズの中を、一筋の光が流れ落ちた気がした。
「だってあの時。──アリスが消えてしまうかもしれなかった、あの日。初めて自分のしたいことに出会ったケイは……アリスを守ることを、選んでくれましたから」
かつての決戦の物語が、脳裏にハッキリと思い起こされる。己の信念に従って、自身の望んだ姿を貫いて、一生懸命に世界を守ろうとしたアリス。……たとえ自分が、消えることになったとしても。そんな悲しい結末は、ケイには許容できなかった。消えるべき人間を選べるのなら、世界に害を為す自分の方だと考えていたから。
そして、一途な理想に手を伸ばす「アリス」の在り方を──美しいと。目を焦がす一等星のように美しいと、感じてしまったから。
「…………ぁ」
胸の奥底を突き抜けた先、自分でさえも触れることのできない、アイデンティティの核で脈打つオリジン。ケイの起源とも言えるその言葉は、あの日から絶え間なく熱を発し続けている。
”なりたいものに、なっていい”。
どこまでも甘い言葉で、呆れるほどの綺麗事。それでも、私はその柔らかな声に。それが放っていた力強い熱に、どうしようもない憧れを抱いてしまった。燻っていたルビーの憧憬が、アリスの光を受け止めて、キラキラと輝いて。過去の”
(ああ、そうか──)
この感情を自覚した時。これこそが、アイの形だと知ってしまった時。きっと私は、「ケイ」へと生まれ変わったのだ。
「──アリス。今の私も、あなたを……あなたを照らす星に、なれていますか?」
「……! はい! もちろんです!」
身体がむぎゅりと温かいハグに包まれた。すぐ横には、かつて焦がれた満面の笑みが広がっている。
「ケイ。さっきの戦いを覚えていますか? ケイがMPを全て使って撃ち込んだ必殺技。大空を塗り替えてしまえそうな、きれいで、眩しくて、勇気にあふれた……いつまでも思い出に残る、あこがれの一番星。アリスには、今のケイがそんな風に見えているのですよ」
「生徒」としての在り方を選んだ自分自身に、まだまだ納得できないところはあるけれど。アリスの瞳に照り返すケイの笑顔もまた、とっくに同じ星明りを宿していた。
「まったく、一時はアリスへの呪いとさえ思っていた言葉だったのに……人は変わるものですね」
「えへへ。ケイもアリスと一緒で、先生のことが大好きなのは嬉しいです!」
「好っ……!? いやっ、そういう話じゃなかったですよね!?」
この感情がどこから始まったものなのか、今となってはもう分からない。昔の自分と今の私は、全てが繋がっているわけではないから。愛情だって、元はと言えばそうするように命じられた、第三者によって作られた規則だったのかもしれない。
それでも、この気持ちは本物だと信じていた。みんなに、彼女に親愛を向けられることを、幸福に思っていた。アイを一心に愛しているのは、紛れもないケイの真実だった。
傾いた顔が満天の星を見上げて、時たま一言二言会話を交わして、またしばらく沈黙が続く。
何もかもが崩れたキヴォトス、行方をくらませた人々。使命を背負った勇者と只人の二人だけが、ここにいる。アリスとケイを中心に、世界がゆっくりと閉じていく。
事件は何も解決していないのに、こんなことを思ってしまうのは、少し不謹慎かもしれない。それでも、二人で過ごしたこの時間は。誰もが望む安らかな永遠のような、儚く尊い瞬間だった。