『〇月×日。天気、晴れ。特異現象の発生から、二十三日目。
昨日から引き続き、ゲヘナ郊外の山間部、山の中腹を走る廃れた車道に沿って進行中。麓の盆地には中規模の市街地が広がっているが、人為的な活動の痕跡は観測できず。予定に変更はなし。寄り道を最小限に現状のペースを維持していれば、数日後にはレッドウィンター領に進入できる予定だ。
「ごちそうさまでした! ケイ!」
車両整備の必要なし。一週間前に発生したインシデントの影響は、もう残っていないと考えてもいいだろう。数日間エンジンを冷やす判断をしてまで、車両の隙間という隙間から丁寧に砂埃を掃き出した甲斐があったというものだ。あんな荒野のど真ん中から徒歩に切り替えていたら、未だ砂漠を彷徨い続けていたに違いない。
ミレニアムを発って以来、まともなメンテナンス環境に恵まれていないのが若干の不安要素だが……少なくともあれ以降、致命的な損傷に繋がる問題は現れていない。日々の簡易検査を怠らずに、引き続き注意しながら進行する。
かちゃかちゃ。ぱたぱたぱた……。ぼふん。
喫緊の物資補給の必要なし。食料品は想定以上に持ちがよく、インスタント食品や缶詰のストックには未だ余裕がある。強いて言えば、数週間も車中泊を続けている弊害で、食事にやや飽きが出てきたことだけが気掛かりか。とはいえ、工夫を凝らしてお手製のレシピを考えるという余暇の使い道があるのは、精神衛生上悪いものではないだろう。アリスもよく楽しめているようだし。
「うーん……しっぽがくるくる、目がまわる……」
……生活用水の補充も、今すぐに迫られているものではない。サンクトゥムタワーにて入手した情報通り、砂漠横断鉄道の或る区間に停泊していた貨物列車。──運転士が消失したのがカーブに突入する直前だったからか、「停泊」ではなく殆ど「脱線」しているようなものではあったが。探し出すのにそこそこ手間取りはしたものの、目論見通り、積まれていた大量のボトルを拝借できていた。
砂漠の長距離移動を干乾びずに乗り越えられたのは、それらの資源のお陰と言っても過言ではない。使い切れていない余剰分だけでも、あと一週間は持つ水量を確保している。道なりに進んでいけば、それまでには補給が行える地点まで到達できる見込みだ。
その他の物資、燃料に関しても現状は問題なし。アビドス領を踏み越えて、鋼鉄大陸跡地までの距離は残り半分弱といったところか。ここまで来れば大きな回り道は必要ない。なるべく時間を無駄にせず目的地まで向かいたい──
「わぁ、また新しい子が! 今度は……いとこの子でしょうか?」
──向かいたかった、が。夕刻前、進路を塞ぐ野生動物の群れに遭遇。当初は強引な突破も視野に入れていたが、アリスの提言を受け入れ、本日は現場前での停泊を決定。明日はこのアクシデントの分、時間を前倒しにして出発する予定だ。以上。』……と。
◆◆
日記帳をパタリと閉じて、ケイは気怠げにソファーから立ち上がった。シンクに積まれた食器を重ね、トマトスープのこびりついた鍋共々水に浸す。肩に圧し掛かる程よい重みと、窓から漏れるクリーム色の陽光が、彼女にとって、繰り返される一日の終わりの象徴だった。
「結局ずっと、居座ったままでしたか」
運転席に深く腰掛け、惰性のまま視線をフロントガラスの先に向ける。そこには、狭い一本道を占拠する焦げ茶色の毛玉たち──アライグマの大家族が、変わらず……いや、先ほど確認した時よりも若干数を増やして、何食わぬ顔でくつろいでいた。
「アリスたちと一緒で、ちょうど食事の時間だったみたいです!」
助手席から身を乗り出し、窓ガラスにべったりと張り付いていたアリスが指を指す。あの木の実の散乱っぷりを見るに、それはまあ悠々としたディナータイムだったのだろう。まるでこの場所が自分たち専用の集会所だと言わんばかりに、こちらの存在を一切意に介していない。
「はぁ……そうですか……。本当に警戒心の欠片もない、と」
この時期は確かにアライグマの繁殖期だし、ゲヘナに生息する数は特に多いと耳にしたことがあった。故に、こうした遭遇イベントが発生すること自体は、決して珍しくはない。だからといって、こんな近距離まで接近しているというのに逃げる素振りも見せないというのは、流石に人馴れし過ぎているのではないか。消失せずに終末世界で生活を続けているということは、ペットや家畜ではなく正真正銘の野生動物ではあるのだろうが……。
「この道路の上がアジト……では、なさそうですよね。この子たち、ちゃんとしたお家に住めているのでしょうか」
少し驚かしてやろうという悪戯心で、こちらを向いた一匹をジットリと力強く見つめてみる。しばらく目線に気が付かずポケ―ッとしていたアライグマは、キュルル~とケイをあしらう素っ頓狂な鳴き声を発した後、直ぐに背中を向けて寝転がってしまった。
「う……何だか、体よくからかわれているような……。
「わわ、落ち着いてくださいケイ! 今日はもうこのまま放っておくと、さっき決めたばかりじゃないですか!」
予定になかったハプニングでただでさえ遅れ気味だった進行を阻まれ、終いにはその「ハプニング側」に手玉を取られているような状況。ケイの頭からぷんぷんと漏れ続ける煙を、あわあわとアリスが扇いでいる。
アライグマは基本的に、非常に気性が荒い動物だ。人に懐くことは稀で、都市に住み着き農作物を荒らすことから、むしろ害獣として扱われることの方が多い。無暗に近づけば顔を引っ掻かれるかもしれないし、感染症を貰う危険性もある。こう生態を並べてみると、わざわざ外に出て対峙する意欲は失せるものだが、まあ、車を近づけて少し威圧してやればたちまち何処かへ逃げ去っていくだろう。そんな楽観的な考えで、最初は高を括っていた。
「くっ……。こんな平和ボケしている動物相手に、ここまで負けた気分にさせられるなんて……!」
まさかどれだけエンジンを吹かして、クラクションを鳴らしても、威嚇行為の一つもなしに寝転がったままでいるとは思わなかった。ヴァルキューレが暴走車両に用いるスパイクトラップのように、横一列に車の通り路を塞ぎ続ける動物たち。「それ以上驚かせるのは、少しかわいそうです……」、「今日もいい時間ですから、ここで休みにしませんか?」なんて甘々な提案を素直に呑んでしまうまでに、長時間のにらめっこの末、ケイはすっかり根負けしてしまっていた。
「で、でも! こうして見ていると……ほら! かわいいところもありますよね!」
「かわいいって、そんなこと言われましても……」
中心でだらだらしている親と思しき数匹は、小さな口をくわぁと開けて欠伸をしている。周りを元気に走り回っている可愛らしい個体は、生後数か月程の子ども達か。ふりふりと揺れるお互いの尻尾を追いかけて(きっと触れたら、ふわりと手が沈みこんでしまうのだろう)柔らかそうなモフモフの毛皮を擦り合わせながら、楽しそうにじゃれ合っている。黒ぶちの目元に覗くつぶらなおめめが二つ、ころころ光を転がして、キュルンとあざとく並んでいた。その愛くるしい仕草を見ていると、思わず胸がときめいてしまいそうに──
「──いやいやいや。私をなびかせたいのなら、アリスの可愛さを見習ってからにしてください!!」
「むむ、ケイの頑固さは……一面ボス級といったところですか」
ぶんぶんと首を振りながら立ち上がり、席の肩を押して一人と数匹に背を向ける。
「とにかく! ……先にシャワーを浴びてきます。さっきも言ったように、外に出て触れ合ったりはしないでくださいね。色々と危ないですから」
いそいそと車内後方の収納棚を開け、就寝前のいつものセットを次々肘の上に重ねていく。畳まれたパジャマ、ふわふわのタオル、お気に入りのヘアケアセット……。そうしてひとしきり抱え込むと、何故か、ほんの少しばかり……。そう、誰かとの掛け合いの分だけ、重みが足りないような気がして。
振り返った先にあったのは。沈黙したアリスが微動だにしないまま、両手を耳に当て、限りなく息を潜めている。そんな嵐の前触れの体現だった。
「アリス?」
「──何か、聞こえませんか? この音……キーンと響いて…………」
喉元まで出かかっていたケイの返答は、無理やり肺の中に押し戻されていた。
ドォォーーーーーーン!!! と、真横に雷が落ちたような身を跳ね上がらせる衝撃音が、この場にいる生き物たち、種族問わず全員に襲い掛かった。床に落としたタオルを蹴り付け、すぐさまアリスの元へとUターンする。窓の外を埋め尽くしていたのは、騒めく山林からバサバサと飛び立つ鳥の大群。すっかりパニック状態に陥り、揉みくちゃになっていたアライグマたちが、我先にと麓の方へ駆け下りていく姿が視界の外に消えていく。
「今のは……街の方からですか!?」
「は、はい! 多分! でも、その前に……」
内と外で板挟みになっている目線を辿ると、アリスが言わんとしていることには簡単に辿り着けた。当の本人は、ケイの顔も碌に見ず、今にも外へ飛び出そうとしているのだが。
「──ああもう、アリス! ちょっと待ってください! ……はい、せめてこれくらいは着けてもらわないと困ります!」
ガサゴソと運転席のサイドポケットを漁り、引っ張り出した軽作業用の軍手をアリスの手のひらに握らせた。ケイも同じように指を通すと、キャンピングカーの両側から、ガチャリと扉が開かれる。
辺りに広がっていたのは、先ほどまでの大混乱から一転して、不気味なほどに静まった寂莫。そしてその中心、ちっちゃな生命が独りぼっちで、ひっそりぷるぷると震えていた。
「逃げ遅れてしまったのでしょうか……」
アリスはそっとしゃがみ込み、薄い布で割れ物を包みこむように、恐る恐る視線を落とす。遊んでいた子供たちの中でも一番小さな個体。きっと生まれたばかりなのだろう。何が起きたのかも分からずに、弱々しくその場で泣き続けていた。
一貫して壁を作っていたケイでさえ、きゅうきゅうと胸が締め付けられる孤独な声を。それを耳にしたのが勇者だったのなら、世界を壊された時と変わらない、心の傷みを抱くのだろうか。
「ケイ、この子の──」
「『この子の家族を探してあげたい』、でしょう?」
車の中で手玉に取られていた時の、コロコロと変わるふざけた雰囲気は消えて、今度は真剣な表情でアリスの後ろに立つ。たとえ、目の前の彼女の信念が徹頭徹尾変わらないとしても、会話の中でそれと対峙し、時には道を示すことが自身の役割だと自覚していた。
「ですがアリス。誰かのペットであればともかく、その子はあくまでも野生の存在です。無暗やたらに干渉するのは、賛成しかねますね」
「う……でも…………」
──でも、アリスなら。
「……でも。目の前で不安そうに泣いている子を無視するなんて、アリスには出来ません……!」
そうだ。それがアリスだった。別の言葉が返ってくることはないと、ケイは疑いもしていなかった。まるで自分すらも孤独の涙に溺れたかのような共感の顔色は、アリスの美徳そのものだといっても過言ではない。
もしかしたら。この終末世界にとって、その光は。
少し、眩しすぎるのではないだろうか?
数秒、互いに瞳を見つめ合う。最初に動いたのはケイの方だった。小さく溜息をついて、カーブの外側を走るガードレールに手をかける。湿った山肌にちらほらと残っていた足跡は、一直線に麓の盆地を目指していた。
「逃げていったのは街の方向で……例の音も、調査しないわけにはいかないですからね」
「あ……じゃあ……!」
「今回は最初で最後の特例です。ほら、早く準備に取り掛かりますよ! 日が落ちる前に終わらせるつもりで!」
あれやこれやと指示されて、気合の入った駆け足で車内へと戻っていく勇者の足音。自分は少し、アリスに優しすぎるだろうか。斜陽に混じった甘い毒から舌を遠ざけ、無意識に呆けようとしていた頭。「特例」という条件はいつもの譲歩ではなく、本心からの言葉だった。
「今日は、久々の残業ですね」
ガードレールに手を掛けて、再び眼下の街並みを一瞥する。何の変化が生じたのか、肉眼では何も捉えることは出来ない。けれどもそこには、未知の発する怪しさというものは全く感じられず。街を包みつつある宵の闇は、不思議なことにケイ達を歓迎する引力を帯びていて、懐かしい君よと、淑やかに手を招いているように見えていた。